日本財団 図書館


出品目録
1
奈良絵本 伊勢物語
室町〜桃山時代 16世紀
紙本著色
各25.4×25.3cm 4冊
 
 『伊勢物語』(平安時代中期の成立)は、歌人、在原業平(ありわらのなりひら)(825-80)と推定されている主人公の一代記で、『源氏物語』と同様に後世の文学や芸術に多大な影響を与え、また絵画化されてきた。本書は初期の奈良絵本(絵入り古写本)を代表する一つで、挿絵が208図もある。後世の類型化された表現とは異なる微笑ましい描写が特徴である。
 領地のある芦屋の里に下だった業平が兄の行平(ゆきひら)らと布引の滝を見物に訪れた場面。他の滝とは異なり、長さ20丈、広さ5丈程の石が白絹に包まれているようだと感想が記され、行平と業平が滝にちなむ和歌を詠んだ。布引の滝は古来から和歌に詠まれる歌枕の地で、都の人が思いを馳せる名所であった。
 
2
須磨寺参詣曼荼羅図
桃山時代 17世紀前半
紙本著色
159×166cm 1幅
須磨寺蔵
 
 参詣曼荼羅(まんだら)は民衆に参詣を勧めることを目的に、寺社の縁起、説話、参詣の様子などを寺社内外の空間に配置したもの。本来、礼拝の対象であるが、本図は宗教的賑わいとともに周辺の名所を描き込んだ須磨名所図であり、須磨寺が名所としての須磨のシンボルとして強調されている。画面の下側左端の五輪塔は敦盛(あつもり)塚、その右手の千守(ちもり)川に面して、和歌に詠まれた須磨の関、中央の地を這うような形の松は重衡(しげひら)の腰掛松(あるいは、松を見上げる人物が太宰府に左遷された菅原道真(すがわらみちざね)とすれば、影向(ようこう)の松)、右端には須磨に流された在原行平と松風・村雨の姉妹、画面中央の桜は若木桜であり、愛でているのは光源氏(ひかるげんじ)となる。
 須磨寺は、室町時代、一の谷合戦で亡くなった平敦盛ゆかりの笛が名物となり、敦盛の菩提寺として知られていたことが明らかだが、1526年には本尊の御開帳のほか、名所の名物となっていた笛を公開している。江戸時代になると、たびたび開帳が行われ、ことに1733年の敦盛550回忌の開帳は大坂まで宣伝し、青葉の笛など敦盛ゆかりの宝物が人気を集め、門前には茶屋や芝居小屋が並び、前代未聞の賑わいとなった。
 
3
源氏物語画帖
伝住吉如慶
江戸時代 17世紀
紙本淡彩
詞各16.9×15.8cm、絵各16.8×15.6cm 1帖
白鶴美術館蔵
 
 紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』(11世紀初の成立)は早くから絵画化され、巻第12「須磨」と巻第13「明石」も物語絵の一つとして描かれた。本書は、各巻の名場面とその詞書を画帖の見開きに貼り、白描ながら口唇などに淡く彩色する。繊細優美な描法と豊かな技量が伺える。住吉派の祖、如慶(1598〜1670)周辺の人物の作と考えられている。
 「須磨」は、都で多くの女性と契りを結んだ主人公光源氏(26歳)が隠遁している場面。朱雀院(すざくいん)の寵愛を受けていた右大臣の娘・朧月夜(おぼろづきよ)との密会が発覚し、弘徽殿(こきでん)(朱雀院の母)が激怒する。源氏は流罪になる前に領地のあった須磨にともをつれて自ら失意のまま落ちる。須磨では、在原行平がわび住まいした山中に寓居を構え、浦波の音に寂しさを募らせ、満月に都を思い、寓居から眺める海辺の情景に心を清めていた。若木の桜が咲く頃に頭中将(とうのちゅうじょう)が敢えて見舞いに訪れることもあった。
 「明石」は、神託により須磨から明石に移る場面。ようやく暴風雨が静まった夜の夢に、故父帝、桐壼院(きりつぼいん)があらわれ、住吉の神の導きにより須磨を去るよう告げる。翌朝、明石の入道が船で迎えに来、明石に移ることになる。入道は前から、一人娘が光源氏と結ばれるよう住吉の明神に願をかけていた。源氏は明石に落ち着き、やがて入道の勧めで娘と契りを結ぶ。都では、右大臣が死去し、弘徽殿も重病となる。朱雀帝は源氏に罪を負わせた報いと考え、召還させる。源氏は、懐妊していた明石御方と再会を誓って帰京し、やがて政界の中枢に返り咲く。
 
