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◆増えるロシア領でのサケ漁
 サハリン(樺太)に出向いた漁業家は、次第に漁場を開いて自ら漁業を営むようになっていった。明治8(1875)年には樺太千島交換条約により、樺太はロシア領となるが、樺太でサケ漁を行う者は増加した。もともと、沿海州をはじめ極東ロシアでは、業としてのサケの漁獲・加工はほとんど行われていなかった。しかし、日本人漁業家によるサケ漁獲の増大と水産市場の発展を受けて、ロシアもサケを有望な水産資源として管理・保護するようになった。ロシアは優良な自国漁場の回収のため、日本人漁業者の活動を規制し、明治34年にはロシア領における日本人の漁業活動は原則禁止された。
 そこで、漁業家の間ではサハリンのさらに北、カムチャッカを目指す動きが現われた。日露戦争後の明治40(1907)年に日露漁業条約の成立すると正式にロシア領で漁業ができるようになると、露領陸揚げ漁業は最盛期を迎えた。
 
日本の日魯漁業株式会社との契約書
市立函館博物館所蔵 昭和3(1928)年 漁場の租借契約を締結した契約書。
 
漁場免状
市立函館博物館所蔵 昭和10(1935)年 借区料を支払って、漁場の権利を得たものに下付される。写真は免状を入れる封筒。
 
Explanation 解説
新潟の北洋漁業家
 新潟の漁業家の活動は早く、明治20年代までには太郎代浜の小熊幸吉や島見浜出身の内山吉太・有田清五郎、新潟市の田代三吉らが樺太へ出漁していた。対岸の沿海州では、関矢儀八郎らがサケ漁を始めていた。明治41(1908)年、日露漁業条約成立後の急増したロシア領出漁を統制するため、漁業家達は露国沿海州水産組合(翌年露領水産組合と改称)を結成した。組合の支部は東京、函館、新潟、富山、沿海州ニコライエフスクに置かれた。新潟県の露領水産組合員数は大正3(1914)年に50人で、北海道の88人に次いで2番目、組合全体の約2割を占めていた。
 新潟港を根拠とした北洋漁業家達の経歴は多様である。海産物商の田代三吉、鮮魚問屋の片桐寅吉、ロシア語の通訳から漁業経営に乗り出した立川甚五郎。大正期に漁獲を急激に伸ばした堤清六は、もともと三条出身の呉服商であった。行商に訪れた露領でサケの有望性を見聞し、堤は新潟市東堀前通の伯父宅で堤商会を興した。27歳の明治40(1907)年、購入した帆船宝寿丸に乗りカムチャッカへ出航した。
 明治42(1909)年には600万尾、10年後の大正7(1918)年には1700万尾以上のサケが新潟に水揚げされた。個別の漁業家単位でも、大正7年には田代三吉・片桐寅吉・東洋物産・浅井惣十郎・鈴木佐平・堤清六など有力な漁業家が、それぞれ年間100万尾以上の漁獲をあげていた。
 
露領水産組合総会記念写真
明治42(1909)年 露領水産組合総会時の記念写真。関矢儀八郎(前列左より5人目)、片桐寅吉(同9人目)、立川甚五郎(同10人目)、田代三吉(4列左より9人目)の姿が見える。
 
組合員名簿
明治42年6月〜大正9年12月 露領水産組合新潟支部の組合員の名簿。


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