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我が子と共に生きる
愛知県 堀江 勢津
【はじめに】
 娘(長女)は十九歳。今春、社会福祉を学ぶ大学生となりました。
 大学生活は、ノートテイカー募集の呼びかけ、説明、スケジュール管理のやり方を学ぶことから始まりました。自らが発信し動いてゆける人材を、社会に輩出してゆこうとする本学の方針によるものです。お陰で娘は、新しい環境の中にも理解して下さる友人や先生に恵まれ、大学内外での生活をイキイキと前向きに楽しんでいます。高校までとは違って、自分の目と足で友人関係の幅をウンと広げられるようになってきました。特に、同障の学生との交わりは学内だけでなく、活動を通して全国にも繋がるようになりました。先日、全国ろうあ者体育大会で金メダルをいただいて帰宅し、驚かされました。
 又、祖父から授かった入学祝のノート型パソコンに、二千七百円で見つけてきた念願のWEBカメラを取り付けて、後輩とチャットで話すのが今一番の楽しみになっています。(初めて私も写してもらいましたが、ゆっくりの手話ならよく読み取れました。便利な時代になりましたね)当面の目標は、自動車学校へ通う費用をアルバイトで貯めることなのだと、学業との両立に奮起している毎日です。
 そんな娘の生い立ちと共に、我が家の歴史を振り返って、これまでの歩みを一言で著すとすれば、『家族としての、当たり前のあり方を求めてきた』に過ぎないのかなと、しみじみ思う昨今です。とは言うものの、単に平坦な道であった訳でもありませんし、反省するところも次から次へと思い浮かんできます。
 そこで、自分の歩んできた道のりを、今一度しっかり振り返ってみようと、筆を執ることにしました。
 
【聴覚障碍を知って】
 障碍告知は、娘が三才三ヶ月、今から十六年前の秋に、偶然にも難聴児療育施設の非常勤をされている近くの開業医の診断により受けました。東京へ転勤した主人と一緒に、大阪から転居して約一年、やっと関東の生活にも慣れてきた頃でした。
 直ぐに療育センターへの入所措置が取られたものの、正確な聴力を測定しようにも、滲出性中耳炎でスケールアウト(測定不能)の状態が続き、補聴器選択もままならぬスタートでした。じきにウエハースやストローを駆使して舌の動きや息の出し方を習得させる等の発音指導、口元を隠して音を聞き分ける等の聴能訓練、聴覚口話法を学び、実践する日々となり、母子での格闘が始まりました。とにかく目先のことに捉われていて、聴力の変動、発音の改良度、言葉の獲得状況、補聴器の具合などの良し悪しに、振り回されてばかりの毎日でした。主人には「一時だけの数字で、右往左往するな」とよく叱られましたが、朝目を覚ましてから就寝するまでの限られた時間内において、その時点の娘の状態が私の全てでしたから、「元気だけど鼻水が出ている→いつもより聞こえていないようだ→滲出性中耳炎か→先に耳鼻科へ診察券を投入しておこう→療育の時間に聴力検査を申し出よう→今日の日記の話題はまた『耳鼻科』になるのか→明日は休まず療育センターは行けるのだろうか」と言うような思考が、らせん状に繰り返される生活でした。
 後になって、「格闘」ではいけなかったなとつくづく思います。けれどもこの頃の私は、「この子にとって必要な事を率先できる、聴覚障碍児のための優れた母親に少しでも早くならなければ」と躍起になっていたのです。四六時中いっしょに生活できるのは、紛れも無く母親の自分なのですから、怠けてはいられません。誰になんと言われようが、やるしかないのです。
 まず始めの頃は、図書館で医学書を紐解き、耳の仕組み等をノートに写して覚えました。限られた診察時間内でのドクターとの会話で、いちいち細かい質問は出来ないので、基本は知っておくべきだと思ったからです。補聴器の仕組みは書籍や資料を読んで、品種、店舗情報は駅前や役所を歩いて調べました。福祉の現場で使われている用語(措置、通所、減免など)や、療育の用語(聴検、フィッティング、聴能訓練、養訓など)は専門家に何度も聞き返して理解しました。難聴児を育てた経験を、書籍や講演会、記録テープ等でむさぼる様に見聞きしました。古い友人(大阪の耳鼻科医)や、かつての同僚(医薬情報担当者)に、遠慮なく現代医療の話を聞いたり、難聴児学級の有る近くの小学校へいきなり電話して、行く末を相談したのもこの頃です。インターネットなんて無い時代でしたから、より新しい情報を求めて「誰に聞いたら良いのか」「どこで教えて貰えるのか」と必死に奔走しました。
