ハマナスのうた 第7集
=聴覚障害児を育てた母たちの手記=
編纂委員会 編
表紙題字
財団法人 聴覚障害者教育福祉協会 会長 山東昭子
序
財団法人聴覚障害者教育福祉協会では、特殊教育百年記念事業の一つとして、昭和五十三年以来毎年、「聴覚障害児を育てたお母さんをたたえる会」を催し被表彰者のお父さんやお母さんの長い間のご苦労をねぎらってきました。
平成十四年度第二十五回以降は、自立し社会参加を果たされた聴覚障害者自身に、育ててくれたお母さんに対する思いを発表してもらう「母を語る」のコーナーを設け、あわせて現在聾学校に在籍して将来の自立に向けて日々頑張っている子供たちの活躍も紹介し、それらを参加者が讃えあうことと、障害者週間に因んで一般への啓発に役立てる機会とするという趣旨も加味して開催してきたところでございます。
この会で発表された貴重なお話を会場だけのものとして終わらせたくないということで、全国から募った子育ての手記も合わせて編纂したのが本書「ハマナスのうた」です。
不毛の荒地にも育ち、風雪に耐え、春を迎えて香り豊かな立派な花を咲かせるハマナスに因んで名付けた本書は、読者に大きな感銘を与えることと存じます。
ぜひ多くの方々にご一読いただきたく存じます。
ご寄稿いただいた方々をはじめ、本書の刊行にご協力いただいた方々に改めて厚く御礼申し上げます。
財団法人聴覚障害者教育福祉協会 会長 山東 昭子
大黒柱となった息子の思い出
秋田県 小松 美枝子
息子、重晴は三四歳になりました。一人っ子です。
生まれて九ヶ月、音に反応がないのに気づき、市内の耳鼻科で診察してもらったら、やはり反応がない、でも一歳前の赤ちゃんなのでここではしっかりした検査ができないと言われて、長野県松本市にある信州大学病院を紹介され、九ヶ月のときと、一歳のときと二回検査を受けました。
結果はやはり両耳が微妙にしか反応がなく、「手術などの治療では治らないから早期教育よりほかない」と言われて帰ってきました。
それでも、もしや他の病院で検査したら良い結果が出るのではないかと思い、あちこち回って検査をしましたがみな同じでした。あとは、心を決めて補聴器をつけました。
あの頃は、くじけてはいられないと思いながらも毎日のように泣いていたような気がします。それも結婚して七年目でようやく出来た子供だったからです。でも、いつまでも落ち込んではいられないと思い、母と子の教室という聴覚障害の子供と親の教室が東京の新宿にあると聞き、町田市にある私の弟の家から一週間、通いました。
教室では子供たちやお母さんたちが一生懸命に頑張っている姿を見て、元気付けられました。そこの先生から「秋田ろう学校も最近では早期教育やっているから、一日も早く秋田ろう学校に相談にいきなさい。」と言われて帰ってきました。
早速、秋田ろう学校に相談に行き週に一回の教育相談に通いました。
三歳からは幼稚部に通いましたが、本庄市からは秋田ろう学校まで、家からバスと電車、また電車と乗り継いで片道二時間はかかります。でも電車の中では重晴と向かい合って絵カードを使っての言葉の練習の場でもありました。
幼稚部の時は重晴は落ち着きがなく聞き分けのない子でした。他の子供たちに迷惑がかかるし、私自身、もう疲れたと、どんなにか思ったかわかりません。でも重晴は耳が聞こえないことなど何も気にせず、元気に近所の子供たちと楽しく遊んでいるのを見ては、私がくじけてはだめだと自分自身に言い聞かせ、小学部三年生までは一緒に通いました。
小学部へ入学の頃は重晴から「僕はどうして二郎君やなみこちゃんと一緒に新山小学校に行けないの」と聞かれ大変困った事もあります。いつも仲良く遊んでいる近所の同じ年の友達だから、と思っていたのでしょう。
ろう学校の同級生の中でも重晴は特に聴力が厳しく、他の子供たちは、良く聞くと、話していることが良くわかるくらいだったので、重晴だけがどんどん遅れて行くような気がして、私はあせりました。
明日はみんなと同じくらいにと思いながらもう疲れて眠くなっている重晴をつかまえては、かっかと怒りながら言葉の練習をしていると、お父さんが隣の部屋から「なんでそんなに怒ってまで、お前の声のほうが大きくてうるさい。」と言われ、私の気持ちも分からないでと悔しい思いをしました。それも仕方がないこと。お父さんも会社の仕事が忙しく家に帰っても休まるところはないし、と思ったり今度は、私が疲れたと口にすると
