[共に育つ]
涼子を育てて
兵庫県 松下 悦子
涼子は生まれた次の日から、熱を出しました。生まれる前に私が風邪を引いて熱を出して薬を飲みました。難聴になったのは何が原因か分かりませんでした。
その時先生に言われたのは「この子達には教育しかありません」と言われました。
それは涼子が二年一〇ヶ月の時でした。その日から私と涼子の戦いが始まりました。はじめ私は補聴器を付ければ、すぐに話が出来ると思っていました。そして私は涼子に何をしてやればいいのか、何も分かっていませんでした。同時期に、こばと聾学校に入った子供さんが少しずつ話しだしたのに、私は何も分からず、ぼうっとしていたと思います。
私は今、その時の事を涼子に謝らないといけないと思っています。少し遅れて気づき、少しずつ二人で頑張りました。こばと聾学校では出来の悪い親子だったと思います。小学校は難聴学級のある普通の小学校に行きました。涼子は言葉は少ないけれど、明るい子だったので、小学校では先生方に良くして頂きました。いじめもあったと思いますが、私には何も言いませんでした。小学四年生の普通学級の先生とは今も、お付き合いさせていただいております。小学校ではバスで学校に行くので本当に心配をしましたが、「こばと」で一緒だった男の子が近所にいましたので二人でいつも登校していました。小学四年のとき涼子の姉が高校一年生で、私が涼子ばかり世話をしていると思い少し悪い方に行きかけました。その時私は姉に言いました。「お母さんは涼子が自立をしないと、私達が死んだ時に涼子がお姉ちゃんに、何もかも頼ったら困るでしょ。だから今涼子を一人前にしないといけないのよ」と言いました。
その時、姉は初めて分ったみたいです。姉も本当は寂しかったのだと思います。姉には本当に可愛そうなことをしたと思います。でも姉が大人になった時に少しでも負担を少なくするために頑張りました。姉はその後本当に私によく協力してくれました。姉の寂しさや負担のおかげで中学校も難聴学級がある中学に行きました。
その時に嬉しかった事は夏休みの宿題の手芸の作品が尼崎市の中学校の中で表彰され、全校生徒の中で表彰状を頂いた事です。本人も喜んで帰ってきました。難聴学級の先生が写真を撮ってくれそれを頂きました。その時から少しずつ涼子も変わり始めました。
涼子に障害があるために小学校、中学校の校長先生や教頭先生などと親しくお話をさせて頂き、姉の時はこんなにも違うのかと思いました。本当に嬉しかった事を思い出します。
そして高校からは姫路聾学校の高等部に入りました。そして寄宿舎に入りました。初めて親と子が離れ離れに生活する事になりました。高校一年生の時の入学式の日は姫路以外の寄宿舎に入ったお母さん方は、帰る時、みんな心配のあまり泣きながら帰りました。その時の事を思い出すと、今も寂しかった事を思います。高校の時は剣道部に入り男の子のように頑張っていました。
三年間姫路に通いました。涼子がいないと本当に寂しい思いをしましたがこの事で子離れ親離れが出来たと思います。高校三年生の時には森永製菓に実習に行き実習中に何か不具合がおきたらしく、その事を涼子が見つけた事で、はじめは「今年は社員の採用はありません。」と言われていたのを、その事で会社の方が気に入ってくれ就職試験を受ける事になりました。
試験を受けて、受かり四月に新入社員として働くようになりました。
会社ではいろいろなことがあるでしょうが私には何も言いません。でも一五年近く働いていますが、私も涼子の会社には何も係わっていません。涼子は一人で今の会社で頑張っています。皆さんに良くしてもらっています。六年ぐらい前には、主任補佐の試験を受ける時には、健聴者の人たちにいろいろと教えて頂き、本当にお世話になりました。そして無事に試験が受かりました。その時は面接、および筆記試験がありました。面接では本人が私に「頭が真っ白になって何を言ったかわすれたよ」と言いました。私は涼子にその時「滑ってもいいやん、涼子が努力した事はお母さんが分かっているから」と言いました。試験の前は会社で仕事が終った後、同僚や上司の方が遅くまで本当に親身になって教えてくれたそうです。私は「涼子がいい子だからみんなが教えてくれたんだよ」と言い「みんなに感謝しないといけないよ」と言いました。
