日本財団 図書館


51
崎奥日録
井上竹逸
1839(天保10)年
紙本墨画
20.5×14.0cm 1冊
 
 渡辺崋山に絵を学んだ井上竹逸(1814〜1886)が、長崎奉行田口加賀守の家来として江戸から長崎へ向かったときの記録。今なら捨ててしまうような反古紙(ほごがみ)(書き損じや包み紙)を小さく綴じあわせ、懐中にたずさえて道中の出来事を日々綴った生(なま)の旅日記である。せわしないスケッチは公儀御用の寸暇をぬって筆を走らせたもの。神戸を通過したのは天保10年8月12日であった。
 
 小雨の中、楠公の社(やしろ)へ参る。小門あり、中の堂に碑あり。碑は石の亀の上に立つ。堂の左右に石灯籠多く、門外の小屋で碑銘を摺ったものを売る。絵図はと問えば無いという。小僧のすすめで線香を2本ともして願を立てた。前に田圃、右奥は山、左に湊川の堤。川は人家より1丈程高いが水もなく、砂の上を渡る。ここから兵庫の駅を見れば瓦屋根で道も広く、江戸の通町(とおりちょう)のようだ。ここで昼食。名物の豆腐がおいしい。このしろという魚も出る。これは何だと問えば「つなし」と答える。古語か。城下ではないが前後に惣門がある。(略)さらに進めば敦盛の塔に至る。蕎麦(そば)を売る。松の風音と波の音のみ烈しく、悲しきことなり。小石を五輪塔のごとく積むことおびただし。敦盛塔に並べてのことか、見るもいと憐れなり。この近辺の百姓家には簾(すだれ)をさげてあり。平家の残族の遺風と聞く。垂水をすぎて舞子浜に至れば言葉も尽くしかねる絶景。ただ松の古木のみが造り庭のように打ち統き、道も平坦。左は海上に淡路島を望み、実によい景色。やや行けば舞子焼とて陶器の売所あり、このあたりもよいところなり。
 
52
播州舞子浜図
司馬江漢
江戸時代 1804〜1818年頃(文化年間)
絹本墨画
94.5×30.5cm 1幅
 
 江戸時代を代表する西洋画士である司馬江漢(1747〜1818)は、ことのほか舞子浜の風光を愛した。1788(天明8)年の長崎旅行の途中で通過したときのことを『西遊日記』の中で「夫(それ)より舞子が浜は松原にして右はなだらかなる山なり、左は波打、向に淡路嶋見へ、遙向ふには伊予山を見る、海中嶋々見へて能(よき)景なり」と記している。舞子の名物といえば白い砂浜と松林、そして間近に望む淡路島なのだが、江漢はあえて松林を描かず、松葉を採る村の子供を画面の主役とすることで、そこが有名な舞子の松林の中であることを暗示している。
 
53
淡路島眺望図
江戸時代後期
紙本墨画淡彩
45.6×66.6cm 1幅
 
 舞子の絶景としての特色は白い砂浜と老松の並木と淡路島の眺望にあったことを、江戸時代の旅行者たちは語っている。街道沿いには小屋掛けの茶屋が並んでいた。しかし淡路島の眺望を除いて、これらはすべて近代の環境変化によって失われた。
 本図は無題であり、これだけでは舞子浜かどうか判然としないが、1803(享和3)年刊『播州名所巡覧図絵』に大阪の画人中井藍江(らんこう)(1766〜1830)が描いた「舞子の浜より淡路島を望む」場面の挿絵が本図とそっくり同じ図様であることから、明らかに舞子の茶屋風景であることが確認できる(No.47参照)。墨摺の挿絵を手本としたせいか彩色は控えめで、また画面中央の縦の紙継は、冊子では見開きの綴じ目にあたる。刊本と比べればずいぶんサイズを拡大した模写であるが作者のサインはない。望遠鏡で淡路島をのぞく人物がいる。
 
54
舞子浜図
横山東映筆 大薮文雄・青木蔵六賛
1877(明治10)年
紙本墨画
110.0×59.4cm 1幅
 
 賛文で大部分が埋めつくされ、絵は下方に押し込められて窮屈そうだ。絵のスペースがせまくなったので、海岸線をカーブさせることで(地球は丸い)眺望の拡がりを表現主張しようとした画家のアイディアは秀逸。海辺に立ち並ぶ茶屋のにぎわいは江戸時代以来の景色だが、明石海峡を蒸気船が通航し、西国街道を人力車が駆け抜けるのは文明開化の新風景である。左端の短歌は「名ぐはしき舞子の松よ人ならば袂(たもと)かへせといはましものを 古稀前一翁 横山東英畫も」に「陽旦坊」「横山東英」の印があり、この人が画家とわかる。
 その横山東英(1809〜1888)はこのとき69歳。明石市樽屋町で藩御用達をつとめた染物屋「丸山屋」の6代目当主であり、プロの画家ではないが謡曲や狂歌もたしなむ趣味人であった。彼の父東寿は、江戸時代の明石を代表する画家・岡田東虎の門人であり、東英もまたその画風を受け継いだ。右上の長歌は大藪文雄(あやお)(1829?〜1889)。岩屋神社(明石市材木町)の神官で、国学を大国隆正、漢学を梁田葦州、書を明石密蔵院の端堂律師から学んだ。右下に漢詩を記した青木蔵六(号は亀嶋)の伝記は残念ながら不明だが『明石市史資料』第7集上に大藪文雄と並んでその名が見えるので、明石の文人たちの合作であることがわかる。
 
