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障害者のいる家庭 ―私の場合―
岐阜県 加島 かほる
その一
 私は、愛知県の新家の二人姉妹の長女として生まれました。父は昔気質の職人で、娘ばかりの家庭では、長女が婿を取り跡を継ぐのは当然だと考えていました。
 親の望みに応え、私は主人とともに自営の仕事に入りました。実は、私にも夢があり、その道に進みかけていたのですが、「その世界で一番になれるのか。食べていけるのか。やりたいなら家を出ろ。」と言われ、結局辞やめざるをえない状況となり、婿取り話が加速していったわけです。
 そんな中、待望の長男が誕生しました。初孫にして男の子です。父は、どこへ行くにも連れ歩き、孫を紹介して回りました。仕事詰めの主人が気の毒なほどでした。
 ある時、床をドンドンと叩き長男を呼ぶ母を怒ったことがあります。一歳前後となり名前を呼んでも振り向かないことに不安を感じていた頃です。地元の保健センターに相談すると、「男の子でまして初めての子は、話し始めが遅くなることが多々ある。」という返事でした。その言葉を信じ安堵していた私でした。今から思うと何の不思議もないのですが、工場の手伝いを喜んでする息子でした。耳からの刺激がない分、目からの情報に頼っていたのでしょう。不安に駆られた私は、保育園に通い友だちと遊ぶ経験をさせたり、仕事にかまけず息子の相手をしたりしました。今にして思うと焦っていたのでしょうか。
 それでも変わらぬ不安を保健センターに訴えると、こっそり愛知県総合保健センターで聴力検査があることを教えてくださいました。現在では、各地方の保健センターでも早期に検査していただけますので、早期発見・早期教育が可能となっています。「大丈夫です。心配しすぎです。」と言われることを想定して検査したのですが、車での行きと帰りの空気は一変しました。「あなた方の息子さんは、聴覚に障害を持っており現在の医学では治りません。教育によって聴覚を活用することは可能です。」先生の言葉が頭の中をグルグル回り、もう涙も出ませんでした。
 親に伝えると、信じられない様子で、挙げ句の果てには、「加島の血ではない。婿の・・・。」と言い出し、毎日毎晩、今後どうするのかと責められました。うちの親は、障害の受容ができなかったのです。私には頑張れと言い、主人には叱咤する。「厄介払いをしたい。一千万円くれてやるから子どもを連れて出ていけ。」と言われたそうです。私はそれを知らされぬまま別居となったのです。親のシナリオのまま離婚調停となりました。たった二ヵ月の間に、夫婦の気持ちは離れつつありました。「これは、違う。私の思いと違う方向に流されていく・・・。」
 私は、二子として誕生した一歳の娘を連れて早朝に家を出ました。「二度と敷居は跨ぎません。」と一筆書いて、車に乗るだけの荷物を詰め込んで、一路車を飛ばし、一宮聾学校近くの借家を借りようと、朝六時前に不動産屋駐車場にて開店を待ちました。
 父は、「人の身になって考えろ。」とよく言っていました。良い言葉です。しかし、後になって思うに、「自分(父)の身になって考えろ。」と言っていたのでしょう。孫をとてもかわいがっていたのに、その成長を見ることもなく、十年程前に独りきりで亡くなりました。
 
その二
 絶対的権力を持つ親の意見に逆らうためには、黙って出ていくしか方法がありませんでした。もっと話し合いを重ねていたら・・・とも思います。両親も突然、孫が障害児だと告げられ困惑していたのでしょう。家族でさえ、家族だからこそ受容出来ないこともあります。後ろに引き戻されることなく前に進むには、この方法しか私には考えられませんでした。
 主人は、私にこう言いました。「一宮に来て初めて妻となった。」実家に居た時は、親の考えを伝えるだけの私。良かれと思ったことが、主人を深く傷つけていたのでした。
 別居中、主人は娘の歩き始めを見ることなく、私は、長男の話し始めの言葉を聞くことなく時が過ぎていました。信号を見て「あお」と発語した時は、運転中なのに抱き締めたくなるほど嬉しかったと、主人は今でも得意げに話します。
