娘と共に
千葉県 松村 博子
娘の聞こえないことが分かったのは一歳七ヶ月の時でした。長女に比べて言葉が遅れているのが気になっていた丁度その頃、長女の三歳児検診の知らせの中に「ことばの遅れに心配のある方は成田小学校ことばの治療室で相談を受けています。」とありました。
そこで早速、成田小学校に行き、先生から「純子ちゃんは聞こえに障害があると思われます。一度専門のところで検査を受けて下さい」と言われ、千葉県特殊教育センターを紹介されました。
脳波検査の結果、聴覚障害であることが分かりました。
「今の医学では治療は無理です。一日も早く聾教育を受けて下さい。」と言われ、聾と言う言葉を始めて耳にしました。
「わが子に限ってそんな馬鹿なことがあるものか」とそれから病院巡りが始まり、中国ハリ治療などに一年も費やしました。回り道をしながら、やっと障害を受け入れる気持ちになり、特殊教育センターに戻り、一ヶ月に一回教育相談を受けました。
その頃、主人の兄と主人とで経営していた鉄工所が倒産し、子どものいない兄は夜逃げ、後に残った私達は負債の整理や債権者の対応の中で、明日からの生活をどうするのか、娘の教育をどうするか、眠れない毎日が続きました。
その後、あるきっかけでNHKの教育番組「テレビ聾学校」に、一年間ぐらいだったでしょうか、出させてもらいました。
三歳になり千葉県立千葉聾学校の幼稚部に入学しました。学校に子どもに付き添って行き、子供達の後ろで、先生の教え方、自分の子供がどこでつまずいているかをチェックして、それをノートに書きとめ、家に帰って復習しました。家に帰ると夕飯の準備が待っていますが先ず、すぐに復習、絵日記、絵カードのマッチングなどをしました。本や広告を切り抜いたり、自分で書いたりして作る絵カード作りは、夜中まで続きました。
長女は一日中親から離れていたので「お母さん、お母さん」と保育園であったことを話したいのでしょう。でも、私はクラスの皆から遅れをとってはと気合が入っています。「今、純ちゃんとお勉強中だから後にして待っていてね」、黙って引き下がる長女の寂しい気持ちを汲んでやれる余裕すらなかったのです。
長女や主人の孤独感、疎外感、家族の誰もが我慢したと思います。それでも長女は卑屈になることもなく、友達を連れて来ては純子と良く遊んでくれました。
主人が体調を崩し、一年間の入院生活を送っていたとき純子は「私は、我儘だから寄宿舎に入って自立したい。」と言って高等部に入ると同時に、自分で荷物をまとめて聾学校の寄宿舎のお世話になりました。きっと家の事情を考えてのことだと思います。
そして高等部を卒業し、専攻科の理容科に進みました。
そんな娘を見て、私も将来、娘がもしお店でも持ったときに、何かの手伝いが出来るのではないかと思い、理容の通信教育を始めました。学科が分からない時は、娘の通う聾学校に行き、先生方に教えていただき、お世話になりました。
平成元年、二十歳になった長女を、交通事故で亡くしました。学校から「松村さん、おめでとう、合格していましたよ」と電話を受けたその日は、長女の告別式でした。何と返事をしたのか覚えておりません。
たった一人の心の支えになってくれた姉を亡くした、娘純子の心中を思うと、どうしていいのかわからなく、言葉もかけてあげられず、悔しさと無念さで毎日泣くばかりでした。純子は自分のことより私を心配して、寄宿舎生活をやめて家に戻り、私が早く立ち直るようにと励まし支えてくれました。だから今日の私があるのだと思います。
それから五年後、私もやっと何とか立ち直ることができ「自分に何ができるのだろうか」「どう生きて行けばいいのだろうか」と迷いました。
そうしたら生きる道があったのです。それは理容の国家試験が残っていたのです。
私はパート勤めの休日を利用して理容店で実習をさせてもらい、また男性の多い会社でしたから、男性社員の頭を刈らせてもらいました。そして老人ホームに行っておじいちゃん、おばあちゃんのカットもさせてもらいました。その努力の甲斐があり実技試験に合格して、ついに理容師の免許を取ることが出来ました。家族や周囲の皆さんのお陰だと感謝しております。
娘も理容師の免許は取ったのですが「私は会社に入って健聴者の中で働いてみたい。」と言い出し、言い出したら聞かない性格も判っていましたから、何でも挑戦してみる事も悪くないと思い、反対はしませんでした。アパレル関係の会社に就職し、娘は娘なりに色々と工夫して、筆談や簡単な手話を覚えてもらい気配り上手に、職場の人ともうまくやっているようです。仕事ですから辛いこともあると思いますが、娘の口から愚痴は聞かれません。
娘が学校を卒業してからは、我が家に聴覚障害者の人たちが来るようになり、手話を使って話かけられるのですが、私はさっぱり判りません。そこで私も手話を覚えようと手話サークルに入りました。
十年前、当時は手話サークルに入って驚いたことは、聴覚障害者と関係なく「手話に興味があったら」「聾の人と話したいから」「病院で聾者の人が困っているのを見たから」という理由で入会した人たちばかりで、私は涙が出るほど感動したことを覚えています。