55
六十余州名所図会 播磨舞子の浜
歌川広重
1853(嘉永6)年
木版色摺
35.1×22.9cm 1枚
 
 江戸時代の舞子浜のイメージとして代表的な絵ではあるが、淡路島が見えないことや、「雪より白く」といわれた長い砂浜が描かれず波打ち際(ぎわ)まで松が生えているところなど、どうも画家は実景よりも構図の充実を優先させたような気配がある。同じ広重作品でもNo.56の方が実景に近いようだ。このシリーズ全69枚は浮世絵風景版画の巨匠・広重(1797〜1858)最晩年の制作で、かなり自由なデザイン的デフォルメがおこなわれている。
 
56
本朝名所 播州舞子之浜
歌川広重
1830〜44年頃(天保年間)
木版色摺
25.0×37.0cm 1枚
 
 海峡の向こうに淡路島。白い砂浜と根上りの老松を配し、同じ画家がのちに描いたNo.55に比べれば自然な風景である。このシリーズは天保年間(1830〜1844)の制作と推定されており、広重(1797〜1858)にとって生涯の傑作「東海道五十三次」と同じ時期の作品。実景にもとづきながら詩情豊かな画面を作り出している。
 
57
皇国美人名処合 播州舞子の浜
二代長谷川貞信
1881(明治14)年
紙本木版色摺
34.4×22.3cm 1枚
 
 きりりとした顔立ちの姉様(あねさま)がたが、文明開化のファッションであるこうもり傘を小道具に遊歩する。しゃがみこんだ女の白いふくらはぎが深紅の着物からのぞいているのもなまめかしいが、芝居の書割(かきわり)の前でポーズしているような感じがしないでもない。ちょっと場所がずれるけれども、須磨の海女(あま)・松風村雨姉妹をイメージの下敷きにしているのだろう。大阪の浮世絵師・二代長谷川貞信(1848〜1940)の略伝はNo.81の解説を参照
 
58
兵庫舞子之浜図
森 琴石
1881(明治14)年
銅版墨摺
15.8×10.3cm 1枚
 
 本来は日本各地の名所をとりあげた23枚のセットで、1881(明治14)年刊『明治新用文大成』の挿絵であった。この本は佐野元恭著述、大阪宝文軒蔵版。口絵の「大阪停車場」の図と扉絵の唐子図、この諸国名所23葉、日本の主要都市市街図8葉が森琴石の銅版画工房・響泉堂の制作と考えられる。神戸関係としては諸国名所の中に舞子浜(本図)と布引滝(No.63)があり、また市街図8葉のうちに兵庫神戸の地図が含まれている。
 琴石(1843〜1921)は有馬温泉の旅館・中之坊の梶木家に生まれ、大阪の森家へ養子に入った。明治10年代には銅版画と南画というかけ離れたジャンルをこなし、のち南画に専念した。
 
59
布引滝図
山本梅逸
1845(弘化2)年
紙本墨画
155.5×33.0cm 1幅
 
 滝という細長い対象物を効果的に描くため、一般の掛け軸よりも縦の寸法を長くした長条幅という形式。画面右下に「甲冬辰十月遊摂西之布曳泉、帰後欲図之不果、今春偶閑因想昨遊、作此図于時弘化乙巳春三月 梅逸山本亮」のサインと「亮印」「某逸」印がある。弘化元年10月に布引滝に遊び、帰って作品にしようと思っていたが果たせず、翌年3月、ようやくその時のことを思い出しながらこの図を作ったのである。
 山本梅逸(1783〜1856)は名古屋出身で、京都と名古屋を往復しながら活躍した画人。このときは京都に住んでいた。数点の布引滝図を残しており、この風景は梅逸の心に深く刻まれたものであった。またドイツのハンブルク工芸美術館にもこのときの諸風景を描いた梅逸の画帖がある。
 
60
布引瀑布図
横山 清暉
江戸時代後期 19世紀
絹本著色
各110.1×41.4cm 双幅
 
 横山清暉(せいき)(1792〜1864)は四条派の呉春(ごしゅん)とその異母弟・松村景文から絵を学び、幕末の京都で名をはせた画家。しかし師匠らの画風とは一味ちがい、強い墨線に近代的な明晰さをあわせもっている。「寫雌雄瀧圖 清暉(花押)」という清暉自身の箱書があり、画家が布引の雌滝と雄滝を対比して描いたことがわかる。
 
