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◆巨大資本の誕生と母船式漁業の本格化
 昭和7(1932)年3月、日魯漁業と新潟の漁業家を含む中小漁業家らが設立した北洋合同漁業会社が合併し、日魯漁業は陸揚げ漁業をほぼ独占する形となった。さらに系列の太平洋漁業株式会社に母船式の企業を吸収し、母船式沖取り漁業の経営も独占した。
 母船式沖取り漁業は昭和に入って確立した漁法である。数千トンという大きな汽船を母船として、独航船と呼ぶ小型の漁船がサケを漁獲する。独航船の漁獲方法は、1反30間(約54m)の長さの流し網を100反規模で流して行う。漁獲したサケは独航船から母船に移し揚げられ、母船内で缶詰や塩蔵加工された。母船式沖取り漁業の操業には、巨大な母船、多数の独航船、多くの人員が必要であり、また農林大臣の許可が必要であった。立川甚五郎のように母船経営を目指して許可を取得した個人漁業家も存在したが、実際の操業は大資本日魯漁業に集約されていった。
 
母船式サケマス流し網漁業優勝旗
市立函館博物館所蔵 独航船の間で漁獲高の競争を行わせ、最も優秀な成績を収めた船には優勝旗が授与された。
 
大漁丸艤装図
田中造船所蔵 昭和10(1935)年 木造の独航船「大漁丸」の設計図。設計者は田中祥雄氏。
 
受渡尾数協定書
昭和9(1934)年 独航船大歴山丸が母船信濃丸に受け渡した漁獲物についての受渡尾数協定書。大歴山丸は立川甚五郎所有の船。
 
大歴山丸立替物資控
昭和10(1935)年 独航船が母船に納めた漁獲数から、出漁前の準備金を差引いた金額が支払われる。
 
万漁籠
サケを岸壁に水揚げするための道具。
 
水色計
昭和30年代か 大歴山丸で使用されたもの。海面の色とチャートを対照させて、水の温度を測る道具。水温によって、サケの種類ごとの生息域が異なってくるため、この道具で見当をつける。
 
舷灯 左(青)、右(赤)
昭和5(1930)年 大歴山丸で使用されたと考えられる。
 
◆独航船時代の新潟の漁業家
 日魯漁業の大合併後も、新潟からロシア領への出漁を続ける漁業家がいた。立川甚五郎や田代三吉らは母船式船団に持ち船の独航船を送り込み、サケ漁を続けていた。独航船の出漁は母船経営会社と傭船契約を結ぶことで可能となるが、事故の責任や損害は独航船の船主が負うことになるなど、独航船側に不利な契約内容となっていた。独航船に支払われる報酬は漁獲に対する出来高払いとなっており、漁に必要な経費は独航船の負担であった。


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