「蜑の手振」詞書きによれば、大網は「地引網のごとくする」漁法で、網の長さは約250〜270mで、引き綱は場所に応じて90〜180m程度の規模であった。蜑の手振の「鮭網の画」では9人で引き網を行っている。漁期は例年9月23日頃(秋の彼岸)から12月22日頃(冬至)までであった。
大網はサケに関わる漁法の中で、最も優位な権利を認められていた。大網は、網を引くための足場が必要となり、川岸や中洲、場所のない場合は土俵を沈めて足場を作った。阿賀野川河口部では、川近くの畑を踏み荒らしてもとがめられないという慣習があった。また他の漁法は、大網の邪魔にならない場所で行うことになっていた。
新潟信濃川なる鮭網ハ地引網といふものとおなし、これも一網を一

と唱ふ、今十二

あり、一あみ十一人のさためなりと云、秋の彼岸より冬至迄を盛とす、おなし国にても十五里下の方村上にてハ、おくれてこなたの末に至る頃、彼方の盛にて、とし毎に其時たかハぬとそ、網ハ百四五十尋、袋網は九尋ほと、引綱は五十間程より百間余まて所に応して出すことゝそ、さかりに成し頃にても、予か見し時は一網二三尺より一四五尺迄、三四十も入ることはとかく稀成といふ、かく地引網のことくするを大網と唱ふ、其外に流し網といふは、網のめに鮭のさす様にして瓢箪の筌をつけて、其端の緒を持、ひとり小舟に乗、流にしたかひて流す、鮭の網にさせは、うけにひゝくを見て引きあくる也、朝夕か夜を重とする業なり、またさし網といふハ湊口海の浪立あたりにおろし置て、程をはかりてあくるといふ、或ハ

と唱へて籠のこときものを水底に沈め置、其内に入るをとる業もあり、此川筋にて鮭を漁する業もくさくさあれとも、そのことくわしく記せし書もありと覚ゆれば、他のことはこゝにもらしぬ、此国の鮭のことも鎌倉の代より聞えしときけハ、年古きことなるへし