61
諸国名所百景 摂州布引の滝
二代歌川広重
1859(安政6)年
木版色摺
36.1×24.7cm 1枚
 
 六段となって流れ落ちる滝に、えもいわれぬ霊妙な三色の霞がたなびき、理想化されたイメージとしての名所絵に先祖帰りしてしまったようである。二代広重(1826〜1869)は初代広重の門人で婿となり、初代没後(1858年)二代目を継いだが7年後に離婚。その後は喜斎立祥と名のって、横浜で開化錦絵などを手がけた。
 
62
従布引の滝摂海一覧の図
楊州周延
1880(明治13)年
木版色摺
35.6×72.1cm 3枚続
 
 やんごとなき女性とお付きの女官たちが滝見に興じている。目をあざむくような原色の赤と紫が氾濫(はんらん)し、周延(ちかのぶ)が得意とした文明開化のハイソサエティ美人浮世絵のひとつ。もと幕府御家人(ごけにん)であった橋本周延(号楊州、1838〜1912)には、大奥や宮廷の高貴な女性に対する何か屈折した思いがあったらしい。舞台として添えられた布引の滝や大阪湾眺望がおまけみたいなものであることは、わざわざ「布引の滝」(タイトル)「大坂」「泉州」「紀州」「淡路嶋」と地名表示を入れてあるところからも窺える。東京の小林鉄次郎(丸鉄)版。
 
63
神戸布引滝之図
森 琴石
1881(明治14)年
銅版墨摺
15.9×10.4cm 1枚
 
 No.58の「兵庫舞子之浜図」と同じく、本来は日本各地の名所をとりあげた23枚セットのうちの1図で、1881(明治14)年刊『明治新用文大成』の挿絵であったもの。本として出版されるのとは別に、一枚ものとしてバラ売りされたのかもしれない。
 琴石(1843〜1921)は有馬温泉の旅館・中之坊の梶木家に生まれ、大阪の森家へ養子に入った。明治10年代には銅版画と南画というかけ離れたジャンルをこなし、のち南画に専念した。
 
64
岡本真景図巻
山本竹雲
1884(明治17)年
紙本著色
17.1×275.8cm 1巻
 
 東灘区岡本には広大な梅林があったが、有名になったのは江戸時代中期と遅く、昭和に入ると水害や戦災でいったん消滅した(今は公園として再整備されている)。梅はどちらかといえば中国趣味の花であるから、名所となるのも遅れたのだろう。尼崎藩主も遊び、文人墨客の来訪が多かった。また明治期には観梅のため臨時停車駅ができたという。
 筆者・山本竹雲(1820〜1894)は備前出身。京都の煎茶(せんちゃ)界で活躍し、煎茶道具の鑑定目利きをするかたわら篆刻や書画にもすぐれていた。このミニ図巻は巻頭の題字に「憶興舊遊岡麓春 甲申南至後三日 竹雲道人題」と記し、「書石道人」「山生无恙」の印がある。「旧遊」とあり「南至」は冬至のことであるから、梅の開花を待ちながら、かつての思い出を絵にしたのである。煎茶も中国の文人趣味にいろどられた世界であるから、梅林で一服するにはふさわしい。巻末に同じ年紀と「為山路君咲粲」という献辞がある。
 
65
真景図冊(有馬阿弥陀坊園中灰形山眺望図)
白雲
江戸時代後期
紙本墨画
21.6×26.4cm 1帖
 
 有馬温泉のことは『日本書紀』にすでに記されており、日本最古の霊泉として人々に愛されてきた。ここに描かれた阿弥陀坊は往古は蘭若院といい、豊臣秀吉が千利休に命じて茶室と庭園を作らせた古跡で、泉水の底は銅貼りになっていたという。また灰形山の名前も、利休が茶会のとき、この山の形に似せて風炉灰を盛り上げたことによると伝える。
 白雲(1764〜1825)は奥州白河藩主・松平定信に重用された画僧。定信が全国古社寺の宝物記録収集をめざした『集古十種』の編纂にともない、1799(寛政11)年と翌年の二回、関西地方を旅している。
 
66
有馬市街之図
森 琴石
1883(明治16)年
銅版墨摺
55.3×40.7cm 1枚
 
 下に有馬市街の眺望図と、上に新築なった西洋式浴場の図。特に下図は琴石の作品中でもすぐれている。刷り具合のせいで湯煙がたなびいているようにも見える。画面右枠外に「大阪高麗橋栴檀木 響泉堂刻」、響泉堂は琴石の銅版画工房の名前である。また左枠外は館蔵品では切断されているが、他例を見ると「明治十六年三月十三日御届」「編輯出版人 兵庫縣下有馬郡有馬湯山町六十二番地 梶木源二郎」「定價金四錢」と刻してあったようだ。
 琴石(1843〜1921)は有馬温泉の旅館・中之坊の梶木家から大阪の森家へ養子に入っており、本図を出版した梶木源二郎は琴石の実の父親である。
 
