CHAPTER 1章 サケをめぐる歩み
◆古代越後の特産品 サケ
新潟のサケに関する記録は、古代にさかのぼる。10世紀に成立した『延喜式』には、税として貢納するよう定められた諸国の産物が記されている。越後国が貢納する品として、「鮭」のほか「鮭内子(ここもり)・鮭子(さけこ)・氷頭(ひず)・背腸(このわた)」といったサケの加工品が挙げられている。
越後は諸国で唯一、調庸に「鮭」が定められた国であった。それだけ越後国における信濃川・阿賀野川の大河を始め、各河川でのサケ漁が盛んであったためと考えられる。贄(にえ)では近畿周辺の複数の国でも「生鮭」という品目が見えるが、「鮭」とあるのは越後国だけである。「生鮭」とは区別されていること、越後国が中央から遠方であることから越後国の「鮭」は塩蔵加工されたものと考えられる。中央までの長い旅程を経て、サケを届け得るだけの保存加工技術を発達させていたことが推測される。
信濃川水系に接する的場遺跡からは、「鮭」と書かれた木簡や大量の漁具、大型の倉庫跡が見つかっており、大規模なサケの漁獲・加工基地であったと考えられる。漁具出土の規模の大きさ、遺跡の経営が300年間という長期間に及ぶ点から、的場遺跡は越後国においてサケの生産・加工の中心的な役割を果たす官営の施設であったと考えられる。
土錘 浮子
的場遺跡出土。魚網の重りと浮きとして使用する。この土錘と浮子は大型のもので、サケのような大型魚に使うと考えられる。
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木簡
的場遺跡出土。「鮭」の文字は、遺跡の漁獲対象にサケが含まれていたことを示す。図は新潟市史資料編1より転載
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Explanation 解説
サケの生産・加工基地 的場遣跡
的場遺跡は8世紀前半に成立した遺跡で、当時は信濃川の河口から数キロメートル上流の潟湖の辺に位置した。的場遺跡の特徴は、大量に漁具が出土したこと、住居跡が確認されないことである。漁業を行う時に営まれる基地だったと考えられる。出土した漁具には、魚網の重りと思われる土製品が約8000点、浮きと思われる木製品が約100点、このほか魚網を制作するためのアバリ、舟の櫂(かい)などが見つかっている。サケの歯や「鮭」の文字が書かれた木簡も出土している。
遺跡からは大型の倉庫と思われる掘立柱建物跡が見つかっている。倉庫としては越後最大級の規模を持ち、おそらく漁獲物を保管する倉庫と思われる。
的場遺跡の復元ジオラマ(部分) 当館常設展示より
◆近世新潟のサケ漁
江戸時代には、漁法など漁業の実態が明らかになってくる。当時のサケ漁の様子を描いた資料が伝わっており、サケ漁の種類や方法を具体的に知ることができる。「蜑(あま)の手振(てぶり)」には、河口の地引網でサケを獲っている様子が描かれている。当時の信濃川では大網(地引網)、流し網、刺し網、筌(つづ)による鮭漁が行われていた。新発田藩の諸役銀を記した「慶長十六年分諸役銀子之帳」には、鮭漁の漁法として大網・流し・居繰り(いぐり)が記されている。大網や居繰り網は、明治初期「新潟県下越後国中蒲原郡酒屋村前信濃川居繰網鮭漁場之図」にも描かれており、大網や居繰り網を使った漁の実際の様子がうかがわれる。
新潟県下越後国中蒲原郡酒屋村前信濃川居繰網鮭漁場之図(複製)
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新潟県立歴史博物館蔵(原本は個人蔵)。対岸で地引網漁、川中では居繰り網漁をしている。安全社と書かれた川蒸気船が描かれていることから、明治14から19年の風景と考えられる。
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Explanation 解説
鮭刺し網之図 図説新潟市史より転載(個人蔵)
近世の鮭漁/刺し網
信濃川河口部の波が立っている辺りに網を下ろしておいて、一定の時間を置いて網を上げる漁である。現在も、阿賀野川では刺し網を行っている。
近世の鮭漁/居繰り網
居繰り網は船二艘(そう)で網を張り、掛かったサケをとる。現在でも三面川(村上市)で行われている漁法で、市域では両川地区の上和田で行われていた記録がある。
近世の鮭漁/流し網
当時の流し網は小船に一人で乗って行った。川の上流から網を流し、網にはひょうたんの浮きがついており、サケが網の目に刺さって浮きが反応すると引き上げた。朝夕もしくは夜に行う漁であった。現在も信濃川・阿賀野川では流し網を行っている。
近世の鮭漁/  (つづ)
「蜑の手振」詞書きによれば、  は籠状の筒を水底に沈めておき、中に入った鮭を捕まえる。  は他の史料では筒または筌と記される。新潟では「つづ」または「ど」と呼んでいる漁法である。
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