私が手話サークルに入って学んだことは、手話は勿論のことですが、聾者の歴史、聾運動など、私の知らなかった聾者の世界です。
昨年は主人が亡くなりました。悲しいことがいっぱいありましたが、今は娘に支えられながら、千葉県聾重複障害者の施設をつくる運動に参加しています。
聴覚障害者誰でもが将来安心して暮らせるよう地域で抱える問題、障害者自立支援法など、残された問題はたくさんあります。
これからも親子で活動できる喜びを噛み締めながら頑張って行きたいと思います。
栃木県 高橋 要子
聴覚障害児を育てたお母さんの表彰に、私を推薦したいと親の会会長の大久保さんから思いもかけない電話をいただき、少々戸惑いを感じました。そして決定の通知をいただいたあと、今度は体験発表をしてほしいとのお話を伺って、「とんでもない!」と迷いました。
今まで無我夢中で走り続け、親らしいことを何一つしていない私なのに・・・しかし現在私達親子が何不自由なく生活してこられたのは、聾学校長はじめ諸先生方のおかげなのに長い間お世話になったまま、何もご恩返しができていないし・・・。
また、本日のたたえる会に色々と事細やかにご準備を下さいました方に、また私ども親子のために今まで精一杯かかわってくださいました全ての方々に、心より感謝の思いをこめてつたない体験ですが、お話させていただきます。
昭和四十二年十月二十一日次男裕之は、三人目として生まれてきました。主人が烏山和紙で有名な烏山の女子校に勤務していた時でした。主人が朝教室に入ると黒板に大きな文字で「先生おめでとう」「一姫二太郎上出来!」と書いてあったそうです。少々照れ気味に帰ってきて、しかし嬉しそうに、そう話してくれたのをはっきり覚えております。上の二人が生まれたときは子供のそばに居なかった主人でしたが、裕之の顔をのぞきっぱなしで「かわいい、かわいい」の連発で本当に幸せなひとときでした。
生後六ヶ月をすぎた頃、種痘をしたその日の夕方のことです。顔面蒼白でぐったりしている裕之に気付き、あわてて医者に連れて行きました。以前からヘルニアがあり、泣くと固くなっていましたが、手で押さえるとグズグズと中に入っていたのです。しかし、その時はいくらやっても入らないのです。先生は命にかかわるとの事、急遽国立病院に回され麻酔をかけてやっと腸が入りました。外科の先生はすぐ手術が必要と言われましたが、小児科の先生は
「種痘をしてすぐ全身麻酔での手術は、ちょっと無理があるのでは?」
「今、腸は中に入っているのだから、少し様子を見ることにしては?」
と意見が二つに分かれ、迷いました。義父はこんな小さな子供にかわいそうと反対しましたが、外科の先生は「脱腸は簡単な手術だし、このままでは今後大きくなってちょくちょくでますよ。」「小さいときに手術したほうがいいですよ。」
主人と話し合い、手術をお願いしました。
その後裕之はスクスク育ち、一歳を迎える頃、義父が「裕之は耳の聞こえが悪いのではないか?」と何回も心配していました。「まさか」と私は何度打ち消したかわかりませんが、確かに名前を呼んでも振り向いてくれないのです。ふだん誰にあやされても、にこにこと可愛らしく声を出して笑っていましたから・・・。しかし、不安は隠せず耳鼻科を尋ねたのですが、まだ小さいし、はっきりしたことがわからないまま、東京の大学病院まで足を運びました。体の大きい主人は、泣いてばかりいます。将来どうなってしまうのだろうかと。裕之だけでなく、上の二人にもどんな影響を与えるのか?私達親は、裕之になにもしてあげることができないむなしさを感じました。
しかし、悲しんでばかりいられません。大学病院では、「お子さんはまだ小さいし、測定は無理ですが、とにかく訓練だけは小さい時からしたほうがよい。」と言われ、今までの生活を一変させました。東京町田にある日本聾話学校には、二ヶ月ぐらい裕之と二人で泊り込みの訓練に参加しました。両耳とも補聴器の耳型をとってもらい、胸のポッケトに補聴器を二台入れ、小さい体にはとても重そうでした。下手な絵もたくさん描き、音の出る楽器も次々と買い、常に裕之と接しておりました。上の二人の子供は、いつも義父母にお世話になっていました。裕之のために家族全員が協力をしてくれていました。
しかし、義父は裕之の「おじいちゃん」という言葉を聞くことなく、裕之が五歳の時に他界してしまったのです。次の年、陸上競技で鍛えて国体まで参加した、あんなに体の大きかったスポーツマンの主人も、父親の後を追うようにこの世から姿を消してしまいました。「どうやって今後、子どもを育てていこう」驚きと悲しみとショックで私も主人と一緒にあの世にいきたいと泣き叫びました。
すると義母が「要子、しっかりして!こんな小さな三人の子どもを置いていけないだろう!」と言ってくれました。本当にそうでした。しかし、一ヶ月くらいは外に出られず家の中におりました。