 告知されて初めて目の当たりにした「耳の障碍」。想像すらしたことの無かった世界です。上手く話せない原因が、聞こえないことにあったなんて、それまで全く知りませんでした。「これ以上『知らなかった』と後悔したくない。」と、奮いたたせるより他に、自分を保つ手立てが見当たらなかったと言うのが正直なところだったのかもしれません。
 療育センターに通い始めてからは、毎回出される宿題(カレンダーと日記の記入)に加えて、自宅でカードを作り、目に見えるもの、見えないものに関わらず、文字と絵に表して、そこら辺りに貼付したり、丁度興味を持ち始めて書き出していた“ひらがな”を組み合わせて単語を見つけると言ったような遊びを通して、娘には意図的に新しい言葉を見える形にして与え、認識させるようにしていました。
 感情の表し方「悲しい、辛い、怖い、嬉しい、楽しい、つまらない」や、「あげる、もらう」を理解させるには、そのシチュエーションを何場面も設定して、母子でやりとりを幾度となく繰り返しました。
 障碍を知る以前から利用していた図書館では、それまでの絵本に加えて、紙芝居も借りるようになり、オーバーな振りをつけては臨場感を出し、近所の子が遊びに来た時には、みんなで一緒に楽しめる機会を増やしました。
 必要か否かを考える間もなく、「聞こえの少ない分、目からの情報を入れてやらなければ」、「私が窓口なんだ」とひたすら自分に鞭を振って暮らしていました。
 「子どもの状態が見えてもいないのに、闇雲に突進すべきではない」「もっと耳を使うことを進めないといけない」と指導者から伺う機会もありましたが、この頃の切羽詰った心情は、頭から否定されて収まるものでは決してないと思っていました。「〜してはいけない」と言う助言は、娘の将来を見限った表現にしか聞こえてきませんでした。「どんな手立てでも、打つ手があれば試したい。この子に合う新しい方法が見つかるかもしれない。」「誰か教えて!誰か助けて!」と心の中で叫び続けて、走っていました。しかし行き着くところは、「やはり自分でやるしかない。」と百々巡りが続くのです。こんなに複雑で、どこにも持っていきようのない思いは、一体どうやって消化したらよかったのでしょうか。
 今でこそ、同障の子を持つ親の会や、地域の集まり等の色んな活動を通して、お互いの思いを共有したり、励ましあったり出来る仲間がいてくれますが、日々の忙しさに翻弄されている幼児期のこの頃は、信頼して寄り添って貰える人を見つけてゆくチャンスも時間的余裕もなく、例に漏れず自らを孤立に追いやってしまう状況が続いていました。
 「常に一人」「頑張るしかない」そんな思いの中であがいていた時のことです。
 二つ違いで妹(次女)がいて、一歳の誕生月から背負子でおぶられ、姉の療育センター、耳鼻科・小児科へ同行していました。長女の失聴原因が不明なだけに、次女も幾度か聴力検査を受けました。その心配とは裏腹に、この子は健聴でどんどん言葉を覚え、発語も豊富で活発に動くようになりました。同席するうちに絵カードを姉より先に取ってしまうなど、とうとう言語指導へ支障をきたすようになってしまいました。
 晩夏のある日、ST(言語聴覚士)のH先生からとても申し訳なさそうに「どこかに預けてきて貰えませんか」と言われ、二歳前の子を安心して預けられる場所探しが始まりました。社宅で「預かるよ」と言って下さる方がありましたが、一〜二ヶ月で済む話ではないので、甘える訳にはいかないなと思いました。近くの未認可の保育園は定員一杯で、薄暗い部屋に小さい子らがすし詰めのような所でした。駅前の保育ルームは保育料が高額な上、時間に融通がつかないシステムでした。やはり、半年ほどの長い欠員待ちと聞く、市立保育所への門戸を尋ねるしかありません。市役所の保育課へ相談に行きました。周りは働く母親ばかりで、対応する職員と厳しいやり取りが交されています。「本当は二人共自分の手で育てたかった」「給料を貰えるような仕事は無いが、障碍を持つ子を育ててゆくことこそが自分に与えられた仕事だと思っている」とモゴモゴしながら話している内に、私は涙が止まらなくなっていました。