子に育てられた親
東京都 小林 由美子
昭和五十一年三月二十五日、桜が満開の暖かい朝、三千グラムを超える五体満足の可愛い娘が誕生しました。
「お乳の飲みが細い、顔に湿疹を作ってしまった。」そんな些細な事を、神戸に住んでいる姉に相談するのんびりした母親でした。
生後六ヶ月頃、主人が「おい!こいつ耳が聞こえてないよ」との言葉に腹立しく、でも心の中で何となく気になる事が日々ありました。それから病院巡りが始まり、最終的に、世田谷の子供病院の診断に愕然とし、なかなか障害を受け入れることが出来ませんでした。
一歳近く、病院の紹介で学芸大学の聴覚教育相談での早期教育を受け、二歳頃は自宅近くの目黒区東根小学校で、指導を受けたのですがその間、親としての自覚に欠け家庭と仕事で大変と逃げて、課題の半分をこなすのがやっとでした。
難聴とはどういう状態なのか、障害そのものを理解も勉強もしていない馬鹿な親でした。この二年半凄い教育環境にありながら、努力がない親で、もったいない期間を過ごしてしまいました。電車の中で声を出し、何かを訴えようとする子供の口を押さえました。周りの目が嫌だったのです。補聴器も服の下にして隠しました。
一歳の子に漢字交じりの文字カードと、写真、絵カードのマッチング。この勉強は大好きらしく、得意そうに遊ぶ娘を見ながら、補聴器を付け、教育を受けているんだから、其のうちきっと話し出すと思っていたのです。
東根小学校の相談室が閉鎖になり、品川ろう学校の幼稚部就学前相談室を紹介された時、凄い衝撃を受けました。既に一年近く通う子供たちは、自分のことは自分でやり、良くしゃべっているのです。マッチングや知的なことでは、我が子も負けていませんでしたが、言葉がないのです。行動も遅く人の行動をジーッと見て、急ごうとしません。クラスのお母さん達は教育熱心で、今日勉強した事や課題は次回まできっちりやって来るのです。私が今まで指導を受けた絵日記を見て、「良いわね」と、すぐ取り入れる熱心さ。そんなクラスのお母さん達の刺激を受けると同じに、障害をやっと受け入れることが出来ました。
それから鬼ババーに変身。人前でも周りの目を気にせず、バス、電車の中でも言葉カードの勉強、声を出し堂々と始めました。
鬼ババーの変身は、主人との喧嘩も引き起こす事になりました。子供に眼が行き、主人を気遣ったり、振り返ることが少なくなったのです。このことは娘の発する言葉が遅くなった事に影響したように思います。
日々が過ぎ夫婦が穏やかに話し合い、私にもゆとりが出た頃、横断歩道の信号を指し「あお」と、言葉を発した時は、すごい喜びでした。しかし、声が小さく、明瞭度に欠けていました。発声の練習の積み重ね。つらかったと思います。発音の最終チェックは主人の役目。健聴者の方が聞いて理解できるくらいの発音は、小学五年生ぐらいです。
その夏は、私の田舎長崎の対馬に一人旅をさせました。娘の大好きなおばさんとの会話は筆談もなく「良く理解でき、不便はなかった」と大変褒めて下さった事は、心に残っています。
好奇心旺盛な娘なので、何事にもチャレンジする様にもって行き、親は情報を先取りし、道を広げてあげなければと、小学五年生でワープロを与え大田ろう学校で、漢字検定、英検、ワープロ検定、筑波付属でパソコン検定、学校外で運転免許、簿記の検定と取れる資格は何でもチャレンジさせ、娘も頑張り取得しました。
東京都の洋上セミナーに参加したのも、良い経験を得たようです。
小学部、高等部一年の時と何度か、いじめにあいましたがその都度、学び強くなって行く娘を見て、社会に出てもきっと、やって行けると確信しました。
東京三菱銀行に就職し、二年目にはアパートで一人暮らしも経験させ、すべて自分自身でやらせました。
三年目の時「結婚したい」と彼が挨拶に来た時、理解ある親を演じましたが、娘の心が離れていく寂しさは、何とも言えませんでした。
「娘をとられる」そんな子離れできない親の自分がありました。
「教育は親の役目、結婚資金は自分で準備するのよ」と言った事を守り、ハワイでの挙式費用も二人で準備、親族を招待し親孝行も兼ねてくれました。
今は二人で頑張って、親のところへ顔を出す回数も数えるくらいですが、娘を育てる事で娘にいろんなことを学び、大人にしてもらったと感謝しています。