「いつも、疲れた、疲れたと言うな、お前だけ疲れているのではない、俺も疲れている。」と怒鳴られた時は、あーもうだめだと思ったりもしました。
お父さんの帰宅はだんだんと午前様になり早く帰ってもうるさく、休まるところがないのでわざと遅く帰るのだろうかと思ったりしました。私がいろいろ考えて涙が出てきたのを重晴が見て「どうしたの、どうしたの。」と心配そうに言うので、涙をごまかそうと、
「テレビを見ていたら涙が出てきたの。」と嘘を言った事もありました。
でも、頑張り屋で負けず嫌いで、一生懸命会社で働いていたお父さんだったから、ここまで重晴と私が頑張ってこられたと思います。
重晴は、三年生から六年生までの通学の時は朝早く一番の電車だったので、電車の中で眠ってしまうのではないかなどと、心配したりしました。
今は何よりも一人ひとり違う耳の聞こえの悪い子供たちに、一人ひとりに合った教育をしてくださったろう学校の先生方に本当に感謝しております。
それに、家庭では得られない寄宿舎での集団生活やいろいろ大切な事を教えてくださった、寄宿舎の先生方には本当にありがたく思っています。
疲れて崩れそうな私を、力づけてくれた近所の人たちにも感謝の念でいっぱいです。苦しい事や辛いことが沢山ありましたが、嬉しい事もいっぱいありました。
学校の文化祭で一生懸命頑張っている時、中学一年のときは、秋田県総合美術展に出品して奨励賞をいただいたとき、そして高等部、専攻科と何回か入選が続いたとき等等。
平成四年三月には専攻科を卒業し、重晴が最も就職を希望していたTDKに入社することができました。
入社一年目にはTDKの会社の方から
「精密機械コンピュータで今、課の中で百%使いこなせる人がいないから、あなたが勉強してきてくれないか」と上司と一緒に東京の会社へ、一週間の予定で勉強に行きましたが、予定より早く覚えたらしく四日間で帰ってきた時は、あの落ち着きがなく、心配だった子が、さらに一つ大きく成長してきたように思いました。
今は家から会社まで車で二十分ぐらい時間をかけて通勤しています。
主人は平成八年に突然、胸部大動脈瘤と言う病に倒れ、二年四ヶ月間の長い入院生活を送りました。お医者さんたちの手厚い治療に、主人も車イスまで回復できると信じて頑張りました。私もただの一日も欠かさずに看病しましたが、容態が急変して十一年四月に退院できぬまま亡くなりました。
いまは、重晴が大黒柱になって頑張ってくれています。
私は今、つくづくと思うことがあります。
それは私が苦労して重晴を育てたのではなく、もしかしたら重晴によって私が育てられたのではないかと、言う事です。重晴と共に泣いた事、共にもがき苦しんだ事も、全て私が成長するための糧でありそれもこれも今では懐かしく、いとおしい貴重な思い出です。
重晴は私を成長させるために、もしかして神様が聴覚障害という一つの個性を持った子供を授けてくれたのだと思うのです。
チョッピリほろ苦いところもありましたが、こんなにもドラマッチックな人生を与えてくれた、わが子、重晴に、心からありがとうと、言いたいと思います。
福島県 星 久美子
娘里子は、現在二十三歳になります。娘が生まれたのは昭和五十三年で、娘は体重が三千二百グラムのとてもかわいい赤ちゃんでした。
当時私が嫁いだ家は、私たち夫婦の他に夫の両親、祖父母、そして弟も住んでいましたので、娘が生まれ大家族の中で、私は大変忙しい毎日を送っていました。
初めての子供でしたので、不安ばかりの中で子育てをしていましたが、娘が二歳を過ぎても言葉がでないので、病院を受診しました。結果は「重度の感音性難聴で、娘の耳はほとんど聞こえない。」と言われました。その上に「精神発達の遅れ」もあると言われました。
その晩は、ショックで一晩泣き明かしました。そして、ほとんど耳が聞こえないと言われた娘がかわいそうでたまりませんでした。「これから、私はこの子をどうすればいいんだろう。」不安と絶望の中で、行き着いたところは「娘と一緒に死のう!」という考えでした。しかし、実行はできなかったのです。このことは、障害のある子供を持った親なら誰もが一度は考えることだそうです。
そんな中で、夫は「大丈夫だ。俺もいっしょに育てるんだから。」と言ってくれました。この時ほど男性の力の大きさと頼りがいを感じたことはありませんでした。(現在は、それほど頼もしいとも思っていませんが・・・?)