67
西国名所之内
五雲亭貞秀
1865(慶応元)年
木版色摺
35.7×24.3cm 各1枚計3枚
 
 「大坂安治川橋」から「姫路書写山」までの名所25景が描かれている。作者の貞秀は幕末から明治期に活躍した浮世絵師で、開港から間もない頃の横浜の町や外国人などを描いた作品も数多く残している。
 ここに示したのは、摩耶山から布引の滝・生田神社・湊川・兵庫・和田岬を臨む景を描いた「みなと川」、西国街道から兵庫の西の入口である柳原惣門(柳原蛭子神社付近)から東側に広がる兵庫の町や港を描いた「兵庫磯乃町」、須磨一の谷から明石に向かって松林が連なる浜沿いの街道を描いた「須磨明石」の3景。「須磨明石」の右下部に見える五輪塔は敦盛塚であろう。これら3景にはいずれも武士の行列が描かれている。この浮世絵集が作成された慶応元年(1865)は第2次幕長戦争が起こった年であり、当時の世情がこれら浮世絵の画面にも反映されている。
 
68
東海道名所之内 兵庫築島寺
河鍋暁斎(周麿)
1863(文久3)年
木版色摺
33.4×22.3cm 1枚
 
 「江戸日本橋」から品川・箱根・大津・京都など東海道沿いの名所115景を描いた浮世絵集。五雲亭貞秀ら15人の画工によって描かれている。本画の作者は幕末から明治期に活躍した河鍋暁斎で、築島橋の南端から兵庫の町を北に臨んだ風景を描いている。画面中央の白壁で囲われた建物群が築島寺(来迎寺)で、左側の海は誇張して描かれた築島船入江である。
 作成された文久3年(1863)は京都で8月18日の政変が起こり、また兵庫では砲台の築造が開始された年である。画面左下部に見える武士の列は、幕臣や西国諸藩士が多数往来する騒然とした兵庫の世情を表わしているのであろう。
 
69
名勝写生画尽
松川半山
江戸時代末期〜明治時代
紙本木版色摺 3帖のうち
18.3×25.3cm
 
 松川半山(1818〜82)は大坂生まれ、幕末明治期に木版画の名所絵を制作した。『名勝写生画尽』には、京都・奈良・大阪・兵庫などの景勝地が描かれている。生田は江戸時代、桜並木が神社前から海岸まで続き、岡本の梅と並び、桜の名所として知られていた。半山は、緋毛氈をかつぎ、弁当を携えて花見に訪れる人々を描いている。これらの桜は明治の居留地建設に伴い次第に消えていったという。和田岬は、須磨と並び称される歌枕の地、白砂青松で知られた。南北朝の動乱期、新田義貞方の本間孫四郎が、和田岬で足利尊氏方の舟に向かって遠矢を放ったエピソードが『太平記』に伝えられている。半山は和船を描いているが、船名は「大吉丸」、ユーモアが感じられる。
 
70
五十年前湊川図(『西摂大観』掲載原画)
梶田半古
1911(明治44)年頃
絹本墨絵
35.0×70.6cm 額1面
 
 『西摂大観」は、神戸・明石の歴史文化や名所を集大成した、ずっしり重たい豪華本である。神戸の明輝社から創業20周年記念として1911(明治44)年に出版された。執筆にあたったのは仲素堂(彦三郎)。明輝社は旧明石藩の士族という戎町生れの辻雄(いわお)(1867〜1919)が饅頭屋から転向して始めた印刷会社で、『兵庫県の印刷史」によると1889(明治22)年に元町鯉川筋下で創業。和英両文の貿易案内や税関の書類を印刷していた。兵庫県庁の中に印刷所をつくるときにも関係があったという。雄の没後は養子の辻三郎が継いだが、太平洋戦争の空襲で三宮の印刷所を失い、廃業に追いこまれた。No.70〜72は『西摂大観』刊行にあたり、挿絵とするため諸名家に揮毫を依頼した作品群の一部で、3点とも同書に掲載されている。
 本図は幕末の湊川を回想した風景。左に湊川。中央のささやかな森が楠公の廟、のち湊川神社となる場所だが、周囲はまだ茫洋とした田圃に取り囲まれている。梶田半古(1870〜1917)は本名錠次郎。東京下谷の金工家の家に生まれ、故事人物画を得意とした。日本絵画協会で活躍し、門下に小林古径、前田青邨がいる。
 
71
舞子浜図(『西摂大観』掲載原画)
原 在泉
1911(明治44)年頃
絹本著色
115.2×36.3cm 1幅
 
 『西摂大観』刊行にあたり、No.70・72と同じく挿絵とするため諸名家に揮毫を依頼した作品のひとつ。画面左下に「在泉筆」のサインと印「松涛」がある。原在泉(1849〜1916)は京都で代々宮中の絵師をつとめた原派の4代目。父である原在照から絵を学び、松涛と号した。月明かりの下でのたうちまわるような老松とおだやかな海波を対照し、在泉の画号「松涛」と語呂を合わせたような景色が展開する。
 