「順番待ちには違いありませんから、通知を待って下さい」とだけ言われ、トボトボと帰宅しました。身を剥がされるような思いで下の子を預けようと決心したのに・・・。情けなくて、辛くて、あの時の事を思い返すたびに、今でも泣けてしまいます。程なくして届いた通知には「翌月一日から入所措置」とありました。あの時対応して下さった職員さん(女性)は、真剣に耳を傾け、私の思いを汲んで下さり、行動を起こして下さっていたのです。その通知を手にした瞬間、私は「一人ではない」ことを知り、大きな励ましと勇気を与えて貰いました。名前も知らず、感謝の意を果たせないままでいますが、この時の経験は生涯忘れられない出来事として、ずっと心の中に刻まれ、気持ちが萎えそうな時には「大丈夫、真っ直ぐ進めば、きっと誰かが見ていてくれる」と闇夜の一光のごとく、進む道を照らしてくれています。
 こうして療育に専念できる時が始まりました。一対一で向き合う事が叶うと、余裕がうまれ、微笑み合う瞬間が増えてきました。娘の嬉々としたお喋りが延々と続くのも、「うん、そうだね。そうだね。」と何の取引もなしに黙って聞き流せるような、当たり前の会話が出来るようになりました。また、妹を迎えに行く道中に、難聴の姉と声を合わせて「♪行こう!行こう!ミィちゃんの保育園へ行こう!Oh!♪」と歌うのが日課となり、帰宅後に三人で笑って過ごせることが、何よりも嬉しい日々でした。
 
【心の支え】
 主人は仕事一筋、母親の私とは違う目線で日夜、生活を支えてくれました。当初は講習会で聞いてきたばかりの「How to療育」の話をしても、生返事しか返ってこないので腹立たしい思いにもなりましたが、「一本道の上で手をつないで進むのは難しいかもしれないけど、それぞれが稼動できる両輪となって、息を合わせて、この子を育ててゆこう。二人で頑張ろう」と話してくれた時から、我が家の夫婦のあり方が見えてきて、前を向いて歩めるようになったような気がします。
 故郷の両親や親族は、帰省の度、つたない私の状況説明にも「ほうかね、ほうなんやね(そうなの、そうなんだね)」と優しく話を聞いてくれ、決して思想や我流を押し付けることなく、「最善を尽くしてやれよ」「何か役に立てることが有りぁ、遠慮しんで言ってこやぁね」と、離れていても、常に暖かく応援し、見守ってくれていました。そんな目には見えない支援のお陰で、娘は私だけの子ではない、皆の子宝なのだといつも念頭に置きながら、我が子の育児に専念することができました。
 又、故郷を離れて暮らす転勤族の同士、社宅の人たちも陰日なた無く、私達を支えて下さいました。ある日「こんなに良くしていただいても、お返しできない・・・」と躊躇する私に、上階に住む先輩奥さんが「育児の大変さは誰でも同じ。私もこれまで多くの人からやって貰ってきたのだから、当たり前のことをしているだけ。あなたは次の人にお返しすればいいのよ」と言って下さり、ハッとしました。そして、ただただ頭が下がりました。「よし、自分も出来る時に、やらせて貰えることからやってゆこう!」「先輩と同じように、見返りなど決して期待せず、次に繋げてゆこう!」と心に刻んで、今を迎えています。縁有って出逢う人たちと一緒に力を合わせて生きてゆく「共生」の気持ちは、この先輩から学んだと言っても過言ではありません。
 
【導きの元で】
 義務教育、始めの一歩である小学校1年で担任して下さった男性教諭W先生(故人)は、初めての家庭訪問で、「娘さんの良いところを十個挙げて下さい」とおっしゃり、必死に答えた私に「頑張って育ててこられましたね」「聞こえに障碍の無い子の中で精いっぱい生活している娘さんを思い、毎朝いつも通りに登校してゆくことを誇りに思って下さい」と教えて下さいました。それまでは「立てば歩め」「先取りでカバーできる」と先導役になっていた私でしたが、この時から「この子の力を信じて、何があっても受け止められる黒子に徹しよう」と思うようになりました。
 またこの成長著しい六年間を担当して下さった難聴教室の女性教諭M先生には、揺れ動く娘の言動を大きく広い目で見守っていただきました。母に成り代わり、本人に厳しく対処して下さった折には「今日は家で沢山話を聞いて上げて下さい」と連絡をいただきました。まだ自分の気持ちを上手く表出できず、暗たんたる時期も度々ありましたが、お互いの手探り情報を隠さず共有することから、連携して対応してゆくことが叶いました。