岐阜県 可児 佳代
この十一月に、娘の十八歳の誕生日が来ます。毎年、その日を迎えると元気で一年間過ごせたことに感謝し、娘に関わってくださる全ての方に感謝、来年も元気に誕生日が迎えられることを願わずにはいられません。
結婚七年近くたって生まれた娘は、帝王切開で出産直後に救急車で小児病院へ運ばれました。始めて抱いた娘のあまりの軽さに、涙が止まらなかったのを覚えています。
妊娠初期に風疹にかかったことで生まれた娘は、先天性風疹症侯群により、視覚・聴覚・心臓に障害を併せ持っていました。
四ヶ月間、未熟児室に入院。毎日面会に行く私を、娘の隣のベッドの子は覚えて笑ってくれましたが、見えない、聞えない私の娘は笑ってはくれませんでした。ただ泣くだけの娘に「お母さんよ!!」と抱くだけしかできませんでした。生きて欲しいと毎日病院へ通いました。願いが通じて家に帰れるようになりました。
退院後、一歳までに二度の目の手術、一歳から難聴児の訓練所に通いました。当時は、私が頑張れば普通の子と同じになれると思い込んでいました。そして、娘の能力気持ちを無視して出来るはずのないことまでやらせようとする私に、娘は泣くことでサインを送っていたのです。先生に「泣いてばかりね。お母さん遊んであげて。笑った顔がみたいね。」と言われ、初めて娘と遊べない自分に気づかされました。
焦る私が、娘の障害を認め、障害を受け入れること、娘の成長のペースに合わせて、一つずつ歩んでいく娘の目の高さに合わせることを学ばせてもらいました。
他の子との比較はダメと心に、言い聞かせ、娘の泣き顔でなく、笑い顔と心に決め、娘の喜ぶことを大きな紙に綺麗な色で描き、絵カードを作りました。「たかい・たかい」です。この一枚のカードによって、娘と私との会話が始まりました。カードを見せる。たかい、たかいを繰り返す、動作をすると何かが起こると娘が感じ取ってくれたことが始まりでした。
それは、やがて動作を手話に置き換えてのコミュニケーションに替わっていきました。
強度の弱視なので眼鏡をかけています。牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ、両耳の補聴器を肩からぶらさげて、フラフラ歩く娘の姿を見て、心ない人に「宇宙人みたい」と言われたこともありました。
五歳の頃に心臓の本格的な検査を受けて「このまま放っておけば半年から一年の命」と言われました。心臓は悪いことは分かっていても元気だったし、大丈夫、大きくなれば自然に治るかもしれないと言われていたので、ショックでした。「今、私から娘を取らないで。何の為に頑張ってきたのか」手術を決断するまで、毎日泣いてばかりいたように思います。
手術は無事成功しましたが、治ったのではなく肺高血圧症という合併症が残ってしまいました。この病気は肺の血圧が上がれば死を意味します。特別な治療法はなく、薬で値を下げることしかできません。手術後少し肺高血圧は下がり、安定してきましたが、いつ発作が起きてもおかしくない状態でした。
小さい頃から、何でも耐えてきたのだから大丈夫、生きられると信じ、娘が一人でも多くの人とコミュニケーションを取れるように私も手話を覚え、聾学校入学後は、小学部時代から先生にも指導に手話や絵・写真を活用していただきました。「見たい、知りたい」と言う気持ちが育つと「えっ、そんな小さな物まで!!」と言える物まで見えるようになりました。毎日いたずらも盛んで元気に動き回って、病気と言うことを忘れさせるほど伸び伸びと育っていました。学校・家庭共に勉強より気持ちを育てることに重点を置き、どんなに障害が重くとも子育てを楽しもう、私が楽しければ娘も楽しいだろう、ずいぶん自分本位な考え方かもしれませんが、私はそう思っていました。気持ちが育てば言葉はついてくると信じていました。
娘の成長には家族の存在が欠かせません。初めは厳しい訓練に反対していたおじいちゃんも娘の成長と共にだんだん分かってくれるようになりました。一番の理解者はおばあちゃんでした。どんな時でも黙って見守ってくれ受け止めてくれました。おばあちゃんがいたからこそ、娘も息子も育ったと思っています。息子は一つ違いの弟で、小さい頃から手話を見て育ったので、娘との会話は手話で姉弟喧嘩も盛んです。どこへ行っても身体の大きい息子は「お兄ちゃん」と呼ばれると「違う、僕は弟!!」と言って弟であることに自信を持っていました。主人は、なかなか手話を覚えようとしてくれず、娘が話すたびに「今何言った?」と私に聞くので「私は手話通訳者じゃない、親子でしょ!!」と言うのですが、なかなか難しいようです。でもとても娘を愛してくれています。