 生活用品が足りないまま新生活が始まりました。「あの時、お金もらっとけばよかったね。」二人して苦笑いしました。しかし、物がなくても我が子との生活はとても充実していました。自転車で五分の距離に一宮聾学校があります。当時、我が家の事情を知っている部主事先生から、余っているからとタオルセットなどをいただきました。こうして私は、人に甘えることを知り、助けてもらうことを覚えました。
 学校では、母親教育としていかに我が子を育てればいいのか、子どもとの関わり方はどうすればよいのかを教えていただきました。キュードスピーチ・口話を用いて、物には名前があることに気づかせるのです。大きな口形、大きな声、同じ言葉を最低三回繰り返していました。言葉のお風呂につけよう、引き出しに知識をいっぱい詰めよう、親も躍起になっていました。成長していく過程は楽しいのですが、他の子どもと比べてつい叱ってしまいました。鳴かず飛ばずの時期があり、先生に相談すると、「広い踊り場にいるのね。同じ所を回っているかに見えても、螺旋階段を登るように必ず成長しているのよ。」と言われ、心が晴れた思いでした。ある日帰宅すると、同級の母親が私に子どもを預けて学校へと戻っていきました。帰りの会での対応に納得いかないようでした。オルガンの音が聞こえる子もいますが、戻られた親の子には聞こえません。聞こえないのに空気の振動を意識しろと酷なことを言われ、その子独り執拗に残され訓練させられていたのです。このように理想や想いの違いから、つい衝突してしまうことがありました。親同志も毎日顔を突き合わせるのですから、良いこともあればそうでないこともありました。しかし今では、親戚よりも親しい仲になっています。
 長男ばかりに目をかけていたのでしょう。二歳になった娘が、「ちかちゃん淋しい。」と言って、突然布団に突っ伏して泣いたのです。考えてみると、保育園に五年間もお世話になり、おむつを取ってもらったのも保育士さんでした。最近でも、「小学校の記憶がないわ。」と言ってきます。恥ずかしながら私も希薄なのです。また、「兄や弟には目を見て向かい合って話すのに、私に対しては背後から話すのがすごく嫌なの。」とも言います。必要性があってしていることなのに、娘は嫉妬していたのです。幼児期からの穴埋めをするべく、女の子なので二十歳を過ぎた今でも寄り添い合っています。
 長男が年長の夏に、末の息子が産まれました。出産する日は主人の盆休み初日にして、その後有給休暇を取ってもらいました。入院している間、主人は主婦となり、子ども二人の世話と家事、病院への行き来を繰り返してくれました。これは、家族にとっても夫婦にとっても大きな信頼の絆となり、お互いへの感謝の気持ちが強固になりました。
 学校への送迎は、親しくしている親御さんたちが交替で行ってくれました。帰りには家に寄って赤ちゃんと遊んでいってくれました。そんな中、やはり聴覚障害を疑って出産前に予約しておいた検査を生後二カ月で行いました。どうしても産みたかった私ですが、結果を聞くと、さすがに主人に申し訳なく落ち込みました。私と正反対の性格の主人は、そういった時には毅然としています。結婚して二十四年、二人して悲愴感に暮れることはありませんでした。でもやはり夫婦です。思いを一つにしたいのに、時として温度差があるのは悩みでした。ある日、相性診断をしたところ、消費税程の相性しかなく、笑いながら納得したことを覚えています。
 小学校入学にあたり、隣の学区にある難聴学級を併設する普通校を目指しました。実家の親への意地もありました。障害があっても普通に暮らせることを証明したかったのかもしれません。幼児期の進学先決定は、大半は親の意志だと思います。障害児は学年に一人が通常でしたが、長男の時には二名入学しました。しかし、保育園交流もしていたので、学校に知り合いは大勢いました。
 国語と算数は、難聴学級にて一対二で指導していただきました。ある時、自分の髪を抜いて机に並べていたことがありました。本人は、嫌なことがあっても口にしない子でしたが、これが九歳の壁と言われる時期だったのかもしれません。勉強は抽象的思考が増えてゆき、自信を失う頃の出来事でした。
 息子は車好きで手先が器用なため、紙細工で動く車を製作し、全校生徒の前で発表したことがありました。物作りが好きな性格は、今も多方面で活かされています。
