東金御成御膳之御肴指上帳(とうがねおなりおぜんのおさかなさしあげちょう)
原岡区(はらおかく)に、慶長十九年(けいちょうじゅうくねん)(一六一四)から寛永七年(かんえいしちねん)(一六三〇)までの間(あいだ)、徳川家康(とくがわいえやす)や秀忠(ひでただ)が上総国(かずさのくに)の東金(とうがね)へ鷹狩り(たかがり)に来た(きた)とき、岡本村(おかもとむら)の庄屋彦兵衛(しょうやひこべえ)が、佐倉藩主(さくらはんしゅ)・土井利勝(どいとしかつ)の指示(しじ)で鮮魚(せんぎょ)を送った(おくった)記録文書(きろくもんじょ)が保管(ほかん)されています。文書(もんじょ)の形式(けいしき)は、和綴じ帳(わとじちょう)(表紙上綴じ(ひょうしうわとじ)・中味横綴じ(なかみよことじ))で三冊(さんさつ)あります。いずれも房総(ぼうそう)の漁業関係資料(ぎょぎょうかんけいしりょう)として貴重(きちょう)です。
と、表書き(おもてがき)された文書(もんじょ)を見ます(みます)と、岡本(おかもと)から東金(とうがね)へ鮮魚(せんぎょ)の第一便(だいいちびん)を送った(おくった)のは、慶長十九年(けいちょうじゅうくねん)(一六一四)一月七日(いちがつなのか)です。七つ時(ななつとき)(午前四時頃(ごぜんよじころ))から、一人(ひとり)の宰領(さいりょう)と三人(さんにん)の人足(にんそく)が岡本沿岸(おかもとえんがん)で獲れた(とれた)、「大(おお)だい三枚(さんまい)。すずき一本(いっぽん)。ぼら一本(いっぽん)。黒だい一枚(いちまい)。ぶだい三枚(さんまい)。こち二本(にほん)。〆六色(しめむいろ)、数十一(かずじゅういち)。」を運んで(はこんで)行き(いき)ました。
東金(とうがね)の鷹狩り(たかがり)は、家康(いえやす)が二回(にかい)、秀忠(ひでただ)が七回(ななかい)。いつも七日間(なのかかん)づつ行い(おこない)ましたので、岡本(おかもと)から鮮魚(せんぎょ)を送った(おくった)の数十回(すうじゅっかい)になります。寛永元年(かんえいがんねん)(一六二四)十一月(じゅういちがつ)の目録(もくろく)には、「雨風(あめかぜ)が五(ご)〜六日(ろくにち)続き(つづき)、漁(りょう)がございませんので少々(しょうしょう)指上(さしあげ)ます。」と追い書き(おいがき)がされていますので、気象条件(きしょうじょうけん)が悪く(わるく)、不漁(ふりょう)であっても指定(してい)されたときまで、鮮魚(せんぎょ)を揃えて(そろえて)送った(おくった)ことが分かり(わかり)ます。当時(とうじ)の岡本村(おかもとむら)の人(ひと)たちの苦労(くろう)が偲ばれる(しのばれる)文書(もんじょ)でもあります。
徳川家康の鷹狩りに鮮魚を送った記録帳簿
第一便の鮮魚の目録(原岡区)
青木(あおき)の高札場(こうさつば)と丹生(にゅう)の高札(こうさつ)
高札場(こうさつば)とは、法度(はっと)・掟書(おきてがき)・重罪人(じゅうざいにん)の罪状(ざいじょう)などを記した(しるした)高札(こうさつ)を掲げた(かかげた)場所(ばしょ)をいいます。富浦(とみうら)でも、江戸(えど)から明治初年(めいじしょねん)まで、当時(とうじ)の村単位(むらたんい)ごとにありましたが、時代(じだい)の変遷(へんせん)とともに不明(ふめい)となり、現在(げんざい)明らか(あきらか)になっているのは、青木地区(あおきちく)のみです。
青木(あおき)の高札場(こうさつば)は、青木字岩峯(あおきあざいわぶ)の岩(いわ)の崖(がけ)へ長方形(ちょうほうけい)(間口(まぐち)二(に)メートル・高さ(たかさ)一(いち)メートル二十(にじゅう)センチ・奥行(おくゆき)九十センチ(きゅうじゅっセンチ)に掘り(ほり)、作られて(つくられて)います。なお、高札場(こうさつば)の前面(ぜんめん)の小道(こみち)は、当時(とうじ)の青木村(あおきむら)と多田良村(ただらむら)を結ぶ(むすぶ)主要道路(しゅようどうろ)でした。
丹生(にゅう)の高札(こうさつ)は、明和七年(めいわしちねん)(一七七〇)のもので富浦最古(とみうらさいこ)の高札(こうさつ)です。江戸時代(えどじだい)丹生村(にゅうむら)の名主(なぬし)だった加藤茂家(かとうしげるけ)に遺って(のこって)いましたが、八束小学校(やつかしょうがっこう)に寄附(きふ)され、現在(げんざい)公民館(こうみんかん)にあります。
文面(ぶんめん)を要約(ようやく)しますと次(つぎ)のとおりです。
富浦に唯一残る高札場(青木・字岩峯)
明治7年の丹生の高札
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