私達家族は、感情表現はオーバーに、イベントは盛大に、をモットーにいろんな経験をさせてきました。
この頃、私は友人の子供さんのお見舞いに行った病室で、娘より小さな子供さんが人工呼吸器をつけてパソコンで遊んでいる姿を見て、娘も病気が進行したとき手話が使えなくなったら指一本でも瞬きだけでも、パソコンが使えたらいいなと思いましたが、娘は五十音が書け、名詞・動詞が少しずつ言葉として使える程度だったので、もっと言葉を覚えなくてはと思っていました。
娘の中学時代が私にとって一番辛いときでした。中学に進級する前にカテーテル検査をしました。結果は肺高血圧の値が上がっていました。進行していたのです。運動制限がつき走ることはダメ、車椅子を用意し、常時携帯酸素を持ち歩く生活になりました。やっと娘の現実を受け入れようと思えた頃に、おばあちゃんの発病、病名は急性リンパ性白血病でした。信じられませんでした。五ヶ月の入院生活、一年三ヶ月の闘病生活の末おばあちゃんは亡くなりました。それから三ヶ月後、今度は娘の友達のお母さんで私の親友が膠原病で亡くなりました。
おばあちゃんと友を送ることで、運命はいくら頑張っても変えられないのだと悟りました。それまでの私は、運命は変えられる、変えてみせると思っていました。娘もやはりその時が来たら死ぬのだ、それがいつかは分かりませんがその時まで「運命に逆らわず流れてみよう、そして精一杯生きられたらいい」と思っていました。
でもただ流されるのは嫌、自分の意思で流れたい。
娘の最後のその時まで、絶対に一人ぽっちにしない、どんな方法でもいいから話していたいと思いました。
娘はこの中学時代が心や生活面でも一番成長しました。学習面ではワープロを覚えワープロを打つことで言葉の中には促音・濁音があることが分かり、文字を変換することでカタカナを覚えました。文字に興味を示したので、娘が自由に使えるFAXを取り付けました。おばあちゃんの入院中、私が病院に付き添いとして泊まりに行く日がありました。そんな日は、二語文程の約束事を書いておくことで読んで理解するようになり、おばあちゃんの死んだときも、全てを見せることで娘なりに死を理解しました。
学校でパソコンを使うことになり、家にもパソコンを買いました。私も娘の学校でパソコンを教えていただいて、学校内のネットに入れてもらい娘の国語の時間にメール交換をしていました。漢字も絵文字のように覚え書いて使えるようになりました。
担任の先生が自宅にFAXを取り付けられると、毎日先生の家へFAX攻撃を始めました。
毎日返事を下さるお陰で文字も言葉もずいぶん覚え、電話の声にも反応するようになりました。
そんな頃、ある日突然「ピーターパン様」と言う葉書を書き始めた娘は「修学旅行に行きます。ピーターパンをみます」と言う内容でした。それからの娘の頭の中はピーターパン一色でした。娘の初恋相手はピーターパンでした。何故ピーターパンなのか未だに謎です。
中三の秋に病院を移りました。病院を移ることで娘の病気について一から説明を受け改めて病気の重さを知り、治療法のないことを悔しく思いました。「娘さんはこの心臓で精一杯頑張っています。一日でも長く元気でいられるようにお母さん頑張りましょう」新しい先生のこの言葉に動揺する私、覚悟していたはずなのに、次から次へといろんな事が頭の中を横切ります。そんな私を支えてくださったのは担任の先生でした。落ち込み動揺する私の話を本当に良く聞いてくださり「出来る限りのことをさせてあげて、笑顔で過ごせるようにさせてあげたい」とおっしゃってくださいました。
そんなとき、メイク・ア・ウィシュという、難病の子の夢を叶えるボランティア団体に「娘をピーターパンに会わせて欲しい」と申し込みました。
高校生になった娘は、ピーターパンに会えることが決まりました。