 難聴児に物を教えるように健常児を育てれば天才児教育になると聞いたことがあります。しかし、実際には疲れてしまい、娘の教育にまで手が回らず、「私には手を抜いたよね。」と言う娘に対して、「貴女で普通を楽しんでるの。」と嘯いたりしました。
 聴覚障害児の中には、とても頭の良いお子さまもいて、国立大学に現役で進学したり、難関の職種に就く人もみえますが、長男はごく一般的な優しくてかわいらしい子どもでした。
 
その三
 長男が六年生の夏、岐阜県坂祝町に引っ越してきました。卒業まで過ごさせたいという親側と学校側の思いが一致し、一宮まで毎日通いました。初めての引っ越しと転校で心細い中、朝一人残った娘は家に鍵をかけて登校し、帰ってきて鍵を開けました。単身赴任の主人が娘に電話をすると、泣いていたそうです。次男は一宮聾学校幼稚部に通っていたので、三人が各々異なる学校に通うことになり、娘には不憫な思いをさせてしまいました。
 さて、中学はどうするかについて長男と話し合う日が続きました。話し合いのできる言語力が十分ついていて、真剣な中に喜びが溢れる毎日でした。長男は、幼稚部時代に共に学んだ友人と過ごすことを望み、一宮聾学校中学部に進学しました。そうなると当然、次男は幼稚部から小学部に進学です。ついて回りのような気もしましたが、現実性を優先させました。
 三年間は、同じ学校に大好きな兄と一緒です。兄を見つけては、指さし手を振る次男でした。娘の授業参観日に連れて行った時、平気で席まで歩み寄り肩を叩く次男は、あろうことか教室でおもらしをしてしまいました。このように失敗は数々ありましたが、その都度子どもたちには時間をかけて全てに意味があることを伝えていきました。
 その頃、実父が亡くなり、初めて妹の旦那様に会いました。複雑な家庭であったこと、でも実父なりに孫を愛していたことを精一杯話しました。子どもたちが皆に愛されていた記憶を作りたくて。
 中学時代は、何をするにも楽しげで弾けていました。生徒会長にも祭り上げられ、人前に出るタイプでない長男は、黙々と責務を果たしました。大きくなると一般の中学との交流を嫌がったりします。交流教育は、社会性が身につくなど障害児のためになると言われますが、年に数回の交流で社会性が身に付くとは思えません。私は交流を健常者が障害者を知る機会と考え、長男にはあえて「障害児との関わり方を皆に理解してもらうために行きなさい。」と突っぱね、一宮の中学校との交流をさせました。次男には地元との交流をさせたかったのですが、住所を岐阜に移してなかったので坂祝での交流はできません。しかし、低学年のうちに是非させてやりたいとお願いしてみました。当時姉の通っていた坂祝小学校の小藤校長先生から、心温まるお手紙を頂戴しました。「悠貴君は、うちの子です。」という記述に接して涙が出ました。運動会に一日だけ参加させていただき、先生方にもご迷惑をおかけしましたが、とても良い経験になりました。お礼の手紙は差し上げたものの交流を続けることは申し訳なく、一回きりとなりましたが、先生からいただいたお手紙は、大切な宝物としてしまってあります。
 子どもの将来像について話し合いながら、高校をどこにするのか悩みました。県立か私立かでなく、どこの県立聾学校にするかです。自ら意見を述べる長男の前向きな態度は、ビデオに残しておきたいほどでした。就職と地元を意識して岐阜聾学校に決めました。もちろん学校付近の偵察も行い、本人なりに納得した上での決定でした。
 高校生となり、いきなり友だちも環境も変わりました。入学式では、長男の緊張が痛いほど伝わってきました。代表として宣誓文を読み上げたのです。「なんで僕が・・・。」とボヤいていました。しかし、一年もすると授業中無駄話ができる程仲間に溶け込んでいました。