その頃だと思います。私が乳がんになり手術をした時も姉と協力して本当に毎日のように病院に来てくれました。私は「もし私が死んだら涼子の事を頼むよ」と姉に頼んだ事を思い出します。でもその頃は涼子も大分自立してくれていると思います。
涼子は給料からいつも三万円を家に入れております。姉にも貰っていたので私は涼子を普通の子と同じように何事もやってもらいたいといつも思っています。だから働くようになってからは、よく二人で国内や海外に旅行をしました。旅行ではいつも私は涼子に連れて行ってもらっているようです。
昨年「聴覚障害児を育てたお母さんをたたえる会」で東京に行ったときも埼玉や鎌倉、江ノ島、ディズニーランドに行った時も私より涼子のほうがしっかりしていました。電車に乗るのも切符を買うのも何でも涼子がやってくれました。その時本当に感慨深い気持ちになりました。主人はいつも私が「涼子と行くよ」と言うと何も言わず許してくれました。その主人も昨年亡くなりましたが、亡くなる前には私に「子供たちには何の心配もない」とよく言ってくれていました。主人は涼子の言う事が少し分からないこともあったと思いますが、私と涼子が頑張っているのを心配しながら見ていたと思います。そして涼子の事はどんな事でも叶えてくれたような気がします。いつも「そうか分かった」と言って涼子に話していた事を思い出します。
主人が亡くなった後、私が一人で苦労しているのを見て「お母さん、私、少し給料から少し多くお金を渡すよ」と言ってくれ、今までより多く私にくれるようになりました。姉も私が寂しいと思い仕事帰りに良く寄ってくれます。私は本当に幸せ者だと思います。私は苦しい事もあったけれど、いつも弱い人の事を思いやる心がもてたのは、涼子のお陰だと思います。商売人の家族に障害を持った子供がいれば、その人を大切にすれば商売繁盛するとよく言われました。本当にそうだと思います。涼子のお陰で私も本当に人として、少しはましな人間になれたと思います。
神様は私に障害児を育てる力があると思い涼子を託してくれたと思います。私は涼子を大切に育てそして涼子と一緒に成長したかなと思います。そして、主人が亡くなった時、涼子を気遣う人が現れました。私は前からその人の事は知っていましたが、主人は知りません。でも、主人も空の上から涼子の幸せを見ていてくれると思います。将来その人と結婚する事になりました。嬉しそうにする涼子を見ると本当に良かったなと思います。
今は来年結婚のため痩せるようにスポーツジムに一人で手続きをして一人で行っています。本当に成長したのだなと思います。
涼子が結婚したら姉も涼子も「私のところにきて」と言ってくれます。本当に有難い事だと思います。これからもいろいろあると思いますが家族で前向きに頑張っていこうと、思います。
東京都 中道 八重子
私の子供は、二人とも高度難聴です。
娘は、現在、二十二歳。この春に大学を卒業し、就職しました。
息子は、現在、二十歳。ダンスの専門学校の二年生で、就職活動に入りました。
子育ても、あと一歩というところでしょうか。
最終目標は、じりつ。具体的には、楽しんで仕事をして、収入を得て、自分の人生を自分で選び、歩んでいってほしいと願っています。
今までの子育ては、充実した日々でした。子供のおかげで、ずいぶん成長する事ができました。たくさん、たくさん、失敗しました。たくさん、たくさん、喜びもありました。
一つ、誇れるとしたら、毎日、私が出来ることを惜しまず、精一杯やり続けた事でしょう。現実には、ただ、ただ、目の前の事を、一つ一つ、片付ける事しか出来なかったということになるのですが、後に、あの時にやっておけばよかったと、悔いのないようにはしてきました。母親として、何をしたら良いのか、明確な事柄がわからないままの日々でしたが、愛情を持ってごく当たり前の生活を、ていねいに繰り返し続ける事が、実は、とても大切な事だったと気づかされています。また、あたり前の生活の繰り返しは、何もしていないように思ったのですが、続ける事によって積み重なり、大きな力になるのだと実感しています。
