◆大網の権利 新潟漁師と淀口八統
近世、大網は信濃川と阿賀野川で行われていた。両河川の河口部は大きく変化し、流路も時期によって違っていたため、漁業の権利をめぐって争論が絶えなかった。
新潟漁師 新潟町の鮭網の権利(  (とう))は数が決まっていた。天保14(1843)年には鮭網は12  あり、町の役人が権利を持っていた。サケ漁を実際に行うのは新潟町の漁師で、役人から権利を借りて操業した。新潟の漁師は、上一ノ町(上大川前通1〜2番町)に住む上漁師と、洲崎(すざき)町(古町通13番町〜東堀通13番町)及び能登町(東堀前通13番町)に住む下漁師、大網を行う大網師がいた。このうち、鮭漁を行ったのは上漁師と大網師である。彼らは信濃川の白山から河口部までを漁場とした。年によって流れや引網を行う中洲が変化するため漁場の争論が絶えず、漁場の境界を確認するための絵図が多く残された。
淀口八統 阿賀野川の河口部には、淀口八統(よどぐちはっとう)と呼ばれる網場があり、ハチドアミとも呼ばれていた。阿賀野川の河口が変化する以前には、旧河口から一日市(ひといち)付近までの間に6統分の網場があった。松ヶ崎浜の者が3統、沼垂(ぬったり)・河渡(こうど)・島見浜の者が各1統ずつ持っていた。享保16(1731)年、松ヶ崎堀割の決壊により、網場の場所も移動された。宝暦4(1754)年、濁川・新崎・松ヶ崎浜が幕領となった。このとき、濁川・新崎が鮭網の権利をめぐって6統側と争いになり、両村の言い分が認められて網場は8統となった。八統網の権利は基本的には個人持ちの権利であり、売買されたり、貸し付けられたりすることもあった。
覚
この文書は、大網師たちの一年間の鮭漁獲高を、個人別に集計したもの。
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乍恐以書付奉願上候
この文書は、大網師たちが、下漁師たちに、自分たち漁場を請負わせないよう奉行所に願い出たものである。
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嘉永五子年 山庄小左衛門様より淀口八統網 請持人江御掛り御申立有之御呼出一件留帳 |
新崎自治会所蔵 嘉永5(1852)年8月。この冊子は、淀口八統の漁師たちと、新発田藩重役山庄小左衛門との争いを記したもので、淀口八統の成立過程を述べた部分である。
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◆漁場
大網が引かれていたのは、信濃川では河口から酒屋辺りまで、阿賀野川では河口から横越付近までであった。網数、鮭漁業権の単位を統(とう)(  (とう)とも記す)という。網を引くことを藩から認められている場所を網場といい、範囲が定められていた。
信濃川のように、両岸の領主が違っている場合には、川中央が境界となっていたが、新発田領側は新発田領の者が、新潟側は新潟の者が網場を持っていた。左岸では新潟町・関屋村・平島村に網場があったし、合子ケ作(ごうしがさく)や金巻(かなまき)などにもあったとみられる。右岸には山ノ下・沼垂・蒲原(かんばら)・流作場(りゅうさくば)・出来島(できじま)・天野・上和田などに網場があった。
新潟網入絵図
鮭網漁業場 はんのき島図
網場の図
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