 一宮聾学校では、長男に続いて次男も幼稚部からお世話になっていましたので、PTA活動がどう動いているのか多少わかっていました。それで、岐阜ではなるべく目立たずおとなしくしていました。長男は、慣れていないのか興味がなかったのか、行事には参加しなかったので、岐阜聾学校の活動を私も知る機会がありませんでした。私の知る限りの話ですが、聾学校には、生徒の人数と同じくらいの先生方がいらっしゃいます。先にも申しましたが、下は零歳から上は二十歳、事情によってはそれ以上の方もみえます。幼児期は、保護者も四六時中付き添って活動を見守り、勉強の内容をノートにとり、家庭学習の参考にしました。一般学校では、授業参観の日一日限りでも先生方は緊張されると聞いています。しかし、特殊学校では、送迎などを含めてほぼ毎日が参観日になります。子も親も、同じ学校に十年以上通う人はざらです。長い人は二十年近くも。さらに、聾教育に携わる先生は十年で一人前と以前聞いたことがあります。それほど専門性が求められるのでしょう。なるほど一般学校に比べて長い先生がいらっしゃいます。心強く有り難いことです。
 高等部になると出口教育が大切になります。この時期になると、親を疎ましく思い近寄らなくなります。しかし、まだまだ鼻を突き合わせて教えたいことが山ほどあります。母親ばかりがガミガミ言うと逆効果なので、主人にも頼みました。社会人の大先輩として話に説得力があります。あとは、私の思ったことをいちいち言葉にして理解できるように伝えました。「待ち合わせの時間、五分前は当然よね。」「店員の対応が気持ちいいわ。シャキッとしてるわ。」等々。長男は、たまたま学校を変わることが多かったのですが、その時々にすばらしい出会いがありました。とかく、子どもの成長期に出会った先生は良い先生で、低迷期に出会い、成果が見られない時の先生は・・・と思いがちです。しかし、後になってあの先生からの一言で持ち直したと気づくものです。そんな恩師が何人もいます。また、今でも付き合う友人が何人もいます。
 今では兄の背を越えてしまった弟は、兄が大好きでいつも一緒にいて話しています。兄の物をいじったとかで兄につかまれた時、行為にでなく兄に怒られたことがショックで泣いた弟。兄が外出した時、おいていかれたことで大泣きしたこともあります。そんな次男も兄の友人が来ると、遠慮して自分の部屋にひっこんだりするほど成長しました。私は、時には三人の子どもの前で、「娘が一番かわいいわ。」と言ったりしました。息子には我慢する力を娘には優越感を与えたかったのです。健常者である娘も孤立することなく自然に兄弟と接しています。今でも三人で、ボウリングや卓球などに出かけていきます。兄弟仲が良いこと、そうし向けてきたこともありますが、私にとって一番有り難いことです。そして主人も、子どもに分かるように少し大袈裟に「ありがとう」と言ってくれるので、私の心は安定しているのだと思います。
 
その四
 私が独身の時には、町を歩いていても妊婦さんを意識することはありませんでした。でも、いざ自分が妊娠してみると、気付くようになります。障害者も同じで、この子が産まれてくれたことで、多種多様な障害がある方々を知ることになりました。五体満足で普通ということが、実はとてもすばらしい偶然だということに気付かされました。
 幼い頃より、「右か左かどっち」と教えてきたせいか、長男は頭の堅い子になった気がします。仕方ないとは思っていますが、社会に出る頃には柔軟な思考力が必要となります。人間関係におけるトラブル回避のため、第二次障害と言われる情報不足障害、コミュニケーション障害を緩和できるよう、本人に自覚させ親も支援しなければいけません。
 学校を卒業すると親も淋しくなります。地域との付き合いが少なく疎遠であったため、いざ地元に戻ると孤独に陥るのです。そんな時は同級だった親御さんと話したりしながら、親も卒業後のリハビリをするのです。
 長男が自動車運転免許を取得し喜んだのも束の間、出ていくたびに心配をすることになりました。数ヵ月経った頃、事故を起こし慌てた様子でメールをしてきました。「すぐお父さんを呼んでください。僕は悪くありません。」次の事故は成人の集いの後のボーリング場。駐車場でぶつけてしまいました。先生や他の親御さんが駆けつけてくださり、無事に事故処理が終わりました。「他の友人にとっても、良い経験となりました。」と先生はおっしゃってくださいましたが、本当に冷や汗ものです。さらに今春、弟が同乗中に事故を起こしました。今回は、全て自分で事故処理を行いました。口話と筆談できちんと主張できたそうです。当初の事故に比べ、対応の仕方に格段の差がありました。