改めて、約二十年間を振り返ってみます。
娘が二歳の頃。
「バイ、バイ」「まんま」など、いくつかの単語しか言わないので、心配になり、近くの耳鼻科へ行きました。「お宅は人手がたくさんあるから言葉が必要ないんだよ。」と言われました。おかしいと思いながらも、聞こえていると自分に言い聞かせ、もやもやした気持ちで約一年過ごしました。しかし、保健所での三歳児検診の時には、言葉数が少ないと言われましたので、私から、先生を紹介して下さいとお願いして、帝京病院にいらっしゃった田中美郷先生に診察していただきました。診察したその日に、高度難聴と診断されたのです。頭がまっ白になり、病院からどうやって帰ったか、未だに思い出せません。その時は、他の病院へ行くとか、ろう学校の事を調べるとか、何も考えられない状態で、次の日に、田中先生からいただいた紹介状を持って、都立のろう学校へ行きました。
その日は、幼稚部の入学受付の日でした。とにかく、幼稚部の手続きをしましたが、世の中から閉ざされた思いがして、すっかり気落ちしてしまい、顔も体も硬くこわばってしまった事がよみ返ってきます。
娘には、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、涙も出ない状況でもありました。
そんな私の傍らで、娘は、にこにこしながら、入学手続きにきた子供達と、楽しく遊んでいました。その娘のくったくのない様子を見て、ハッとわれに返りました。
なんとかしなければ、なんとかしてあげなければと、私の心に強い思いが込み上げてきました。かといって、何をしたらいいのか、どう娘と接したらいいのか、何もわかりませんでしたので、ろう学校の先生方が教えて下さった事は、大変助かりました。
田中先生にも、心から感謝しています。
診断して終わりではなく、ホームトレーニングも開講して下さっていますので、耳の仕紐みや、補聴器の付け方、家庭での過ごし方、などを教えていただきました。ろう学校などへの進路の相談にも応じて下さいました。茫然としているだけで、何を手がかりにして進んだらいいのかさえわかりませんでしたので、ありがたい道しるべでした。
とにかく、そこへ行けば、難聴のお子さんがたくさんいらしたので、仲間がいるという気持ちになり、心が安らぎました。
毎日の日々の生活の中で、揺れる気持ちを持ちながらも、四世代同居という環境に助けられ、私の気持ちに関係なく、日常生活は、整っていきました。
朝ごはんの時間、遊ぶ時間、おやつの時間、昼食の時間、お昼寝の時間、夕食の時間、寝る時間、など・・・。ほぼ同じ時間の生活の繰り返しだからこそ、同じ時刻に、同じ場所で、同じ言葉がけが出来ました。たくさん遊び。歌や、生活音を、たくさん聞いて。バランスよく、色々な物を食べ。お正月・豆まき・こどもの日・・・など、四季おりおりの体験をし、毎日の生活の中で、実体験を繰り返し、一つ一つ、ていねいに子供と係わっていくうちに、すぐにという訳には行きませんでしたが、言葉かずは、増えていきました。
よくよく考えてみますと、健聴のお子さんだって、生まれてすぐに言葉を話す訳ではありません。脳の言葉の引き出しに、日本語を蓄える過程も同じです。聞こえない分は、写真や、絵本、絵を描いて見せたり、合わせたりしました。
子供は素直ですから、うれしい・悲しい・くやしい、など・・・。心が動いた時は、特に大きな反応をしました。その心の動きに、ていねいに係わる事で、これが「うれしい」ということなんだ。これが「かなしい」ということなんだと、いうことがわかると、すっと頭に言葉が残るんだと驚かされました。
そして、それは、大きな感動でした。
娘は、高度難聴と診断されてから三ヶ月後には、都立のろう学校の幼稚部に入学し、補聴器もすぐに慣れ、ろう学校の教えを、楽しみながら吸収し、順調に成長していきました。
私は、娘とろう学校へ通い、毎日の課題を消化するだけで精一杯でした。
息子は、私が娘とろう学校へ行っている間、主人の両親と祖母にみてもらいました。
息子が一歳半の頃。
娘の高度難聴の発見は遅くなってしまいましたので、神経質なほど、息子は聞こえているか、様子をみていました。しかし、この頃になると不安が心をよぎりました。帝京病院の田中先生の診察を受けると、片耳四五デシベルの軽度の難聴と診断されました。