 このころS大学病院の0先生(故人)のお導きにより、自らも聴覚障碍をお持ちでありながら、電話での会話を実現、研究されているS先生と出会いました。居住地が離れても可能な、電話でのコミュニケーション指導を七年間続けて下さいました。ご本人の心優しいお人柄そのままの「相手を思いやる会話」「心を寄せるやりとり」の実践は、聞こえないことの困難さを自らが知り、それに替わる方策を模索してゆく、気の遠くなるような地道な作業の繰り返しで、細やかな発見の連続でした。娘の暮らしの中には、物心つくこの頃から電話が「当たり前」に有りました。むしろ学齢期の聴覚障害児を持つ私自身が、向き合う目線を育てていただいていたのだなと、懐かしく回想しています。
 娘が支援の前例が何も無い公立中学への進学を選択し、不安のまま向かえた一学期。学級談会に集う母親たちの前で「クラスの標語『One for All、All for One』に有るように、一人一人の存在が全員の力になると信じて、学級運営をしてゆきたい」「一人の困難を、全員の課題として共感し、支えあえる場にしてゆきたい」と語って下さった女性教諭M先生は、その信念の通り、どの子も特別ではなく「当たり前の存在」として捉え、どんな問題にもクラス全体で真正面から対処して下さいました。本当に素晴らしいクラスでした。
 その後、「聞こえる者なんかに分かってたまるか!」と反抗期を迎え、外界の全てに心を閉ざした頃、高校三年次の担任S先生は、どの人間にも違いが有ることを最前提にして「認め合おう。そして聞こえない自分に何が出来るのかを考えよう。今からがスタートだよ」と、誰よりも辛抱強く寄り添い、説き続けて下さいました。鬼畜の様な形相で補聴器の電源を切り、目を伏せ、回わりの声なんかに全く聴く耳持たない娘が、何度となく くじけそうになりながらも、少しずつ目線を上げ、以前の暮らしに戻れたのは、ひとえにこの時の先生の惜しみない、地を這うようなアプローチのお蔭でした。
 同時に、親子の葛藤、本人の心の置き所探しに、力を貸して下さったKクリニックのI先生。子どもの気持ち、親の思いを静かに丁寧に聞いて、穏やかに確かめ、緩やかに気付かせて下さいました。ある時は自信を失った私に「親なんだから、凛として子どもを擁護して良いのです」と背中を押して下さいました。娘には「自分を、誰にも遠慮することなく、表して良いのよ」「ゆっくり落ち着いたら、周りを見てごらん、一人じゃないよ」と、親に代わって伝えて下さいました。社会の中でさまよい悩む日々、崩壊しそうな親子の絆を取り戻せた経緯は、I先生の存在無しでは語れません。
 
 このように多くの方々から、山のように広大な優しさや、海のように深い示唆を与えていただきながら、私はこれまで生きてきました。
 娘もまた、療育センター、幼稚園、保育園(年長で名古屋へ転居し三学期だけ通園)、難聴教室併設の小学校、地域の中学校、聾学校高等部、大学へと学齢期を歩む中で、出会い、ぶつかり、和解し、理解し合いながら、関わって下さった多くの方々から、親だけでは伝え切れない「社会で生きる知恵」を授けられてきました。
 その一点を捉えただけでは失敗や逃避、悪癖や怠慢にしか見えない事象ですら、回りに居て長い目で見守って下さる方々に恵まれたことで、娘はどれだけ多くの糧を、自分のものとして会得できてきたことでしょうか。
 
【当たり前のこと】
 「愛する子どもを育むために、親がどうあるべきなのか」、「この子が自立してゆくには、どのような働きかけが必要なのか」と子どもの幸せを願い、考えていくことは、障碍の有無には全く関係なく、とても大切な親の責務であると思います。又、その親心をもって子どもと向き合ってゆくことは、正に「当たり前の生き方」に違いありません。
 我が家の場合もまた、娘が障碍を持たずに生れてきたらと何度想定してみたとしても、やはり、聴覚障碍があってくれたからこそ、より深く、より濃く相対してこられたに違いないし、有りのままの娘でいてくれたからこそ、家族の視線がひとつにまとまり、それぞれに必要な、自然な生き方が刻まれてきたに違いないと、確信して揺るぐことはありません。