ある時、隣町に嫁いだ同級生と一緒になりました。「里ちゃんは元気」と声をかけられ「耳が聞こえないと言われた。」ことを話しました。話しながら涙がボロボロこぼれてきました。「まさか、自分の子供の耳が聞こえないとは夢にも思ってみなかった。」と話したら、友達がこんなことを言いました。
「久美ちゃんだから育てられるよって、神様が里子ちゃんを授けてくれたのよ!」友達のこの一言で私は救われました。「そうか。私だから育てられるんだって、神様がこの子を授けてくれたんだ。」頑張って育てようと言う気持ちに素直になれ、私が娘を育てていく上で、今でも力の源となっています。そして、この一言を私にプレゼントしてくれた友達には、今でも感謝しています。
その後は、娘のためにできる限りのことはやってあげようと思い、病院の言語訓練に毎週、通いました。二つ違いで妹が生まれました。里子は知的障害もありましたので、双子を育てているのと同じでした。里子と妹の二人を連れて言語訓練に行った時のことです。
人混みの病院内を、二人が右と左にそれぞれの方向に向かって歩いて行ってしまった時は、本当に困りましたが、今ではそんなことも懐かしい思い出です。
娘が小学校に上がる時期になり悩みました。入学させようと思った学校は福島県立聾学校ですが、自宅から約七十キロ程離れたところにあります。自宅から聾学校まで通わせることは無理なので、学校に隣接してある聴覚障害児の施設に入所させ、そこで生活させながら聾学校に通わせることにしました。
「この子の将来のため」と思い決心しましたが、入学の日、夫と二人で娘を送って行った時のことは、今でも忘れません。
耳が聞こえなくて言葉も話せない、まだ七歳の娘を見知らぬ町に置いてこなければならないのです。娘を置いて帰る時は、かわいそうで涙が無くなってしまうくらい、泣きながら帰ってきました。この思いは、こんな経験をした人でないとわからないと思います。ただ、娘を施設に入れる時に夫と一つだけ約束しました。「どんなことがあっても、娘を毎週家に連れてこよう。」と、娘が聾学校を卒業するまでの十二年間は、毎週送り迎えを続けました。
私の住んでいる会津は雪国です。春から秋までの送り迎えはまだ良いのですが、冬は大変でした。峠を一つ越えなければならないのですが、車が雪で滑って事故がよくありましたし、峠の途中で車が上がらなくなることが度々ありました。雪道の峠の運転は、女性の私には無理でしたので、夫や今は亡くなってしまった祖父が運転をしてくれました。
そんな中で、私は聴覚障害の他に知的な遅れもある娘を育てていくには、どんなふうにしていったら良いのか解らないことが沢山ありました。そして、娘をお願いしている施設ではどんなふうに娘を育てているのか、あまり良くわかりませんでしたので、病院で臨床心理士の先生のカウンセリングを受けることにしました。毎月ですが、娘を担当して下さった寮母さんと私の二人が、娘の育て方や子育ての悩みなど何でも話しながら、先生のアドバイスを受けてきました。一時間の予定が二時間になってしまうことも良くありましたが、当時の私にとっては、この月一回のカウンセリングが本当に励みになった気がします。
当時、福島県立聾学校は小学部から高等部まであったのですが、娘のように重複障害のある子は、高等部への入学は無理でした。しかし、知的な障害はあっても教育を受けさせたいと願い、高等部に重複学級を作っていただき学習させました。この県立聾学校で中等部から高等部までの六年間、娘を担任して下さった先生がすばらしい先生でした。
今は聾学校を退職されていますが、並木先生とおっしゃいまして、娘はもとより私も先生に育てていただいた気がいたします。先生のような方が本当の教育者なのだと、私は今でも思っています。そして高等部に入ると同時に、娘は寄宿舎に入ることになりましたが、そこで担当の寮母さんが又すばらしい方でした。娘は何故か人との出会いには恵まれていました。