愕然としました。しばらくは、茫然自失の状態でした。そんな時、主人の言葉で、我に返りました。それは、一言「子供は、かわいいだろう。」でした。・・・
その一言は、私が母親になれたと確信できた言葉でもありました。それからは、前向きな気持ちで生活ができるようになってきました。
息子は、田中先生からご紹介いただいた、聞こえの教室へ、主人の両親に連れていってもらいました。その聞こえの教室の先生は、日本聾話学校を退職なさった先生でした。そこで、初めて、キリスト教精神を基本としている私立のろう学校がある事を知りました。娘が、高度難聴と診断された時は、頭がまっ白になりましたが、息子の時は、どんな学校であろうと前向きな気持ちになっていましたので、日本聾話学校の学芸会を参観させていただいたり、夏の講習会に参加したり、息子は、はにかみながらも楽しい体験ができました。私は、毎日、娘とろう学校へ通っていましたので、息子と二人で、宿泊する夏の講習会では、貴重な日々を過ごすことができたのでした。この時の息子の聴力は、両耳で六〇デシベルに落ち、その後、高度の難聴へ進行していきました。
この頃から、二人の子供には、良い環境で出来る限りの教育を受けさせてあげたいとの夫婦の思いを実現するために、四世代同居だった都心の家から離れ、家族四人の生活を始める事にしました。なぜ教育だったのかといいますと、自分の頭で考えられ、自分の人生を自分で選び、生きていかれる力をつけるためでした。
娘は、小学部の一年生、息子は、幼稚部へ、二人同時に、日本聾話学校に入学した事は、人生の大きな転機となりました。
日本聾話学校は、子供達を障害児としてではなく、一人の人間として受け入れてくださいました。私は、大きな胸のつかえが消えていき、子供達は、選ばれて生まれてきたのだと思えるようになりました。母親としての重圧も、軽くなったように感じました。
日本聾話学校が、設立された一九二〇年から、ずっと続いている「聴覚主導」の教育方針(残っている聴力を徹底して活用する)に沿って、心を育てながら、全人発達していくように、先生方のご指導を受け、毎日を、積み重ねていきました。
息子が、日本聾話学校の幼稚部に入学してからも、絵日記の必要性を感じ、娘の幼稚部三年間に続き、息子の幼稚部の三年間も、絵日記を書きました。
初めての娘の絵日記は、入学式でいただいた紙の首飾りをテープで絵日記帳に張りました。私は、絵心がありませんでしたが、子供は天才。何が書かれているか理解してくれました。続けていると、絵も上達していきましたし、一日のうち何分かでも、子供と向き合う時間は、大切だと感じるようになっていきました。
慣れるまでは、何を書いていたらいいのかわかりませんでしたので、親子で一緒に体験した事と、子供が、声をあげたり、うれしそうな顔をしたり、泣いたり、と気持ちが動いた事を書きました。
毎日ですから、もちろん工夫がいりました。例えば、外出して疲れた時などは、食べたお菓子の袋や、見つけたタンポポやクローバー、枯れ葉、訪れた先のパンフレット、などを持ち帰り、絵日記帳に貼りました。新聞のニュースも、よい題材でした。たつ巻や、交通事故、歴史的な出来事、などの写真の切り抜きは、目で見てわかりますから、大活躍しました。
スーパーのチラシも、集めておきました。野菜や果物が、カラーで掲載されていますから、そのチラシを持って、お買い物体験。そして実際に食べる。その事を絵日記に書くと、子供は、一緒に実体験していますから、会話もはずみました。
洋服や、家具、電化製品、などの広告用のチラシも集めておくと、後で、貼るだけで、食べ物、着る物、と言う具合に分類遊びが出来ました。お中元やお歳暮のパンフレットは、分類できていますから、重宝しました。
今でしたら、デジカメや携帯も、重宝するでしょう。書き続けていくうちに、書き方の工夫も、出来るようになっていきました。昼間は太陽を書き、夜は星。家の中は屋根を書き、ビルは、四角で囲む。神社は、鳥居を書き。病院は、屋根の上に十文字を書き。・・・など、工夫する事によって、書く時間も短くなり、その分、会話の時間が増えていきました。