 そして、この「当たり前の生き方」の実践は自分たちだけの思いだけでは成し得ないと言うことも、ここまで記したように、娘の成長段階を通して、様々な出会いの中から痛感してきました。
 「聴覚障碍児と言っても、何も特別でなく当たり前の育児をすれば良い。子どもの目線で歩みなさい」と説き、「母親を支えよう」と提唱して下さった早期療育の母、K先生。これまで自分はどれだけ、その優しい眼差しに癒され、また「焦らず、比べず、諦めず」との教えに戒められ、叱咤されてきたことでしょうか。折々に掛けて下さるお言葉により、先を見通す力と、その時に見失っていた一番大事な心構え「愛情を持って向き合うこと」の気付きをもって、怒濤のような幼児期の生活から、安定した日常へと導いていただいてきました。そして、今もなお「ご両親の愛情と努力を受けて成長されたご本人は、きっと充分に開花してゆかれることでしょう」と、先々までの励ましをお寄せいただけることは、まさに我が家族の至福と言うより他なりません。
 
 紆余曲折を乗り越え 迎えた今日、「当たり前の生活」を送っていられる影には、この場に著しきれない程、実に多くの方々からのサポートがあったからこそと、改めて感じ入っています。
 娘を介して出会うことのできた人々との時の流れを 振り返るたびに、感謝の気持ちで胸が一杯になり、今後の人生をより大切に生きてゆかなければと思う毎日です。
 我が子と共に生かされている幸せを、今一度噛み締めながら、これからの道のりも気負わず、主人と二人の娘、或いは娘たちの新しい家族と共に、ゆっくり歩んでゆけるようにと 心から願っています。
おわり
 
美怜とともに
長野県 黒澤 志江
 長女美怜が生まれて十九年の年月が経とうとしています。美冷に聴覚障害があるとわかったのは、生後一週間目でした。二週間の入院を余儀なくされていた私は、ショックで母乳が止まり、母乳第一の産院だったため、自分の心の整理がつかぬままに、痛いマッサージを受け、うまく飲めない美怜と重い心をひきずりながら、後の一週間を過ごしました。誰とも会いたくない、私と美怜の二人にして、と叫びたい思いでした。
 退院の日、私の父が「このドアを出るとお前の人生が始まるんだ、負けるなよ」と言ってくれた言葉が今でも心に残こっています。
 障害があるとわかったショックの中でも、私は「この子は絶対普通の子と同じように育てる」と決心していました。この思いが後になって美怜を苦しめていたのです。
 正式な診断を得るために信州大学へ行き、そこから東京の「母と子の教室」(現在は聴覚障害児とともに歩む会・トライアングル)を知り、そこから補聴器の先生を紹介していただき、たくさんの情報を求めていました。生後六ヶ月の美怜をおんぶし、おむつをかかえ何度も東京に通いました。その間に「松本ろう学校」の「母子教室」にも通い始めました。
 そこには、同じ障害を持ったお母さん達の明るい笑顔があり、大きな安堵と一緒に自分と美怜の居場所はここだ、と思いました。
 私は絵を描くことがとても苦手です。美怜との言葉の学習に絵日記は必須でした。
 私の描く下手な絵を見ながら、美怜は一生懸命言葉を覚えてくれました。今でもスケッチブックに私の絵が残っています。自分がきちんとやらなかったツケを神様はちゃんとまわしてくれたのだと思います。
 「普通の子と同じように育てる」私の方針は、保育園も、小、中学校も当然!地元でという固い(?)信念のもと親子とも緊張の中で始まりました。特に、小学校の入学式の日は朝から発熱、嘔吐がありどうなることかと思いました。本当にこれでよかったのかという自問自答の日々が私の中で始まった時です。頑張っている美怜に先生の評価も良く、私も満足でした。でも美怜は痛かったと思います。友達は何を話しているのだろう?先生は何言ってるの?何でみんな立ち上がったの?みんな笑っているけどどうして?きっと不安と緊張のわからない痛み。でも私は頑張っている美怜に満足していました。ただ、「この子一人にかかりきりになれません、他の子に影響がでます、私にいろんなことを求めるんでしたら、ろう学校に行ってください。」と冷たく言われる先生もいました。そんな時は落ち込みましたが、東京の先生がいつも励ましてくれました。
 ただ、インテグレーションを勧めて下さった先生も、この頃から本当にこれで良いのかと迷い始めていた時期でもあります。