4
日本名所図巻
狩野洞雲益信
江戸時代 17世紀後半
絹本著色
天地29.6cm 1巻
 
 余白の多い、江戸狩野の典型的スタイルで、もうろうとした空気の中に冒頭から「竹生嶋」「金澤」(今の横浜市金沢区)「松嶋」「和哥浦」「巌嶋」「明石」「切渡(きれと)」(切戸つまり天橋立)「須磨」が浮かび上がる。和歌や文学をもとに想像した観念的な名所風景。決して写生ではないし、天橋立を須磨と明石にはさまれた場所に置くなど、地理的な配列も考えられていない。どれも水際(みずぎわ)のスポットであるのは、海をもたない京都の文化人たちが憧れ、空想した名所なのだろう。巻末に「洞雲守静斎筆」のサインと「洞」印がある。
 狩野益信(ますのぶ)(1625〜1694)は実は金工家の後藤益乗の息子。江戸狩野のボス・狩野探幽に跡継ぎがなかったため養子に入ったが、のち探幽に男子が生まれたので分家し、別に駿河台狩野家を立てた。1665(寛文5)年に黄檗宗の隠元禅師から「洞雲(とううん)」という号をもらっているから、本図はそれ以後の作品となる。
 
5
天橋立・須磨・明石図
狩野晴川院養信
1814〜15(文化11〜12)年
絹本著色
各107.8×40.6cm 3幅対
 
 狩野益信の日本名所図巻(No.4)の巻末部分と同様に、須磨と明石の間に天橋立を組み合わせて三幅対としたもの。『万葉集』に「須磨の海人の塩焼き衣」と詠まれたとおり、歌枕として須磨に塩焼きはつきものだが、それ以外にここでは須磨と明石を区別する特徴的な景物は描かれない。これもやはり古典文学の伝統に棹さした観念的な名所風景である。発色のよい群青(ぐんじょう)の海が美しく、海辺の魅力をよく伝えてくれる。
 狩野晴川院養信(せいせんいんおさのぶ)(1796〜1846)は江戸幕府につかえた木挽町(こびきちょう)狩野家の奥絵師。幕末の江戸城障壁画制作では棟梁(とうりょう)をつとめた。古画を研究することに熱心で、本図でも古典的な大和絵画風が用いられている。箱書に「文化十二季亥九月十八日御内祝之節 従田安御邸拝領之 其後表荘仕立之」と記されており、1815(文化12)年に御三卿のひとつ田安家から伝来したもの。また各図に「晴川養信筆」の署名があるが、養信が玉川から晴川と改号したのは1814(文化11)年のことであるから、制作時期もこの両年中に限定される。養信19〜20歳の作品。
 
6
四季景色之内 秋 艶源氏須磨宵月
二代歌川国貞
1861(文久元)年
木版色摺
35.6×74.3cm 3枚続
 
7
源氏須磨之浦
三代歌川豊国(国貞)・二代歌川広重
1864(元治元)年
木版色摺
36.9×74.4cm 3枚続
 
8
明石ノ浦景
三代歌川豊国(国貞)
1847〜52(弘化4〜嘉永5)年
木版色摺
37.4×75.6cm 3枚続
 
9
風流げんじ 明石
三代歌川豊国(国貞)・歌川広重
1853(嘉永6)年
木版色摺
35.6×73.3cm 3枚続
 
 『源氏物語』は江戸時代の浮世絵にも素材を提供し、当世風に見立てた美人画がつくられた。柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の戯作で、歌川国貞(うたがわくにさだ)が挿絵を描いた『修紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』(1829〜42年)がブームになると、『田舎源氏』やその挿絵に取材した数多くの源氏絵がつくられる。
 『田舎源氏』は主人公を足利光氏(みつうじ)とし、室町時代のお家騒動に背景を移している。推理小説のような構成をとり入れ、主人公の好色振りと意外性に富んだ英智が人気の要因だった。
 『田舎源氏』では、好色を装って将軍職必須の重宝を探索する光氏が、浮名(うきな)を流して怒りを買い、自ら須磨に赴く。須磨隠棲の真の目的は西国大名、山名宗全を制圧することで、そのため明石在住の宗全の弟を部下とし、その娘の朝霧と深い仲になる。この深謀が功を奏し、山名宗全の叛乱を鎮め、重宝を揃えることが出来、将軍の後見役に昇るという筋書きである。
 
