CHAPTER 2章 船が結ぶ新潟湊と蝦夷地
◆幕末の新潟湊と蝦夷地の結びつき
寛文年間に西廻り航路が整備されると、新潟は日本海海運の中継港として発展を遂げた。新潟湊と蝦夷地(えぞち)(北海道)との交易も増加し、新潟から蝦夷地へは米や手工業製品が、蝦夷地から新潟へは水産物を中心とした産物が回漕された。
文化4(1807)年に、蝦夷地が幕府の直轄領になると、幕府は蝦夷地の経営に必要な米を、諸国の幕領から箱館(はこだて)へ送らせた。越後の幕領からも箱館廻米が行われ、新潟湊はその積出港に指定された。その後、蝦夷地は松前藩に戻されたが、箱館開港に備えて安政5(1858)年に再び上知された。箱館廻米も再び命じられ、新潟との結び付きを一層深めていった。
新潟湊へのサケの移入量の変化を見ると、元禄10(1697)年には移入されたサケは3万尾であるが(「新潟江従諸方参候御蔵米并雑穀諸色大積り」)、幕末の安政5(1858)年には数が急激に増加し、30万9181本のサケの塩引が蝦夷地から移入されていた(蝦夷地産物新潟入津書上帳)。
新潟表記録 四
一橋大学附属図書館所蔵 安政5(1858)年 箱館の物産会所から新潟湊へ送られる諸産物の仲役を、買い請けた者からだけ徴収する形としたいとの伺い。この年、新潟湊へ移入された蝦夷地産物は鮭塩引以下35品目に及び、4月から9月までの移入代金合計は約2万7000両にのぼっていた。
『新潟表記録』は天保14(1843)年から文久2(1862)年の間に、新潟奉行が幕府へ提出した文書を記録したもの。
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行田魁庵(なめたかいあん)筆新潟入船之図
個人蔵 明治4(1871)年 掛軸。新潟へ航海してきた3隻の和船が、信濃川河口の湊に停泊している様子が描かれている。幕末から明治の新潟湊の光景をよく伝えている。
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新潟江従諸方参候御蔵米并雑穀諸色大積り
個人蔵 1697(元禄10)年 新潟湊に移入された商品や、新潟町の情勢・職人等が書上げられている。港町として繁栄する新潟の商品流通、町の様子がわかる資料。
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◆漁場開発に関わる越後人
松川弁之助 幕末期に樺太(サハリン島)の漁場開発が行われた。新潟湊から開発に必要な物資が積み出され、蝦夷地の水産物も大量に新潟湊に移入された。この漁場開発では、越後人が大きな役割を果たした。
松川弁之助は、蒲原郡井栗村(三条市)出身である。弁之助は、安政4(1857)年に樺太へ人を派遣して出漁させ、鱒1,000石の漁獲を得た。幕府は弁之助に漁場開発を委ね、漁獲物を直接新潟湊へ輸送・販売する許可を与える等の支援を行った。弁之助自身も開拓団を率いて樺太に渡ったが、その後の樺太漁業は不漁が続き、越冬時の漁場では多くの死者が出た。この事業は失敗の内に終わったが、弁之助は箱館の整備事業にも力を尽くし、松川の名は現在の函館の地名にも残されている。
南半之助 太郎代浜出身の南半之助は、会津藩の御用船の船頭を勤めたという。会津藩シベツ(標津)番屋を描いた西厳寺所蔵「北海古漁図」には、半之助も描かれていると伝えられる。
北海古漁図
星暁邨筆 西厳寺所蔵 元治元(1864)年 六曲一双の屏風 1隻には会津藩シベツ(標津)番屋で鮭を加工する様子が、もう1隻には箱館と思われる湊に寄港する船が描かれている。安政6(1859)年から慶応4(1868)年にかけて、会津藩は標津を含む蝦夷地の警護を任じられていた。現在は西厳寺所蔵であるが、それ以前は南家に伝えられていた。
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『新潟表記録 参』
一橋大学附属図書館所蔵 安政4(1857)年 弁之助は、北蝦夷地(樺太)開墾差配を命じられたが、そのための一式費用は弁之助の負担であった。本史料は、新潟湊から積み出す物品について弁之助が仲役免除を求めた伺書。
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北海古漁図
星暁邨筆 西厳寺所蔵 元治元(1864)年 六曲一双屏風 暁邨(1813〜1900)は会津若松の生まれで四条派の絵を学び、京都で仁和寺法親王に画を献じ、「法橋」の免許状を賜っている。一双のうち、標津を描いた屏風には「大日本暦元治紀元甲子夏五月寫准六位平朝臣法橋暁邨朗」、函館を描いた屏風には「元治紀元甲子夏皐月法橋暁邨星郎」の落款がある。
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