◆北洋漁業の産業化と資本合同
シベリア出兵やロシア動乱、戦後の経済恐慌などにより、北洋漁業各社の経営状況は厳しい状況にあった。大正10(1921)年、堤商会系の輸出食品株式会社、日魯漁業株式会社、新潟出身の小熊幸一郎ら中小の漁業者で結成されたカムチャッカ漁業株式会社の三社が合併し、日魯漁業株式会社となった。新しい日魯漁業は本社を東京におくとともに、魚網を生産する製網工場、漁船の建造・修理を行う造船所、鉄工場など、サケ漁に必要な関連製造工場を相次いで函館に建設した。函館のサケ漁の基地としての機能を強化し、大規模化するロシア領でのサケ漁への体制を固めていった。
そのころ、陸揚げ漁業においては、ソビエト連邦による自国優良漁場の回収や国営企業の優先的割当、これらによる借区料の高騰といった問題があり、従来のような操業は困難な状況になりつつあった。このため、大正期から沖取り漁業が試験的に行われ、昭和に入ると母船式沖取り漁業が確立していった。
日魯七重浜造船所(写真)
市立函館博物館所蔵 漁場で使用する漁船等の製造、修繕を行うために設置。造船所の船大工は100人に及び、新潟出身の船大工も働いていた。
|
函館製網工場内部(写真)
カムチャッカ鮭鱒漁業網
引張試験機
北海道へ渡った船大工道具
日魯漁業がカムチャッカで保有していた漁船数は、ドウカイ船479隻、サンパ船201隻をはじめ1,000隻以上に及び、新造船は毎年100隻以上に及んだ。他の漁業会社の漁船の製造修理もあり、昭和初期の函館の造船所は北洋漁業向け木造漁船の製造で活況を呈していた。木造船製作に使われた船大工道具には新潟県で製作されたものもあった。平成8、9年にかけて船大工道具1,356件を収集した函館産業遺産研究会によれば、船大工用の鋸では三条産の中屋孫左衛門、中屋庄左衛門、中屋庄作、中屋助直などがよく使われたという。中屋助直は新潟市内の鋸鍛冶で、三条の問屋へ卸すほか、北海道に渡った新潟の船大工からの注文も受けた。
|