10
明石ノ浦の図
歌川国貞
1827〜42(文政10〜天保13)年
木版色摺
25.7×37.6cm 1枚
 
 明石といえば、源氏物語とともに思い出すのが歌聖・柿本人麻呂とのつながりである。中でも有名なのは人麻呂作と伝えられる「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれゆく舟をしぞ思ふ」の一首で、本図もこの歌を寓意したものか。前方には朝日に照らされた人麻呂と松を多色摺で、背景はまだ明けやらぬせいか藍一色摺にして対照させる。江戸の浮世絵師・歌川国貞(1786〜1864)が香蝶楼(こうちょうろう)と号した1827(文政10)年以降の作品。
 
11
松風村雨図
歌川豊春
江戸時代中期
絹本著色
94.4×37.3cm 1幅
 
 須磨の海女(あま)である松風と村雨姉妹を江戸前の美人に仕立て上げた妖艶な肉筆浮世絵。画題のべースとなった謡曲の世界をがらりと逆転させ、身近な当世風俗にすることで人目を驚かす意外性を狙っている。歌川豊春(1735〜1814)は通称を但馬屋庄次郎、のち新右衛門といい、名は昌樹(本図にも「昌樹」の印がある)。生まれは但馬豊岡とも豊後臼杵ともいわれる。西洋画の線遠近法をとりいれた「浮絵(うきえ)」と呼ばれる風景画を得意とした。歌川派の元祖である。江戸琳派の酒井抱一も若いとき豊春から絵を学び、本図をそっくり墨絵に置き換えた作品を残している。
 
12
中納言行平朝臣左遷須磨浦逢村雨松風二蜑戯図
月岡芳年
明治初期 19世紀
木版色摺
33.4×47.2cm 2枚続
 
 須磨に流された歌人で貴公子の在原行平が、海女の姉妹、松風・村雨と深い仲となるが、やがて許されて都に帰り、残された松風・村雨は狂うほどに嘆き悲しんだという伝承や、行平が須磨に蟄居した時の和歌「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」(『古今和歌集』巻18)などをもとに、謡曲『松風』が世阿弥(ぜあみ)によって完成した。謡曲『松風』では、旅の僧が須磨で松風・村雨ゆかりの松を弔うと、月明かりの浦に汐汲(しおくみ)車をひく松風・村雨の霊があらわれ、行平を慕って心を乱しながら舞う。夜が明け、夢がさめると、ただ松風の音ばかりしていたという趣向である。この哀切な恋心と詩情豊かな設定が人気を呼び、松風物といわれるジャンルが戯曲などに確立し、絵画化された。
 
13
島津家本 平家物語
江戸時代前期 17世紀
紙本著色
各23.6×17.2cm 30帖のうち
 
 『平家物語』に取材する平家絵は、室町時代には描かれており、琵琶法師による平曲の流行とあいまって、さまざまな画題で屏風や絵巻などの絵画化が進んだ。本書は『平家物語』を30巻30帖にまとめ、挿絵を260図(一部に他の混入がある)描く。大和絵風の濃彩な著色で、人物や景観の表現などに生硬さがみられるが、丸に十の字の家紋が施された二重箱に納められた豪華な絵入り本である。この種の絵入り本は、高貴な女性の賞翫(しょうがん)用として好まれたようで、他所にも少なからず伝来している。
 
14
源平合戦図屏風 一の谷合戦図
狩野吉信
江戸時代前期 17世紀
紙本金地著色
154.5×351.0cm 6曲1隻
 
 『平家物語』に語られる寿永3年(1184)2月7日の一の谷合戦の様子を描く。源義経の坂落、生田の森での河原太郎・次郎兄弟の先駆け(さきがけ)、平重衡(ひらしげひら)の生捕り(いけどり)、風流人(ふうりゅうじん)平忠度(ただのり)の最期、平敦盛(たいらあつもり)と熊谷直実(くまがいなおざね)の哀話など、さまざまな武勇伝やエピソードを屏風の大画面に配置して合戦の熱気を伝えている。
 