72
布曳雄瀑図(『西摂大観』掲載原画)
森 琴石
1908(明治41)年
絹本墨画
112×35.7cm 1幅
 
 『西摂大観』刊行にあたり、No.70・71と同じく挿絵とするため諸名家に揮毫を依頼した作品のひとつ。箱書に「布曳雄瀑図」とあるけれども琴石の自題ではなく、琴石が布引滝と意識して描いたかどうかははっきりしない。『西摂大観』の編者・仲素堂あてに作品の送付を報じた琴石書簡が付属する(ただし封筒は欠失)。
 
73
摂海神港紀行真写
幸野楳嶺
1878(明治11)年
紙本著色
10.1×27.5cm 1帖
 
 1878(明治11)年の10月8日、京都東本願寺の厳如法主が神戸諏訪山の料亭・常盤花壇に遊んだときの記念に作られた画帖。描いたのは法主に同行した京都の画家で、円山四条派の幸野楳嶺(こうのばいれい)(1844〜1895)である。神戸港の眺望や宴席の様子など全16図。中でも月光に浮かぶ港の夜景が美しい。
 常盤花壇は大阪生まれの前田又吉(1830〜1893)が明治初年に花隈で創業。1873(明治6)年、諏訪山で鉱泉を開発して移転し、温泉料亭として繁盛した。又吉はのち京都で常盤ホテルも開業している(京都ホテルの前身)。
 
74
神戸覧古
若林秀岳
1896(明治29)年
紙本淡彩
24.0×32.4cm 1帖
 
75
神戸覧古
若林秀岳
20世紀初頭
紙本淡彩
23.9×36.1cm、24.0×35.8cm 2帖
 
76
神戸覧古
20世紀初頭
紙本淡彩
23.8×31.5cm、23.7×31.8cm、23.9×31.8cm 3帖
 
 現在の神戸元町の商家に生まれた若林秀岳(しゅうがく)(1839〜1915)が明治期に描いた江戸時代末期における神戸の名所風景画は、いくつかが画帖の体裁で現存している。当館(No.74、No.75、No.76)や神戸市立図書館(2帖本・旧桃木書院本)が所蔵する画帖はその例である。しかし、各画帖に描かれた名所を比較すると少なからずの異同がみられる。
 No.74は、最も古い明治29年の年記を有するもので、末尾に収められた「須磨浦魚家」「一ノ谷五輪塔」を除けば、描かれた風景画は、兵庫とその周辺に限られている。No.75の題箋には、「神戸覧古 東部之巻」「神戸覧古中央部之一」とあるので、さらに複数の帖で構成されていたものと思われる。各画には、和歌や文字注記が多く添えられており、これが完成品に近いのであろう。No.76は、上・中に兵庫と周辺、下にはさらに周辺部の風景画を収めるが、和歌や注釈は記載されず、簡略化されている。
 このように、描かれた神戸の名所風景は、図示する範囲は必ずしも大きいとはいえないものの、江戸時代末期の神戸地方を知る手がかりとして貴重なものである。
 
77
神戸覧古
伯峯
1924(大正13)年
紙本淡彩
各24.0×36.0cm 3帖
 
 神戸地方の100の風景画を「東部」「中部」「西部」に分けて構成される画帖。東部には、「芦屋里」から「生田川」まで、中部には神戸地域を図示するパノラマ図「神戸市予定区域須磨芦屋至旧図」から「松ヶ鼻官道」、西部には「福厳寺古松」「鉄拐山」までがそれぞれ収められている。
 この画帖にも「神戸覧古」との題筆を付すが、それは作者伯峯なる人物が、開港以前の先人の遺墨と若林秀岳の『神戸覧古』から抽写して三冊に収めたことによっている。なお、この風景画を残した経緯は、「古戦場と旧蹟(きゅうせき)に富み巨刹亦尠(またすく)なからず・・・明媚(めいび)の地」であること、明治18年(1885)に伯峯がこの地を訪れて以降、大都市へと変貌を遂げていく神戸の姿に戸惑いを覚えたためであるという。
 
78
美作―大阪道中紀行
1868(慶応3〜明治元)年頃
紙本著色
24.6×16.8cm 1冊
 
 今の岡山県美作町を出発して、姫路から山陽道に入り、加古川、明石、神戸を通って大阪に至る道中風景を記録した冊子。作者はわからないが、プロの画家ではない素朴な筆致が特色。舞子浜や一の谷に続いて「江べ」すなわち神戸が登場し、造成中の神戸外国人居留地が3丁にわたってパノラマ式に描かれる。開港ごく初期の居留地の姿を伝える資料として貴重。序文に「慶応の季」と年代が記してあるので、1868年ごろの作か。居留地の場面に枠囲みで気球の絵を挿入し、「実ニ風舟去年八月此所ニ持来ニテ大ニ通行セリ、のり人八、九人斗」とあるから、これが年代決定の手がかりとなりそうだ。図版は(1)東播舞子之長沙、(2)垂水の里、(3)塩屋の浦、(4)一の谷、(5)須磨之風流人家廉、(6)(兵庫遠望)、(7)〜(10)江(こう)べ、(11)まや山天上寺ヨリ見下シたる風景、(12)御影造酒。
 