 趣味はラジコンで、部品を取り寄せ独自の車体を作っています。弟も同じ趣味で兄を尊敬しています。近頃では、レースに参加すると友人ができるようになりました。長男の車について知りたい、教えてくれと言われるのです。聴覚障害だと伝えても怪訝な顔をする人はなく、携帯のメールや筆談、今では口話でコミュニケーションができるそうです。そこで私は、オーバーに「すごいことや。健常障害の区別なく自然に付き合っているじゃない。」と言うと、ニヒルな笑いを浮かべていましたレース場で会う約束をしたからと、相手の二歳の娘さんにお菓子を準備する気配りもできるようになりました。二十五歳になった時を目標に育ててきましたが、夏に二十三になる息子を見て少しだけ安堵しています。
 仕事では、障害者のいない部署でお世話になりかわいがっていただきました。残業続きで熱を出しましたが、「自分で連絡してね。」と欠席連絡を本人にさせました。翌日、「若いと思って無理させたな。」と言ってもらえたそうです。卒業してからは、特に主人と話すことが多くなりました。「お母さんにはわからんでしょ。」が息子の口癖です。
 昨年秋に部署が変わり、二交替勤務となりました。そこには聾学校時代の先輩後輩がいます。一週おきに朝四時半起きです。親は寝坊すると思ったのか、使用済みの携帯を手首サポーターに入れ自分で起きています。新年会では、前の現場からも呼ばれ楽しく過ごしてきました。今でもその現場を通って行くのですが、挨拶を交わしているそうです。
 長男は、地元との接点は残念ながらありませんでした。手話サークルに我が子を紹介するつもりで参加させた程度です。成人式には初め不参加のつもりでしたが、「自分が坂祝にいることを知ってもらおうよ。」と言うと、その気になってくれました。たった一人のために手話通訳を付けていただけた配慮を親子で感謝しました。また、一宮市からも一宮市の小学校卒業ということでお声をかけていただきました。懐かしさのあまり成人式の会場へ飛び込んでいきました。一宮聾学校には、かけがえのない友人、先生方がみえます。該当者ではないけれど、是非成人の集いに出席をしたいというFAXをして叶えることができました。文面を考える時は、苦労していました。そして岐阜聾学校親の会主催の成人の集いにも参加しました。転校された方にもお声を掛けて、総勢六十人が集まった賑やかで温かいそして懐かしい会でした。
 幸せなことに長男は、卒業して益々友人と呼べる仲間ができました。兄を見て弟も奮起してくれるといいのですが、プレッシャーになっても気の毒です。発音や文章能力などは、先輩の親御さんがおっしゃっていたとおり、社会に出てその必要性から上達しました。次男にもそれを伝え自信を付けさせたいと思います。
 私は、我が子には良い旦那さん、良い奥さんになれるように育って欲しいと思っています。そして、恋人のご両親に納得していただけるような説得力ある言語力が備わっていれば大満足です。無はそのまま有にはなりません。無を補っていくほどの優れた特性を身に付けていって欲しいのです。
 もし仮に私たち夫婦が、理解ある親の元で助けてもらいながら子育てができたら、体力的にも精神的にもどんなに楽だったかと思います。気持ちが不安定なため、訳もなく苛立ったこともありました。私たち夫婦だけで乗り越えてきたことは、今では自信にもつながっていますが、できれば、私たち夫婦が一代目として子どもと協力して孫たちに愛情を注ぐ流れを作りたいと願っています。「無い袖は振れぬ」「分相応」を家訓として・・・。私の親に対するトラウマは拭い去ることはできませんが、反面教師としてとらえることができるよう努力していこうと思っています。
 障害児を授かって見えてきたことや、見なくても平気になったことがあります。ある意味において、息子たちがいたからこそ幸せを掴めたような気がしてなりません。
 今回こういった機会を与えてくださいまして本当にありがとうございました。皆様のためにではなく、結局は自分のための卒業文集としてとても良い記念になりました。この中より、何かを感じ取っていただければ幸いです。


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