15
芳年武者無類 平相国清盛
月岡芳年
明治前期 19世紀
木版色摺
35.5×24.4cm 1枚
 
16
福原殿舎怪異之図
葛飾北為
1843〜47(天保14〜弘化4)年
木版色摺
37.2×75.9cm 3枚続
 
17
清盛入道布引滝遊覧悪源太義平霊討難波次郎
歌川国芳
1815〜42(文化12〜天保13)年
木版色摺
35.6×72.7cm 3枚続
 
18
平清盛炎焼病之図
月岡芳年
1883(明治16)年
木版色摺
35.1×70.3cm 3枚続
 
 平清盛(1118-81)は、政治の実権を掌握するとともに、1162年までには神戸・福原の経営を計画し、その後、福原に山荘を造営、また大輪田泊で中国・宋との貿易を始め、平氏一門の栄華をもたらした。
 清盛は、『平家物語』の中で善と悪の両方を体現する人物に表現されている。善は、神戸での千僧(せんそう)供養や寺社参詣などの神仏への帰依(きえ)や、大輪田泊の修築などの作善(さぜん)であり、それ故の昇進、栄華であった。一方、悪の最大は王法など旧来の秩序に対する反逆であり、仏法への敵対であった。その兆候や報いとして、福原で無数の髑髏(どくろ)が清盛をにらみつけるという怪しい出来事(No.16)や、布引の滝で雷神に化身した義平に襲われるという事件(No.17)が起こり、壮絶な「あっち死」(No.18)で無限地獄へ落とされ、一門が滅亡したと語られている。
 
19
義経之軍兵一ノ谷逆落之図
歌川国芳
1830〜42(天保元〜13)年
木版色摺
35.8×72.2cm 3枚続
 
20
一ノ谷大合戦之図
歌川国芳
1847〜52(弘化4〜嘉永5)年
木版色摺
35.7×73.0cm 3枚続
 
21
生田森追手源平大合戦
歌川国芳
1843〜47(天保14〜弘化4)年
木版色摺
36.0×74.0cm 3枚続
 
22
武勇雪月花之内 生田森えひらの梅
月岡芳年
1867(慶応3)年
木版色摺
35.9×72.7cm 3枚続
 
23
源平一ノ谷大戦高名之図
五雲亭貞秀
1855(安政2)年
木版色摺
36.3×72.3cm 3枚続
 
24
播州須磨寺若木桜之図
月岡芳年
1870(明治3)年
木版色摺
37.2×75.6cm 3枚続
 
 一の谷合戦は、西は須磨、東は生田の森まで繰り広げられ、はじめ一進一退であったが、搦手の源義経(よしつね)がとった坂落の奇襲(No.19)が功を奏し、戦局は一転した。平氏の棟梁・宗盛(むねもり)、建礼門院(けんれいもんいん)をはじめ、一門はあわてて海に逃れ、討ち死にするものが続出した(No.20)。『平家物語』には多くの武勇伝やエピソードが語られ、錦絵などに素材を提供している。
 一の谷西手の大将軍で、源氏方と組み討ちになって右腕を切られた忠度(ただのり)は、覚悟を決め、最期の十念を唱えて討たれた。武芸にも歌道にも優れた忠度の箙(えびら)には和歌が結びつけられていた(No.23)。大手の生田の森では梶原景時(かげとき)が、退却の遅れた長男の景季(かげすえ)を救うため、危険を冒して敵陣に再び突入する。『長門本平家物語』『源平盛衰記」では、景季が梅の枝を箙にさして出陣する話しが加わる。またその影響で謡曲『箙』が生まれ、崖ではなく梅の木を背にたたかうことになり、歌舞伎の世界では景季は代表的な二枚目役となった(No.21、22)。
 須磨寺の若木桜は光源氏ゆかりのものだが、浄瑠璃『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』では、義経が平氏の若武者を憐れみ、若武者を桜にたとえて、枝を折れば指を落とすという内容の制札を弁慶に書かせた(No.24)。神戸周辺には、このような武勇伝やエピソードに関連づけた史跡や名所が数多く残っている。
 
25
義経鞍馬山図
歌川芳員
1859(安政6)年
木版色摺
35.8×76.0cm 3枚続
 
26
義経記五条橋之図
月岡芳年
1881(明治14)年
木版色摺
37.0×73.5cm 3枚続
 
27
源平盛衰記駿河国富士川合戦
歌川国芳
江戸時代後期 19世紀
木版色摺
36.3×74.8cm 3枚続
 
28
一ノ谷大合戦 鷲尾三郎案内して鵯越の裏手を越える図
月岡芳年
1862(文久2)年
木版色摺
36.0×72.9cm 3枚続
 
 源義経は、平治の乱で敗死した源義朝(よしとも)の遺児で、幼名を牛若、九郎という。母の常磐(ときわ)が平清盛の寵愛を受けたこともあって助命され、8歳で鞍馬寺に預けられた。それ以降、頼朝の挙兵に呼応し、富士川合戦(No.27)に参陣する頃までの詳細は不明。一の谷合戦では、地元の鷲尾義久(経春ともいう)が山道を案内し(No.28)、平氏の背後を突いて坂落の奇襲戦術を成功させることができた。義経はその悲劇性から様々な文学や演劇などに多くの素材を提供している。
 『義経記(ぎけいき)』によると、鞍馬では昼は学問、夜は平氏討伐のため天狗から武芸を学んだという(No.25)。弁慶が太刀を奪おうとして義経の忠実な部下となる物語は後世の文学や能などにとりいれられた。またその場所は、『義経記』では清水の観音だが、のちには脚色されて五条橋にかわっている(No.26)。
 