79
開口新詞
水越耕南
1876(明治9)年
紙木木版墨画
18.7×12.5cm 1冊
 
 文明開化の神戸風物を題材にした漢詩集。書名の「開口」は「開港」と語呂合わせになっており、「神戸港」「外人居留地」「人力車」などをテーマとした七言絶句17編を収録する。各詩に京都の菊池純(三溪)と、姫路の田島藍水と、富岡鉄斎の漢文の師という片山精堂の3名が批評を加えている。神戸の書肆(しょし)・鳩居堂の発行。冒頭に1丁分(今風にいえば2ページ分)の神戸港鳥瞰図の挿絵があるが、何の手違いからか見開きになっていないのが悲しい。挿絵の作者は「公潭」という人のようだが正体は知らない。
 著者・水越耕南(1849〜?)は名を成章、字を裁之といい、姫路藩の武術家であった水越丈翁の子。藩校で菅野白華らに学び、維新後、東京へ出てさらに漢学を学んだ。のち神戸師範伝習所の教師となり、1876(明治9)年からは神戸裁判所で司法官をつとめる。1889(明治22)年には公証人に転じ、仕事のかたわら漢詩文や骨董鑑定を楽しんだ(『兵庫県人物列伝』1914年)。神戸や大阪へやって来る中国人芸術家たちとも幅広い交遊があった。南画家・水越松南はその三男である。
 
80
摂津神戸海岸繁栄図
長谷川小信(二代貞信)
1871〜74(明治4〜7)年頃
木版色摺
14.9×34.8cm 1枚
 
81
摂州神戸西洋館賑之図
長谷川小信(二代貞信)
1871〜74(明治4〜7)年頃
木版色摺
14.6×34.7cm 1枚
 
 長谷川小信(このぶ)(1848〜1940)は大坂の浮世絵師、初代貞信の長男。1875(明治8)年に二代貞信を襲名した。小信時代に、開港(1868.1)後の神戸港の賑わいを開化錦絵に描いた。先に開港した横浜(1859.7)の新しい風俗をとらえた横浜浮世絵に比べて、開港後の神戸の様子を伝える絵画資料は少ないため、小信の開化錦絵は明治初期の神戸風景として貴重である。本作には、居留地の海岸通に日本人、中国人、西洋人が集まる様子が描かれている。新しく出現した西洋館の見物人だろうか、賑わいが伝わってくる
 
82
摂州神戸西洋人馬駆之図
長谷川小信(二代貞信)
1872〜74(明治5〜7)年
木版色摺
14.9×35.6cm 1枚
 
83
摂州神戸海岸繁栄之図
長谷川小信(二代貞信)
1871(明治4)年
木版色摺
35.5×24.1cm、35.7×24.1cm、35.7×23.9cm 3枚続
 
 居留地の海岸通を、西から東へパノラミックに描いた小信の代表作。西洋館が建ち並ぶ背景に、摩耶山・六甲山・有馬・御影山・岡本・甲山が名称とともに、また港には外国船や和船の浮かぶ様子が描かれている。横浜浮世絵を参考にしているとはいえ、海、山、エキゾティックな街並みという神戸を描くコンセプトが既に全部投入されている点が特筆される。小信は西洋人の乗馬姿、馬車、人力車、自転車、台車など乗り物や車輪が付いたものに関心を抱いていたようだ。開化を象徴するモティーフとして強調されている。
 
84
神戸名所之内 蒸気車相生橋之景
長谷川小信(二代貞信)
1874(明治7)年頃
木版色摺
14.4×34.7cm 1枚
 
 明治7年5月、神戸―大阪間に鉄道が開通、大阪と神戸は1時間10分で結ばれた。神戸駅の東側には、線路をまたいで相生橋が架けられ、見物人で賑わったという。小信は、楽しそうに橋の上にすずなりになって汽車を眺める人々を描いている。相生橋は60年にわたり神戸名物となり、昭和6年の高架線開通後、姿を消した。
 
85
鉄道往来 蒸気車往帰(ゆきかえり)之図
長谷川小信(二代貞信)
1874(明治7)年頃
木版色摺
15.0×35.2cm 1枚
 
86
神戸名所之内 楠公碑 湊川神社之図
長谷川小信(二代貞信)
1872〜74(明治5〜7)年頃
木版色摺
14.8×35.0cm 1枚
 
 楠木正成・正行らを合祀する湊川神社は、維新政府により明治5年に造営された。新しい名所として、小信はこうもり傘をさして馬車に乗る人々とともに描いている。
 
87
神戸新福原廓之真写 并ニ布引滝遠望之図
長谷川小信(二代貞信)
1871(明治4)年頃
木版色摺
36.0×23.6cm、35.9×23.7cm、35.9×25.0cm 3枚続
 