総べての事が、日本語になっていくのだと気付くと、良い事を書こうとか、何かを子供に教えこもうとか、思うこともなくなり、書く事が楽しみになっていきました。
絵日記は、私にとって、日本語を増やすための大事な手がかりとして、なくてはならないものでした。
娘が小学三年生。
日本聾話学校から、公立の普通小学校へ、転校しました。中学・高校は、六年間一貫の、私立の女子校へ進学し、片道、一時間半かけて通いました。女子校へ行きたいという希望は、叶えられましたが、高校での進路指導のときは、ショックな事がありました。
幼い頃からの夢は、刑事になる事でしたが、高度難聴では、警察学校の受験さえ受けられない事を知ったのです。色々と調べたり、考えたり、娘なりに悩んだ結果、大学へ進学する事にしました。四年間、大学で学びながら、社会が開かれる事を待つ事にしたのです。
ところが、大学に進学するとすぐに、先輩と二人で手話サークルを立ち上げたり、それに伴う他の大学との交流をしたり、華道、バトミントン、ボランティア活動と、有意義な日々をしていくうちに、お勤めをしながら、ボランティア活動をしていきたいと、思いがまとまっていき、刑事は、二の次になっていきました。
巡り合った大学は、娘を、一人の女性として、成長させてくださいました。
息子は、小学部。
日本聾話学校の小学部へ進みました。不器用な性質ですから、何事にも、とりかかりに時間がかかりました。私は、息子を通して、種まきをして、待つ育て方を、教えられました。
小学部二年生の時でした。
「お母さんは、お姉ちゃんと、毎日、ろう学校へいって、僕は、おじいちゃんとおばあちゃんとひいおばあちゃんと、毎日、お家で待っていた。」と、言葉数の少なかった息子が、せきをきったように、しゃべり出したのです。
息子が、二歳、三歳という大事な時期に、私は、娘を何とかしなければと、必死でしたから、息子の気持ちを深く受け止めてあげる事ができませんでした。この事に気が付いたことは、私にとっても、息子にとっても、大きく成長できたきっかけとなりました。
その後、六年生の夏から、希望する私立の普通高校を目指し、日本聾話学校の中学部を卒業するまでの約三年半、授業や課題、クラブ活動、塾や家庭教師との勉強に、自ら取り組みました。
見事な頑張りは、高校合格へとつながり、大きな喜びでしたが、日本聾話学校では、人間形成と自立への土台作りに、十二年という年月をかけ、ゆっくり進むペース。しかも、あたたかい環境でしたから、普通高校という大きな社会へと、全く違う環境への進学は、戸惑いも大きかったようです。
高校二年生の時には、それまで経験しなかった反抗期が、まとめてやってきました。この事も、大きな成長の足がかりとなりました。私だけでは、力がおよびませんでしたから、主人や、娘、日本聾話学校の卒業生など、色々な方々が関わっていく中で・・・。
息子はダンスの才能と楽しさを知る事により、高校も無事に卒業し、ダンスの専門学校へ進む事ができました。息子が自分で探し出した学校でした。
ここで、約二十年間を振り返ってみましたが、無理をせず、しかし、こつこつと、あたり前の生活を繰り返し続けてきた中で、子供達が、確かに育ってきた事を、改めて確認できました。
「口ぶえを吹きたい。」「CDを聞きたい。」「ダンスを踊りたい。」など、子供達が強く望んだ事が、現実に出来た時、子供たちの限りない力に、魅せられ、教えられました。
自分で学校を選び、自ら勉強し、合格できた事は、夫婦の教育への思いも、達成できたのではないかと思います。
結果的には、良かったかどうか、これからの人生を、どう生きるか。それは、子供達が決める事でしょう。
今までは、私なりに出来る限りの事を、精一杯してきました。
これからは、子供達が、私にして欲しい事を、出来る限りしていきたいと思います。
私が、ここまで育つ事ができたのも、中身の濃い二十年間を過ごす事が出来たのも、家族をはじめ、たくさんの方々が支えて下さった結果です。感謝の気持ちで一杯です。
いつか、子供達が、生まれてきてよかったと、心から思える日が来ることを、願っています。
|