29
平敦盛像
狩野久蔵(内膳)
1590(天正18)年
紙本著色
219.8×154.4cm 1幅
須磨寺蔵
 
大きな母衣(ほろ)を背負い、波打ち際を疾走する紅顔の若武者・敦盛。須磨の浜辺で弱冠16歳の生涯を散らした無官太夫敦盛の哀話は、源氏でいえば義経の悲劇と好一対をなしている。この作品は絵のまわりを囲む宝相華文の表装部分まで含めて実は手描きであり、全体では縦347cm、横186cmという超大作となる。この大きさは、敦盛を偲んで須磨寺にやって来る大衆の礼拝用に役立ったことであろう。画面の右端に「狩野久蔵廿一歳筆」のサインと「暉」の壺印があり、豊臣家の御用絵師であった狩野内膳重郷(ないぜんしげさと)(初名久蔵、1570〜1616)が21歳の若さで描いた作品であることがわかる。桃山時代らしい豪快な画像。須磨寺に残る『当山歴代』という古記録から、1592(天正20)年に当庄代官で大阪在住の横井文甫が寄進したことがわかる。
 
30
平敦盛像
狩野安信筆・提州慧全賛
1661(寛文元)年賛
絹本著色
109.8×57.2cm 1幅
須磨寺蔵
 
 威風をととのえ合戦に出発する晴れ姿。出陣影(しゅつじんえい)という武家肖像画のスタイルで描かれている。作者は当時狩野派グループの総帥であった中橋狩野家の狩野安信(1613〜1685)。号を牧心斎といい、探幽三兄弟の末弟にあたる。画の上方に鳥取龍峯寺の住職・提州慧全(ていじゅうえぜん)(姫路生れ、1592〜1668)の長文の題があり、画像制作の事情を知ることができる。かいつまんでいえば、「摂州須磨浦は佳名の古跡で、ここに上野山福祥寺という精舎がある。平氏の無官太夫敦盛公の図像と敦盛所持の漢竹の笛を収蔵しており、参拝する者は多い。因幡伯耆の太守(鳥取藩主)池田光仲の老臣で三河生まれの荒尾志摩守在原嵩就は、かつて播州にいたとき、しばしばここに来遊した。そこで見た敦盛公の図像が破損はなはだしく、また名手の作でないことを嘆き、当世の名画家・狩野牧心斎(安信)に頼んで新たに描かせて奉納し、長く後世に残ることを願う」というような内容。画面右下に「牧心斎筆」のサインと「牧心斎主人」印がある。
 荒尾家は代々織田信長や豊臣秀吉につかえ、江戸時代に入ると池田家の家老となって姫路、岡山、鳥取と転任した名家。荒尾嵩就(たかなり)(1591〜1669)は兄成利とともに幼い藩主光仲を補佐して権勢をふるったが、光仲親政の確立にともない、1662(寛文2)年に隠居した。この敦盛像の奉納は隠居の前年にあたり、戦国から泰平への変転を生き抜いた嵩就には万感の思いをこめたものであったのだろうと思う。
 