88
神戸港
二代長谷川貞信
1939(昭和14)年
絹本著色
35.9×51.6cm 1幅
 
 二代長谷川貞信は長寿に恵まれ、開化錦絵を描いた小信時代から60年以上を経た、最晩年の昭和14年に本作を描いた。海側より旧居留地の海岸通を眺めた神戸港の風景。現存する商船三井ビル、その右隣にオリエンタルホテル(戦災で焼失)など特徴的な建築物が描かれている。
 
89
神戸居留地北端風景
C.B.バーナード
1877(明治10)年
水彩・紙
26.5×37.3cm 額1面
 
 チャールズ・バートン・バーナード(1853〜1947)は、イギリスのサマーセット州ラングポートに生まれ、ロンドンで育った。明治8年に、フィンドレー・リチャードソン商会の茶部門担当として横浜に来航した貿易商であり、チャールズ・ワーグマンに師事した水彩画家・友人・パトロンだった。明治16年に同僚のC.G.ウッドと独立してバーナード・アンド・ウッド商会を設立、静岡で茶園を経営して成功を収め、日本で天寿を全うした。神戸には明治10〜11年頃滞在している。
 本作には、居留地北側の境界(西国街道)を東から西へ眺めた風景が描かれている。樹木が茂っているところは三宮神社、その南側(居留地)に洋館が建ち並ぶ。この新旧の対比を描きたかったのだろう。現在知られているバーナードの神戸風景の多くが、居留地の境目に焦点をあてている。本作はドイツ人所蔵者より2000年に寄贈された3点のバーナード里帰り作品のひとつ(池長 孟コレクションにもバーナードによる神戸風景が2点ある)。
 
90
三宮神社付近風景
C.B.バーナード
1878(明治11)年
水彩、コンテ・紙
26.8×39.5cm 額1面
 
91
神戸海岸通風景
C.B.バーナード
1878(明治11)年
水彩・紙
26.5×39.4cm 額1面
 
 バーナードが明治11年に描いた、居留地の海岸通を西から東へ眺めた風景。散歩する人々や人力車が見える。通りと港の間に描かれた緑地は、居留地を設計したジョン・ウィリアム・ハート構想の遊歩道。当館所蔵の明治中期の『神戸写真帳』等には、本作と非常によく似た、海岸通を西から東へ撮影した写真が残っている。ただし本作の方がやや高い場所から描かれており、当時、海岸通の西突き当りに兵庫ホテルがあったことから、同ホテルの上階から描いたのではないかと考えられる。本作もドイツからの里帰り作品。
 
92
居留地西側の境界(鯉川筋)
C.B.バーナード
1878(明治11)年
水彩・紙
22.9×35.7cm 額1面
 
93
大日本五港之内 神戸港
薮崎芳次郎
1891(明治24)年
石版筆彩・紙
27.0×37.4cm 1枚
 
 安政5年(1858)の日米修好通商条約締結に基づき、開港した神奈川(横浜)・長崎・函館・兵庫(神戸)・新潟の五港を描いた石版画のうちの神戸港。海より居留地の海岸通を眺望する。背後の六甲山と海岸沿いの遊歩道に植えられた並木の描写、クローズアップされた海岸通が、街の風光明媚な印象を強調している。神戸の居留地は東洋一美しいと評されたという。
 
94
湊川新橋図
前田吉彦
明治時代中期 19世紀末
油彩・絹
36.2×103.5cm 額1面
 
 前田吉彦(1849〜1904)は、岡山県高梁(たかはし)市出身。独学で洋画を学び、神戸に移住後、明治11年より神戸師範学校で図画教師を勤めた。神戸洋画壇の草分けとして知られる画家で、『画法階梯』などの図画教科書を著した。
 本作に描かれた湊川風景は、付け替え工事(明治30〜34年)以前のもので、明治10年に造られた石橋や河岸の松林、河川敷を走る自転車が、パノラマ風に活写されている。洪水対策として湊川が付け替えられた後、旧河川敷は埋めたてられて新開地となるため、この風景も激変する。
 
95
《神戸名所》
能福寺 大仏之像 清盛墓/和田岬和楽園/布引雌滝 布引雄滝/摩耶山之景/神戸福原花街/生田神社 源太江びらの梅/諏訪山之全景 議事堂/湊川神社之図 正成之墓/居留地外国クラブ/神戸ステンショー及ヒ相生橋之景/舞子浜及ヒ敦盛墓/神戸市中及ヒ海岸/扉・神戸名勝
林 基春
長野利助 画作・発行
1898(明治31)年
石版・紙
各約14.4×21.7cm 計13枚
 