 「中学校は、しんどかったら、ろう学校へ行ったら」と言う私に「友達と一緒に地元の中学へ行く。」と言いました。その時も私は内心ほっとしていました。私の心の中を見透かしているようでした。中一の夏休み明け、とうとう保健室登校になってしまいました。クラスの中がめちゃめちゃに荒れていたこともありましたが、やはり心の痛さに疲れていたのだと思います。それでも、中二の初登校の日から、教室に戻りました。
 友達の力が大きかったのだと思いますが、つらい決断だったと思います。卒業までの二年間はいじめがあり、つらい思いをしました。いじめが発覚したその日、担任の先生は、受験が目前であるにもかかわらず、全ての授業をストップしクラスで話し合いをもってくださいました。その話し合いの中で同級生は、初めて聴覚障害についてどういうものなのかを知ることになるのです。美怜のいじめばかりでなく、たくさんの問題があったクラスでしたが、卒業式には全員が笑顔で巣立っていきました。昨年の同級会には迷うことなく出席しました。高校は県立高校に合格しました。でも本人はコミュニケーション障害の壁を越えることができずにいました。「私はろう学校の高等部に行きたい」とはっきり伝えてきました。美怜は一歩進んでいました。
 九年ぶりにろう学校の門をたたき、教頭先生とお会いしました。その時の私たち親子はめちゃめちゃでした。自立しようとしている美怜に気付かず、それを邪魔したがっている母、右往左往しているのは、私だったのです。
 高一の秋から美怜はろう学校へ編入しました。それからの美怜はまさに、水を得た魚いきいきと自分の居場所を見つけ何事にも積極的に参加するようになりました。
 高三の夏休みには松本で高校生の主張があり、スタッフとして準備をし、また自分の主張も口話と手話で発表しました。いまの自分から進もうとしている姿が見えてきました。
 七年に一度行われる御柱祭では地区の女性長持ちとして参加しました。長持ちを教えてくださったのは地域の男性でしたが、美怜と話すのは初めてなのに口の形がわかるように丁寧に教えてくださいました。
 普通の子として地域の中でやりたいと、かたひじ張らなくても、今まで美怜がやってきたことが少しずつ、実を結んでいるのだと感じました。
 そこには、生まれた時からかかわってきた地域の友達の母親達が何かある毎に「美怜さんも一緒にやらない?」と声をかけてくださったこと、松本ろう学校の仲間の母親たちとインテグレーションしたあとも、いつも連絡を取り合い、情報交換をしてきたことなど、たくさんの人に支えられて、ここまでこられたのだと思います。
 今、美怜は大学に進学し、親元からはなれのびのび(?)と自分の生活をしています。
 福祉系の大学とはいえ、健聴者の中に入っていくのです。どうなることかと思いましたが、すでに仲間同士で連絡を取っていました。「私の力では出来ないところは健常者の友達に頼んでいるよ。同じ障害の仲間がたくさんいて楽しいよ。」と元気な姿がありました。
 美怜が生まれて今まで「普通の子と同じように育てていこう」と思った、その思いで私は自分もしばりつけていたと思います。美怜も苦しかったでしょう。
 そこを一生懸命歩いているのは本人なのですから。でもその苦しみで美怜は、人の痛みのわかる女性に成長しています。
 私は今、昨年美怜が職場実習でお世話になった、養護学校で「行政パートナー」と言う形で子供たちと関わる仕事をしています。毎日子供たちが一生懸命生きている姿から、私が生きる力をもらっています。私も少しでも人の痛みがわかる人間として成長し、一緒に考えていかれる親になろうと思います。
 
 「耳が聴こえにくいことは不便かもしれないが不幸ではない」
 いや不便ということはないだろう。なぜなら本人達はその世界でしっかり生きているのだから。不便と考えるのは私たち聴こえているものが勝手に考えているだけなのかもしれない。
 
夢を追いかけて
北海道 畠山 和子
 今回、初めてのこのような場所で、受賞されることは思っていませんでした。推薦して下さった母校の北海道高等聾学校に感謝するとともに、娘に「親としての仕事を与えてくれたことにありがとう」と感謝の気持ちでいっぱいです。