31
一ノ谷合戦
月岡芳年
明治前期 19世紀
木版色摺
24.7×71.5cm 竪2枚続
 
32
敦盛と直実(無題)
鈴木春信
1764〜72(明和年間)
木版色摺
27.9×20.7cm 1枚
 
33
無官の太夫敦盛 熊谷次郎直実組打の図
歌川豊国
1815〜24(文化12〜文政7)年
木版色摺
37.3×25.6cm 1枚
 
34
播州須磨寺の桜ニ義経高札ヲ立る図
歌川国芳
1815〜42(文化12〜天保13)年
木版色摺
35.4×76.1cm 3枚続
 
 敦盛は平清盛の異母弟・経盛(つねもり)の子で、『平家物語』巻9の「敦盛最期」では熊谷直実に討たれる若公達(きんだち)として登場する。敦盛は馬を泳がせ、沖の船を目指すが、「敵にうしろを見せるのか」と直実が扇を振り上げて招き寄せる(No.31)。直実は引き返した敦盛を組み伏せ、頸(くび)をかき切ろうとするが、わが子と同年代の美少年をけなげに思い、助けようと思う。しかし味方の軍勢が近づき、「他人の手にかかるより、わが手で討ち取り、後生(ごしょう)の供養を」と、泣く泣く頸をかき切った。敦盛の腰には、祖父忠盛(ただもり)が鳥羽院から賜った小枝という名の笛がさしてあり、戦場に笛を携える優雅さに皆が涙したと語られる(No.32、33)。
 この「敦盛最期」から派生した物語は、理想化された敦盛像と直実の発心譚を交えながら、謡曲『敦盛』、幸若舞曲『敦盛』など様々な展開を見せている。また浄瑠璃『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』では、義経が平氏の若武者を憐れみ、若武者を桜にたとえて枝を折れば指を落とすという内容の制札を弁慶に書かせた。直実はその真意を理解し、敦盛の身代わりにわが子の頸を偽って差し出し、皆の涙を誘ったという(No.34)。
 
35
小敦盛絵巻
桃山時代 16世紀
紙本著色
24.8×1335.1cm 1巻
 
36
小敦盛絵巻
江戸時代前期 17世紀
紙本著色
縦18.9、19.0cm 2巻
須磨寺蔵
 
 『平家物語』の哀話「敦盛最期」をもとに後日譚(たん)を展開した御伽草子(おとぎぞうし)で、熊谷直実の発心譚(ほっしんたん)と謡曲『生田敦盛』をあわせた内容にちかい。物語の成立は室町時代。
 敦盛の遺児で捨子の小敦盛は法然(ほうねん)、直実らに育てられ、親を慕うあまり病気になる。小敦盛は、直実の配慮で、母である北の方に対面して素性を初めて知る。ある日、賀茂明神の示現を受け、生田に旅立ち、一の谷で雷雨にあう。ある御堂をたずね、事情を話し、敦盛の遺児であることを告げると、御堂の主はさめざめと泣きながら招き入れる。主の膝でまどろむと、夢うつつに主から名乗られ、供養のためなら高僧になるよう勧められる。嬉しさの余り袖に取りつこうとすると夢がさめ、敦盛も御堂も消えていた。膝だと思っていたのは苔むした腰骨だった。遺骨とともに都に帰り、菩提を弔う。小敦盛はやがて浄土宗西山(せいざん)派の祖である善慧(ぜんえ)上人になるという筋書きである。
 現存する『小敦盛』は数種類の系統に分かれるが、No.35、36とも、詞書16段、絵15図からなり、巻頭に一の谷合戦、巻末に善慧上人の場面を含む同じ系統のものである。須磨寺本は詞書が詳細で、他にない本文が含まれていて注目されている。
 
37
楠公像
板谷舟意筆・岩瀬忠震賛
1861(文久元)年賛
絹本淡彩
48.3×30.3cm 1幅
 
 楠木正成(まさしげ)(1294〜1336)は楠公(なんこう)さんと敬称される。鎌倉幕府打倒をめざす後醍醐天皇を助け、対立する足利尊氏と戦闘をくりひろげたが、神戸湊川の合戦で討死した。その忠義によって後世顕彰され、庶民の信仰を集めた点で、楠公さんは中国「三国志」の英雄・関羽(関帝さん)とよく似ている。特に1692(元禄5)年、水戸藩主・徳川光圀(みつくに)が湊川の楠公墓所を整備して「鳴呼(ああ)忠臣楠子之墓」の碑を建ててからは、ここは西国街道を往来する人たちの名所のひとつとなった。1872(明治5)年には同地に湊川神社が創建されている。
 本図は幕末の楠公像で、表情は楠妣庵(なんびあん)観音寺(富田林市)が所蔵する伝狩野山楽筆の画像と似ている。右下に「舟意廣芳謹畫」という画家のサインと「和畫一流」の印があり、江戸の大和絵派である板谷家の画人と思われるが伝不明。上の賛は旗本で開国論を唱え、外国奉行にもなった岩瀬忠震(ただなり)(181〜1861)。
 
38
楠公迎鳳輦図
早川大涛
明治時代
絹本著色
120.1×43.1cm 1幅
 
 1333(元弘3)年5月、幽閉されていた隠岐を脱出した後醍醐天皇は、京都をめざす途中、兵庫の巨鼇山福厳寺(門口町)で楠木正成の出迎えを受けた。そのとき寺にあった老松に「蒼官護国松」と命名したのだという。鳳輦(ほうれん)とは屋根の上に鳳輦の飾りを立てた天皇の乗物のことで、本図では左奥の方に見えている。それを拝する正成の顔はとことん理想化された美男子に描かれ、こうした故事歴史再現画が勧善懲悪の世界であったことを示している。日本史上の名場面を眼前に見るがごときエンターテイメントは、TVや映画の歴史ドラマの先駆けといってもよいが、その制作者であった早川大涛という画家のことはもはやさっぱりわからず、近代史の中で埋没してしまっている。
 
