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◆新潟からロシア領漁場を目指す船
 昭和初期まで、ロシア領でのサケ漁は陸揚げ漁業とよばれる沿岸漁であった。輸送船によって漁夫や漁業に必要な物資を送り込み、漁期が終わると輸送船によって漁獲物と漁夫の引揚を行った。漁場に番屋や加工場を作り、日々の漁獲を陸揚げして塩蔵処置していたのが陸揚げ漁業の名の由来である。
 陸揚げ漁業には、漁期をまかなう物資輸送船が必要であった。輸送船は、明治時代には主に西洋型帆船が使われ、大正に入ると汽船が増えていった。
 
信濃川に碇泊する西洋式帆船(写真)
信濃川左岸に碇泊する西洋式帆船の一団。北洋向けの帆船と思われる。
 
 こうした船は新潟の造船所で作られ、修理されていた。近世以来の港町として、新潟町には造船所が軒を連ね、多くの船大工を抱えていた。
 
長宝丸完成記念写真(写真)
明治41(1908)年か 長宝丸の完成を記念して撮影された。集まっているのは、田代家の関係者をはじめ、造船に携わった人々であると考えられる。
 
 新潟の北洋漁業家田代三吉所有の長宝丸は、明治41(1908)年から大正6(1917)年まで露領漁場への輸送船として活躍した帆船である。造船を手がけたのは、新潟の船大工小嶋松蔵という人物で、船の完成が近づくと船舶登録を田代名義に変更する届けを新潟の裁判所に出している。長宝丸新造控には造船や艤装(ぎそう)に必要な物資が事細かに記載されている。長宝丸は暴風雨に遭遇し、大正6年に田代から船舶登録の抹消届が出されている。
 
はがき
長宝丸の遭難に続いて河口から流されて行方不明だった越路丸の帰港を祝ったもの。
 
名義変更願下書
明治41(1908)年か 建造中の長宝丸の名義を、船大工の小嶋松蔵から田代三吉へ変更する申請書の下書き。
 
長宝丸新造控
明治41(1908)年 長宝丸の完成・出航に必要な品物や数量、金額、仕入先に至るまで詳細に綴られている。
 
登記証書
明治41(1908)年大正6(1917)年に遭難した、帆船長宝丸の船舶登記が抹消されている。


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