 早速、本題に入りますが、私の家族は、私の両親、私、私の娘で三世代ろうあ者です。まず、私の両親が共に後天性のろうあ者。聾学校の経験はありません。コミュニケーションは手話でなく身振りです。
 そして、私自身も病気が原因で聴覚神経が冒されて聞こえなくなったのが五歳の時。専門病院のない田舎のため、祖父母が心配して、札幌市の北大、医大病院の耳鼻科に連れて行き私の耳のことを両親よりも気にかけていたのです。結果としては、直る見込みがないとの医師の宣告でした。それでも、わかっていながら諦めきれず、最後の望みをかけて秋田県の大学病院まで連れていってくれましたが、結果は同じでした。特に、祖母は私の両親を身近に見ているので、せめて、孫は障害があっても人として当たり前に生きることを願って、普通の子供と同じように接してくれました。
 でも、一番嫌だったのは、自分の声を耳で感じながら発音することにすごく厳しかったことです。話し方や、本を読む時、感情がこもっていないと怒られ、何度も繰り返されることが嫌でした。それ以外は、普通の子供と同じように育てられましたが、正直に言えば、これが私自身の人生に生かされました。
 私も、人並みに結婚して三人の娘に恵まれました。長女が三歳、次女が一歳半の時のことです。昨日まで聞こえていたのが、次の日、二人とも同時に聞こえづらい事が分かり、すぐ病院に連れて行きましたが、原因が不明でした。正直に言って、二人も同じ障害になったことはショックでした。でも、悲しんではいられませんでした。娘の将来の姿となるモデルが私自身だったので、自分が育てられた成長過程を思い出しながら、子育てをしました。その頃の娘は、まだ、残聴能力があったので、補聴器で聴力を維持し、絵本の読み聞かせなどを通して、言葉をたくさん教えました。二人とも保育園から中学校までは普通の義務校で学びましたが、聾学校のお世話になる機会もありました。
 長女は、中学二年の夏休みが終わった後、聾学校に転校しました。難聴学級のある学校でしたが、精神的な面で苦痛になり、登校拒否になったことが原因でした。次女は中学三年の夏休みの後に転校しました。体を動かすのが好きで、部活でソフトボールをしていたのですが、学年最後の練習試合や大会に一度も出してもらえなかったことも転校の理由の一つですが、聞こえないと言うことを理由にされたことが悔しく人間不信になってしまったことが原因でした。私は、二人ともここまで頑張ってくれたから、心に余裕を持って残りの中学時代の時間を悔いなく過ごしてもらうため、聾学校に転校させました。娘にとっては、同じ聞こえない仲間が入る事で、聾学校は心の拠り所になりました。
 その後、長女は普通の高校、短大に進学し卒業後就職しました。次女は北海道高等聾学校に入学し、専攻科に進学して今年の春、社会人になりました。今、二人は学生時代と違う現実に戸惑いながらも、一人の社会人として頑張っています。
 末の娘だけは健聴です。聞こえない家族の為に、負担にならないように母親として気をつけてきたのですが、思春期の時は、周囲の勝手な推測を負い目に感じて気持ちのぶつけ様がひどく、親としてつらい時でした。今年の春から大学生です。小さい時からいろいろあったわりに気持ちのやさしい娘ですが、時には物事に対してしっかりした意見を持っています。
 娘たちが、成長してきた過程の中で、親として情けなくなることなどいろんな事がありましたが、とても話しきれません。でも、これだけ言える事は、娘が、どんな時でも聞こえなくてもいいから私を必要としてくれたこと。この気持ちが、私自身の生き方にプラスになりました。
 私は、今、健聴の痴呆老人を対象としたグループホームで介護職員として働いています。子供の頃は、保母さんになりたいという夢を持っていました。ろうあ者であるため夢はかないませんでしたが、グループホームで働くようになってからは、ろうあ者でも出来る仕事と確信を持つようになりました。少しでも、聞こえない子供たちにとって将来の夢が広がる仕事の選択肢になるよう日々頑張っています。
 最後に、娘にとって母親でありますが、当事者として、差別と偏見の無い社会、人として対等に生きる社会実現に向けて、まだまだ頑張らなければなりません。今回の受賞をきっかけにもっと夢を追いかけ続けて生きたいと思います。


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