その頃は栃木県立聾学校相談室から幼稚部に通いはじめた頃で、先生方にはそれはそれは親切にやさしく接していただきました。お母さんたちにも慰めていただき、やっと生きていく気力を取り戻しました。私が仕事に行くようになり、義母はどれほど裕之と一緒に聾学校に通ってくれたことでしょう。感謝でいっぱいです。バスの中では、補聴器をかけている裕之を見て「あっあの子はつんぼだ・・・」と言われ、ずいぶん悔しくつらい気持ちにもなったと話しておりました。近所の方たちもみな親切で、子供会にも入れていただき裕之は本当に幸せものです。
「他人に迷惑をかけないこと」「自分のことはすべて自分ですること」ちょっと厳しいですが、それが私の信念でした。
義母は家事一切と学校への付き添いと、一生懸命お世話をしてくれましたが、両親がそばにいないことで子どもたちはどれ程つらい、淋しい思いをしたことだろうと、今思い出すと、もっとやさしくしておけばよかったと、後悔をしております。
しかし、あんなに一生懸命に私達をお世話してくれた義母も、昭和五十七年一月四日に父や主人の待っている世界に行ってしまいました。孫たち三人の結婚式に参加することもなく、苦労のかけどうしで母には本当のやさしさを、教えていただきました。
栃木聾学校での裕之はいろいろな体験をしました。
「良寛」の劇で主役の良寛になり、とても大きなはっきりとした声で台詞を言っていたのを見て、とても感激したのを覚えております。また、障害者国民体育大会が栃木県で開かれたとき鼓笛隊として参加し、上手に太鼓をたたいて、聞こえない彼らがどうやってこんなすばらしいことが、出来るのだろうと不思議な気持ちになったことも忘れられません。その他、柔道でも新聞に掲載され、野球の応援では子どもといっしょに泣きました。鳥取国体でも陸上競技での参加が許され、活躍もいたしました。そういった行事の他、補聴器の調整も付きっ切りで見てくださり、耳から少しでも音を感じさせようとご配慮いただきました。また、先生の暖かいご指導により、ある時私の大好きな梅の花柄で七宝焼きのブローチをプレゼントされたこともありました。高校の時には、鈴木先生から詩吟や剣舞まで教えていただき豊な経験を得ることができました。
こうして今の教育界では考えられない大きな愛情を、学校の全ての先生方から賜りました。本当にありがとうございました。
手先の器用な裕之は機械科を専攻し、卒業後松下電子応用機器に入社しました。夜勤もありたいへんな毎日ですが、一度も愚痴を言うこともなく、もう十三年も真面目に勤めております。平成四年十一月には相談室から一緒だった彼女とめでたく結婚し、挨拶も二人でしっかりはっきり言うことができ、今までのことが走馬灯のように浮かんでまいりました。聾学校の先生方もたくさんお祝いにお出かけくださり、とてもにぎやかな式でした。また、二人共子どもが好きで、甥、姪の世話は自分の子供のように大切にします。まだ子どもができないので私は少々淋しいのですが、二人共青春真っただ中という感じです。昨年は一ケ月間休暇をとってハワイで遊んで来たとか。真っ黒になって帰ってきました。
背負うた子に教わるとよく言いますが、裕之には本当によく教えてもらい、助けてもらいました。料理など私より上手なのです。免許証を取る時、自動車を現金で買う時も全部一人で挑戦しました。
裕之の姉の結婚の時、結婚相手の彼に話をしました。
「私の家は片親で弟は障害者です。それでもいいの?」その彼は男らしくきっぱりと答えてくれました。
「私の選んだ娘さんです。大切にします。もちろん弟さんも大切にします。」と私は胸が熱くなり、涙があふれてまいりました。主人が一番心配していたことですが、娘はすばらしい伴侶に恵まれ、現在「一姫二太郎」三人の子どもに囲まれ、幸せいっぱいで笑顔の絶えない温かい家庭です。
長男もやさしい嫁を見つけ、「弟が障害者なの。」と言うと、「大丈夫よ、私にも手話を教えて」と。現在私を含めて、可愛い孫の加奈ちゃん四歳と四人で仲良く生活し、最高の人生です。二百十日の天恵の後にこそ、必ず秋晴れの世が来ると申します。本当に世の中、辛い事ばかりじゃないですね。
裕之のおかげで、両親や友達、学校の先生、信仰を与えてくれた人達などたくさんの優しい人たちと出会い、触れ合うことができ、人生勉強がたくさんできました。今思えば、いかに苦しいつらい現象が起きようともそれらを人生の節として受けとめ、その節を乗り越えていくことが、自分にとっての幸せへの道と考えることができるようになりました。神様が障害をもった裕之を私に授けて、この子を育てることによって幸せになれるよう導いてくれたのだと感じております。
私達をこんなにもすばらしい歓喜の世界の中に導いてくださった神様仏様、本当にありがとうございます。いつまでも見守ってください。
また、世の中が、障害を障害と感じないで幸せの種として生きている方で、いっぱいに満ちあふれることを祈りつつ、終わらせて頂きます。
今日は本当にありがとうございました。
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