この頃の担任の先生との連絡ノートには「病気の事実を認め、運命は変わらないけれど精一杯生きると思えるようになりました。娘の出来ること、やれること、やらせたいこと、娘の夢を実現したいと思う気持ちに、生きる力をもらったような気がします」と書いてありました。
高校一年の冬に、ピーターパンに会い夢のような時間を過ごすことができました。
それからの娘は、実に生き生きと何にでもチャレンジしています。そのときお世話になったボランティアの方々が今でも応援してくださって、手紙・FAX・Eメールを送ってくださっています。娘は大喜びで読んでいます。
高校生になってから、パソコンでインターネットを始めたり、学校の作業で始めた、さをり織りに興味を示し、今では趣味として家でも織物を織っています。
この二月からは携帯電話を持ちました。同時に、私たち家族も同じメーカーの携帯電話を持ちました。担任の先生方も同じメーカーの携帯電話をもってくださいました。もちろんかけることは出来ませんが、文字メールに挑戦でした。あの小さな字が読めるのか、五十音が順番に打てるのか、文が作れるのか不安でしたが、朝起きるとおはようございますから始まってお休みなさいで終るまで、実にいろいろメールを送っているようです。驚きです、今時の女子高校生をしているのです。
始めは一方的に自分の言いたいことだけを送っていました。「雪見ました。嬉しいです」初雪を見たときのメールです。私が風邪を引いて寝ていたら「お父さんは家に来ます。おいで!!早く帰ります。仕事終ります。お母さん風邪えらいです」「お母さんは寒い風邪えらいです」と言うメールを何回も送ったそうです。お父さんはビックリして帰って来てくれました。娘が一人で私の様子を心配して、私の知らないうちに送ったメールです。
私は嬉しくて泣いてしまいました。メール交換のお陰で、手話の分からないお父さんも、娘と会話が出来るようになり、娘からお父さんに用事のときは「おーいおいで!!」とメールで呼ばれています。仕事中に「今何していますか?」と入ることもあるそうです。「仕事だよ」と返すと、最近は「分かりました、頑張ってね!!」と返事が来るようになりました。学校の先生方と、娘の友人とそのお母さん達が娘のメル友です。ただ一つ困った事は、毎晩「今日のご飯は○○を食べました」と我が家のメニューが、あっという間に伝わるため私も料理に手が抜けなくなりました。
五月の修学旅行のときも、同級生たちは沖縄へ、娘は気圧の加減で飛行機がドクターストップになったので、皆と違う大阪・神戸へと分かれたのですが、メールのお陰でお互いの様子を伝え合うことが出来て、とても楽しい修学旅行になったようです。私たち家族も娘の体調を心配せずに済みました。
科学の進歩で今の時代だから出来ることを最大限に活用して、毎日を笑顔で友人達と共に過ごしています。けれども、体力的には落ちてきて、学校内の移動は出来るだけ少なく考えていただき、外出するときは車椅子を使用し、寝るときは、在宅酸素治療を行っています。
来春には卒業です。元気なうちはたとえ一年でも二年でも作業所に通い、大勢の人の中で仕事をする喜びを味わって欲しいと思っています。
また、二十歳になったときには記念に、さをり織りの個展が開けたら、なんて考えています。
娘と共に夢に向かってチャレンジすることで、娘がどれだけ充実した人生が送れるか、娘が自分の人生を楽しんで生きたんだという、証を残して欲しいと願っています。私の自分勝手な思いかもしれませんが娘の笑顔が一番の答だと思っています。
人は必要なときに必要な人と出会うことができると聞きました。娘を授かったことで娘と出会い、娘を育てることで大勢の方との出会いがありました。今まで、何度となく落ち込んだときどんなときでも、この時間は娘と私に、いえ私達家族にとって必要な時間でした。必要な人との出会いがありました。
娘の笑顔を大切に思ってくださる大勢の人に支えられて、今日があり明日があると、娘を通して教えられました。
どんな状況になっても、心は元気でいたい、そして、ますます笑顔に磨きをかけて、最後のそのときまで、娘の人生を笑顔で過ごせるよう、これからも、いろんな人との出会いに感謝して生きていきたいと、思っています。
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