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◆サケ沖取り漁の再開
 敗戦による中断を経て、戦後再開された母船式沖取り漁は、都道府県別に出航できる独航船の数が決められていた。新潟港からは昭和28(1953)年には2隻、以後増加して昭和31(1956)年には13隻が出航した。
 沖取り流し網漁も再開され、1953年以降、立川甚五郎の大歴山丸を始め、黒崎多惣治の辰正丸、笠原多市の東洋丸等が出漁した。これらの中型流し網漁船は釧路港や根室の花咲港などを水揚げ港に定め、沖合いの操業で得た漁獲物は指定の港でのみ水揚げできた。一時期はサケの延縄漁も行われていた。独航船を始めとする漁船は、戦後しばらくは木造船であった。昭和40年代ころから鋼船となり、鋼船の造船は新潟鉄工所等が手がけていた。
 
新潟鉄工所回流水槽
昭和45(1970)年、新潟鉄工所工場内に設置された船体試験用の水槽施設。実船と相似な模型を使って、船の性能を確認するために試験を行う。
 
新潟鉄工所模型製作場
回流水槽で実施する試験用模型を製作する場所。設置された昭和45(1970)年頃、模型は木製であったが、後にウレタンフォームで製作することが多くなった。写真は中型鮭鱒流し網漁船(69t)の模型。
 
◆200海里水域と母川国主義
 サケの生態に関する研究の進展により、北太平洋におけるアジア及び北アメリカの両大陸起源のサケの混交状態が明らかになってきた。日本の母船式サケ漁が北アメリカ産のサケを相当数漁獲していることから、資源保全の問題として日米間で取り上げられるようになり、日本の操業禁止区域が追加されていった。また、昭和48(1973)年の第三次国連海洋法会議以降、各国で漁業水域200海里(約370キロ)の設定が進み、他国の水域内での操業が禁止されるようになった。さらに、サケのように河川に遡上する魚において、母川国に利益と管轄権を認める母川国主義が唱えられ、平成4年(1992)年からは公海でのサケ漁獲も行われなくなった。
 
昭和55(1980)年頃までのさけ漁操業区域(図)


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