39
楠公訣児図
狩野探信守道筆・堀田正敦賛
江戸時代後期
絹本淡彩
92.4×32.0cm 1幅
 
 湊川合戦におもむく楠木正成(大楠公)は敗北を覚悟し、途中の桜井の駅(大阪府三島郡島本町)から息子の正行(まさつら)(小楠公)をむりやり領地に帰らせ、自分の死後も後醍醐天皇に忠誠をつくすよう諭す(さとす)。楠公の故事の中でも最も有名な別離の場面。
 和歌賛「身をすてて君につかふるこころこそ なきよののちのかがみなるらめ」は近江堅田藩主で若年寄をつとめた堀田正敦(まさあつ)(1758〜1832)で、画家は江戸幕府の奥絵師であった鍛冶橋狩野家の当主・探信守道(1785〜1835)。落款に「探信斎法眼筆」と記し「守道」の印を捺しているから、彼が法眼になった1825(文政8)年以降の作品とわかる。
 
40
楠公訣児図
河鍋暁斎
江戸時代末期〜明治時代
紙本淡彩
133.7×51.8cm 1幅
 
 河鍋暁斎(きょうさい)(1831〜1889)は古河(こが)(茨城県)の出身。はじめ江戸で歌川国芳から浮世絵を学び、のち狩野派に入門した。狩野派のテクニックと浮世絵のユーモア、風刺精神をあわせもち、狂斎と号して硬軟バラエティにとむ作品を残している。日本よりむしろ欧米で人気の高い作家である。本図で見せる正行(小楠公)のとぼけた表情にも、彼の反骨精神が潜んでいるようだ。
 
41
日本外史之内 楠正成兵庫にて主上に謁す
小林清親
1882(明治15)年
木版色摺
37.7×76.3cm 3枚続
 
42
敏馬浦焼打之図
歌川芳虎
1847〜52(弘化4〜嘉永5)年
木版色摺
35.0×70.6cm 3枚続
 
43
楠湊川大合戦之図
歌川芳虎
1847〜52(弘化4〜嘉永5)年
木版色摺
36.2×75.0cm 3枚続
 
44
兵庫合戦遠矢之図
歌川芳虎
1860(万延元)年
木版色摺
37.6×77.6cm 3枚続
 
45
摂州兵庫求女塚合戦
歌川芳虎
1847〜52(弘化4〜嘉永5)年
木版色摺
36.4×76.2cm 3枚続
 
 南北朝の内乱を綴った『太平記』(1371年頃の成立)も、太平記読みと呼ばれる僧らが語り、江戸時代には講釈師や浄瑠璃によって庶民まで広まった。とくに湊川合戦は人気のある場面だった。
 鎌倉幕府の倒幕を計画した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は1332年3月隠岐に流されたが、翌年閏2月隠岐を脱出、5月30日に兵庫に到着して福厳寺(ふくごんじ)を行宮(あんぐう)とした。『太平記』には、6月3日に天皇が輦輿(れんよ)で出発する間際に楠木正成(くすのきまさしげ)がようやく着き、拝謁する劇的な場面が記されている(No.41)。
 建武の親政から離反した尊氏は1336年2月新田義貞(にったよしさだ)に敗れ、兵庫から九州に退いたが、その際、敏馬浦に停泊していた尊氏方の軍船に兵庫の白藤氏が火をつけ、北風で燃え広がり打撃を与えたという逸話が残っている(No.42)。
 勢力を回復した尊氏は海路、弟の直義(ただよし)は陸路に分かれ兵庫を目指した。一方、正成は具申が採り入れられず、敗戦を覚悟して京都を発つ。『太平記』によると、桜井で11歳の正行(まさつら)に教訓を与え、再起を託して別れ、兵庫で義貞とともに迎え撃つことになった。同年5月25日早朝、義貞方の本間孫四郎重氏(ほんままごしろうしげうじ)が、和田岬で、魚をくわえて飛びたつ鳥を尊氏方の船に矢で射落とし、弓の腕前を披露して名誉を得たという(No.44)。
 尊氏方の陽動作戦に惑わされた義貞は兵庫から東に陣を移す。そのため会下山付近に布陣した正成と正季は、陸路の直義、兵庫から上陸した尊氏の大軍に包囲され、突入を繰り返した後(No.43)、ついに湊川の北の村で自刃したという。また生田近辺で防戦していた義貞は丹波路に逃れようとし、馬を射られ、処女塚で代わりの馬を待っている間、散々に矢を射られた。小山田太郎高家(おやまだたろうたかいえ)が義貞を助けるため馬を奉じ、自らは処女塚で戦死した、と伝えられている(No.45)。
 