そして、私と違って娘はとても人懐っこい性格でしたので、どこに行っても「里子ちゃん、里子ちゃん」とかわいがられていましたのが母親の私にとっては救いでした。
しかし、聾学校を卒業すると聴覚障害に加え、知的障害を持つ娘に適当な施設は、福島県にはありませんでした。振り返れば、わずか七歳から親元を離れ集団生活をしてきた娘にとって、自分の家でゆっくりと過ごさせる良い機会であると、自宅で過ごさせることにしました。
昭和六十一年には三女が生まれましたので、里子が家に戻ってきて、娘三人がそろいとてもにぎやかでした。ある日の夕方、みんなで食事をしている時でした。娘がすぐ下の妹とけんかを始めたのです。原因はどこにでもあるおかずの取り合いなのですが、私は始めて妹とけんかできた里子の姿を見てとても嬉しく思いました。おかずで汚れた床の掃除をしながら「娘を、自宅で過ごさせて良かった。姉妹げんかが出来たのだもの。」と思いました。
その後、自宅で二年ほど過ごさせましたが、娘の面倒を見てくれていた祖母には、かなりの負担になってきましたので、猪苗代町(野口英世の生家のある)に新しく出来た知的障害者の施設に入所させました。
現在も娘は入所していますが聾学校の頃と違い、一緒に入所している仲間に手話が通じない人ばかりなので、娘にはかなりストレスになっているようです。今も、金曜日には私か夫が仕事を終えてから娘を迎えに行き、日曜日の午後に送って行きます。
車で往復三時間はかかりますが、晴れた日の猪苗代湖はとてもきれいで、私は毎週娘の送り迎えをしながら、自分の心のリフレッシュをしています。
娘を二十三年間育ててきて感じたことは、障害のある子供を育ててみて初めて「人の心の痛み」がわかりました。そしてその分だけ、人に優しく出来ると思います。
それから、娘が聾学校の高等部の頃だったと思います。私は、娘を育てながら仕事を続けていたのですが、職場の人間関係でよくよくイヤになり、「もう仕事をやめよう」と思っていました。娘を寄宿舎にお願いして沈んだ気持ちで帰ろうとした時、私の後ろ姿を見て娘は何かを感じたのか、私の肩をポンと叩いて「お母さん、私は勉強を頑張ります。」と手話でするのです。私は娘に「お母さんも頑張って!」と言われた気がしました。娘は「人よりも偉くなろうとか、お金持ちになりたい」とも思わずに、ただ自分が出来ることを精一杯頑張ろうとしているのです。これ以上に、人間として素直な生き方は無いのではないでしょうか。私は「頑張ろう」と思いました。私は娘を育てているつもりで人間としての生き方を娘、里子に教えられた気がします。
そして、娘には手話が通じない施設で生活させて、申し訳ないと思います。そんな私に小さな夢があります。いつか自分の家に離れを造り、そこに里子のための部屋を造りたいのです。部屋は、明るくて太陽の光が燦燦とあたる暖かい部屋にします。そこで、娘と二人で編み物をしたりお茶を飲んだりして、今まで出来なかった、ゆったりした時間を過ごしたいと思います。どこにでもある親子の姿なのかもしれませんが、今の私にはそんな娘との生活が夢なのです。
私は、仕事を続けながら娘三人を育ててきました。そして妻として、嫁として姑に仕えながら無我夢中で生活してきました。
生きている中で、私は皆さんのように強くて立派な母親である時は少なく、心が狭くて、夫に弱音ばかりを吐いている弱い母親だったような気がします。
そんな風に、いつも躓き、迷いながら、娘を育ててきた私を、ふと立ち止まり自分自身を振り返る良い機会を与えて下さいました。「聴覚障害者教育福祉協会」の山東昭子会長さんはじめ関係者の皆さん、そして本日ご来席いただきました来賓の皆様には、厚く感謝の言葉を申し上げたいと思います。そして、つたない私の話に耳を傾けていただきました、会場の皆様にお礼を申し上げ終わりといたします。
ご静聴ありがとうございました。
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