 林 基春(1858〜1903)は大坂出身の画家。鈴木蕾斎、三代柳亭種彦に師事し、《京都大阪神戸大和名所帖》《大阪名所綴》(ともに合作)などの石版画の名所絵を手がけた。《神戸名所》は、明治31年に大阪で出版されたカラフルな名所絵で林基春が12点を全部描いた。当時の神戸の代表的観光スポットを通覧できる。新しい建築物と景観美を組み合わせた場所選定は、当時撮影された写真と重なる。画中に窓を描いて別の風景を挿入する構成も、土産物として好まれたアルバムを意識したのだろう。
 兵庫・能福寺大仏(青銅製・高さ約11m)は、明治24年5月9日に大仏開眼法要。和田岬の和楽園遊園の水族館は、明治30年に開設された。諏訪山の兵庫県議会議事堂(通称「八角堂」)は、明治15年に完成。東遊園地の赤レンガ建築、居留地の外国クラブ(A.N.ハンセル設計)は、明治23年の完成。明治7年より営業の神戸駅、相生橋が黒山の人だかりとなっている場面も描かれている。
 
96-1
《阪神名勝図会》 十 住吉
赤松麟作
1917(大正6)年
木版・紙
29.2×18.5cm 1枚
 
96-2
《阪神名勝図会》 十四 神戸波止場
赤松麟作
1917(大正6)年
木版・紙
29.2×18.4cm 1枚
 
96-3
《阪神名勝図会》 十八 六甲山
赤松曲作
1917(大正6)年
木版・紙
29.3×18.6cm 1枚
 
96-4
《阪神名勝図会》 十五 神戸市場 南京町
幡 恒春
1917(大正6)年
木版・紙
29.2×18.4cm 1枚
 
96-5
《阪神名勝図会》十一 御影
永井瓢齋
1917(大正6)年
木版・紙
29.3×18.6cm 1枚
 
96-6
《阪神名勝図会》 二十一 有馬
永井瓢齋
1917(大正6)年
木版・紙
29.1×18.5cm 1枚
 
96-7
《阪神名勝図会》十七 摩耶山
水島爾保布
1917(大正6)年
木版・紙
29.3×18.6cm 1枚
 
96-8
《阪神名勝図会》 十三 三の宮
野田九浦
1917(大正6)年
木版・紙
29.0×18.4cm 1枚
 
96-9
《阪神名勝図会》 第三輯表紙
赤松麟作
1917(大正6)年8月1日発行
金尾文淵堂
40.1×27.3cm 1枚
 
96-10
《阪神名勝図会》 地図
木版・紙
38.5×26.3cm 1枚
 
 《阪神名勝図会》は、東京・金尾文淵堂から刊行された30点の木版画(大倉半兵衛彫刻・金尾種次郎発行)。赤松麟作(1878〜1953)、野田九浦(1879〜1971)、水島爾保布(1884〜1958)、幡 恒春(1883〜?)、永井瓢齋(1881〜1945)の5人の洋画家と日本画家が原画を描き、大正6年5月から8月にかけて、5点ずつを収めた全6輯が順次出版された。大正5年10月付けの目録(刊行予告か)と地図から、ほぼエリアごとの編集だったことがわかる。第1輯(大阪〜西宮)、第2輯(西宮〜住吉)、第3輯(御影〜元町)、第4輯(六甲山周辺)、第5輯(有馬〜宝塚)、第6輯(伊丹〜能勢)となり、大阪方面へぐるりと戻る。半数近くが現在の神戸市域にあたる。稲刈りをする人々が描かれた住吉、酒蔵が建ち並ぶ御影に対して、教会が見える三宮や洋装人物がたたずむメリケン波止場風景は、異国情緒を感じさせ、神戸のハイカラなイメージを伝えている。
 
97
山手(神戸)
金山平三
1935(昭和10)年頃
油彩・キャンバス
33.9×53.0cm 額1面
兵庫県立美術館蔵
 
98
ガード下
金山平三
1945〜56(昭和20〜31)年頃
油彩・キャンバス
33.3×45.5cm 額1面
兵庫県立美術館蔵
 
99
金山平三
1956〜64(昭和31〜39)年頃
油彩・キャンバス
64.8×90.4cm 額1面
神戸市蔵
 
 金山平三(1883〜1964)は神戸市元町通に生まれた。東京美術学校で黒田清輝に師事し、明治42年に同校を首席で卒業、ヨーロッパ留学を経て風景画に独自の境地を開き、若くして高い評価を得た。本作は昭和30年代のメリケン波止場風景。画面中央に商工会議所(現存せず)、その左に旧・水上警察署が描かれている。海や空の、微妙な青や紫に光る様子が、繊細な色彩で表現されている。
 
100
兵庫県大鳥瞰図
福田眉仙
1928(昭和3)年
紙本著色
121.9×164.7cm 額1面
 
 福田眉仙(びせん)(1875〜1963)は赤穂郡瓜生村(現・相生市)出身。橋本雅邦に師事し、日本美術院の創立に参加した。本作は兵庫県の全域を鉛筆と水彩で描いた鳥瞰図で、地名や朱線による鉄道路線が細密に記されている。画面左上には「昭和戊辰記念真眺図」。『福田眉仙展』図録年譜(1992年・芦屋市立美術博物館)によると、眉仙は昭和3年に県より「御大典記念献上衝立」の制作を命ぜられ、県内各地を取材旅行し、同年10月に完成させたという。献上衝立の裏面が「兵庫県俯瞰図」だったことから、本作はその原画と推測される。


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