46
摂津名所図会
秋里籬島
1798(寛政10)年
木版墨刷
25.4×18.0cm 12冊のうち
 
 摂津国13郡の地誌書で全9巻12冊からなり、改訂版も刊行された。各地の名所旧跡、名物、特産名産、風俗習慣などを網羅的に取材してその由緒を説明し、関連する和歌や古典などを引用する。また石田友汀などの画家による西国街道沿いの風景や名所、祭礼や生業の挿絵が多数収載されている。巻7〜9が神戸に関係する。江戸時代の神戸を知る、格好の案内書でもある。
 
47
播州名所巡覧図絵
村上石田
1804(文化4)年
木版墨刷
25.9×18.2cm 5冊のうち
 
 播磨国だけでなく海道沿いの摂津国も含む地誌書で5巻5冊からなる。各地の名所旧跡などを取材してその由緒を解説し、関連する和歌や古典などを紹介する。挿絵は中井藍江(らんこう)が担当した。
 
48
真景図巻(摂州摩耶山眺望)
白雲
1799(寛政11)年か
紙本著色
25.4×71.2cm 1巻
 
 白雲(はくうん)(1764〜1825)は奥州白河藩主・松平定信に重用された画人。浄土宗の僧で、江戸の谷文晁から絵を学んで風景画を得意とした。定信が全国古社寺の宝物記録収集をめざした『集古十種』の編纂にともない、資料採集のため、1799(寛政11)年と翌年の二回、関西地方を旅している。本図には「八月廿日至此(ここにいたる)」と書かれ、1799年の西遊で登山したと考えられている。水平線は丸く、実感に満ちた真景図だが、もちろん山の上で描いたラフスケッチをもとに、画室で制作されたもの。今では六甲山から下界を眺めて「百万ドルの夜景」などと称するが、その原点ともいうべき眺望は「千両箱の晴れ景色」とでもいったところか。画巻ではこれに続いて「摂州六甲山眺望」と題した墨画が2図収録されているが、こちらには4月14日の日付(年不明)があるから摩耶山と同時の旅行ではない。
 
49
従摩耶山至須磨寺眺望
愛山
1861(文久元)年
紙本著色
48.3×124.2cm 1枚
 
 摩耶山から須磨寺までを海側から俯瞰したもの。町屋が密集する兵庫津や神戸村近辺以外はのどかな風景に描かれているが、海上には異国型船舶が浮かび、須磨には長州藩屋敷が描かれ、幕末の世情があらわれている。山麓の描写が特徴で、東から摩耶山、布引の滝、再度山、湊山、神撫山、因幡山が並ぶ。
 
50
金谷上人御一代記
横井金谷
江戸時代後期
紙本墨画淡彩
天地27.5cm 1巻
 
 横井金谷(よこいきんこく)(1761〜1832)は、今の滋賀県草津市に生まれ、浄土宗の僧侶となった。放蕩無頼の性格で、山伏の修行に熱中するなど型破りの奇人であった。諸国を放浪するかたわら与謝蕪村の画風に私淑し、江戸時代後期の特異な文人画家としても知られる。
 この画巻は、その誕生から50歳までの半生を自ら語った伝記的物語。自分を高徳の祖師になぞらえ、誇張をまじえパロデイめかした語り口で諸国を漫遊しながら、随所に軽妙なタッチの挿絵を加えている。近世ユーモア文学の秀作として評価が高く、『東洋文庫』シリーズ(平凡社)から現代語訳が刊行されている。
 写本が今までいくつか確認されているが、この作品は未紹介の新資料。全6巻が揃い、挿絵のできばえから見て金谷の自筆である可能性が高い。各巻の冒頭に「金谷」と「大寶主人」の印を捺し、巻4と巻6の巻末には「金谷圖書記」印がある。
 今回展示するのはそのうちの巻2。兵庫に滞在中、経が島の来迎寺で法然上人絵伝6幅を描いている様子や、弁慶に扮して子供たちと源平合戦ごっこをして遊ぶ金谷の姿に続いて、敦盛塚、舞子の浜の景色が描かれている。


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