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青木(あおき)・原岡(はらおか)の虫送り(むしおくり)行事(ぎょうじ)
 昔(むかし)は、どこの農村集落(のうそんしゅうらく)も田植え(たうえ)が終り(おわり)ますと、『虫送り(むしおくり)』を行い(おこない)ました。
 それは稲(いね)の豊作(ほうさく)を願う(ねがう)ため、「オークンド、オークンド、イネムシオークンド。」と虫送り(むしおくり)の唱え詞(となえことば)を歌い(うたい)ながら、松明(たいまつ)を持って(もって)田(た)の畦(あぜ)を廻り(まわり)、害虫(がいちゅう)のウンカやズイムシを追い出そう(おいだそう)とする呪術的(じゅじゅつてき)な民俗行事(みんぞくぎょうじ)だったのですが、農薬(のうやく)の普及(ふきゅう)により大方(おおかた)は消滅(しょうめつ)し、現在(げんざい)、南房総(みなみぼうそう)では富浦(とみうら)の青木(あおき)と原岡(はらおか)の集落(しゅうらく)のみとなりました。貴重(きちょう)な文化財(ぶんかざい)ですから、後世(こうせい)まで伝えられる(つたえられる)よう願う(ねがう)ものです。
 青木(あおき)の虫送り(むしおくり)は区(く)が主催(しゅさい)しますが、行事(ぎょうじ)をするのは子供(こども)たちです。夕刻(ゆうこく)、氏神(うじがみ)の青木神社(あおきじんじゃ)に集合(しゅうごう)しますと、およそ二(に)メートルの竹(たけ)と稲(いな)わらで作った(つくった)松明(たいまつ)に火(ひ)を付け(つけ)、虫送り(むしおくり)の唄(うた)を唱え(となえ)ながら、植え終えた(うえおえた)集落(しゅうらく)の水田(すいでん)を廻って(まわって)岡本川橋(おかもとがわばし)(昔(むかし)の村境(むらさかい))まで害虫(がいちゅう)を送り出し(おくりだし)そこで松明(たいまつ)を焼き捨て(やきすて)ます。
 原岡(はらおか)の虫送り(むしおくり)は、農業用(のうぎょうよう)の水利(すいり)を管理(かんり)をする、クザイ(貢済(くざい))と呼ばれる(よばれる)組織(そしき)が主催(しゅさい)します。氏神(うじがみ)の愛宕神社(あたごじんじゃ)に集まった(あつまった)農家(のうか)の人(ひと)たちは、神官(しんかん)から虫送り(むしおくり)の祈祷(きとう)と御祓い(おはらい)を受け(うけ)ますと、鉦(かね)を叩き(たたき)ながら、割り竹(わりだけ)と稲(いな)わらで作った(つくった)松明(たいまつ)と、虫籠(むしかご)を持ち(もち)、集落(しゅうらく)の水田(すいでん)を廻り(まわり)ます。虫送り(むしおくり)の出発地(しゅっぱつち)は、昔(むかし)、クザイの井戸(いど)があった全昌寺(ぜんしょうじ)の前(まえ)からで、最後(さいご)は岡本川(おかもとがわ)に至り(いたり)、松明(たいまつ)と虫籠(むしかご)を流して(ながして)終り(おわり)となります。
 
青木神社で松明に火を付ける
 
オークンド・オークンドと稲田を廻る子供たち
〈写真青木区公会堂蔵・石井利彦氏 撮影〉
 
伝(でん)ヨソベエ生簀(いけす)とヨソベエ墓(はか)
 昭和(しょうわ)の初め(はじめ)まで、漁業基地(ぎょぎょうきち)として栄えた(さかえた)富浦(とみうら)は、鯛(たい)の漁獲(ぎょかく)でも有名(ゆうめい)でした。
 富浦(とみうら)が、どうしてそうなったかと言い(いい)ますと、慶長年間(けいちょうねんかん)(一五九六〜一六一四)に、南無谷(なむや)の石小浦(いしごうら)へ、関西地方(かんさいちほう)で発達(はったつ)した組織的(そしきてき)な漁法(ぎょほう)と、漁具(ぎょぐ)を持って(もって)、泉州(せんしゅう)(大阪府(おおさかふ))堺(さかい)から池田弥三兵衛(いけだやそべえ)が渡って来た(わたってきた)からです。
 石小浦(いしごうら)では弥三兵衛(やそべえ)のことを、「イシゴラヨソベエ」と呼び(よび)伝えて(つたえて)いますが、弥三兵衛(やそべえ)は江戸(えど)に生れた(うまれた)大消費地(だいしょうひち)に目(め)を付け(つけ)、地元漁民(じもとぎょみん)を雇う(やとう)と、江戸市場(えどしじょう)へ出荷(しゅっか)を前提(ぜんてい)に、長縄(ながなわ)(延縄(はえなわ))を使い(つかい)鯛漁(たいりょう)を開始(かいし)しました。漁場(ぎょじょう)は房州(ぼうしゅう)ばかりでなく、寛永年間(かんえいねんかん)(一六二四〜一六四四)には、相州(そうしゅう)(神奈川県(かながわけん))真鶴(まなづる)まで及び(および)ました。
 石小浦(いしごうら)には、海岸(かいがん)の岩(いわ)をくりぬいた「ヨソベエ生簀(いけす)(円形(えんけい)・周囲二十(しゅういにじゅう)メートル)一基(いっき)と、延享元年(えんきょうがんねん)(一七四四)三月三日(さんがつみっか)に歿した(ぼっした)池田弥太郎(いけだやたろう)の墓(はか)である「ヨソベエ墓(はか)」一基(いっき)が残って(のこって)いますが、いずれも、房総漁業(ぼうそうぎょぎょう)の開拓者(かいたくしゃ)の伝承(でんしょう)を秘めた(ひめた)貴重(きちょう)な史蹟(しせき)です。
 寛政六年(かんせいろくねん)(一七九四)に弥三兵衛(やそべえ)の子孫一族(しそんいちぞく)は真鶴(まなづる)との関わり(かかわり)が深く(ふかく)なったため、全員(ぜんいん)石小浦(いしごうら)から去り(さり)ましたが、弥三兵衛(やそべえ)に指導(しどう)を受けて(うけて)進歩(しんぽ)した鯛漁(たいりょう)のお蔭(かげ)で、富浦(とみうら)の鯛(たい)の漁獲量(ぎょかくりょう)は関東屈指(かんとうくっし)となり、江戸市場(えどしじょう)の相場(そうば)を左右(さゆう)するほどになりました。
「ヨソベエ生簀(いけす)」は、明治以後(めいじいご)(一八六八〜)も暫く(しばらく)、宮中(きゅうちゅう)の儀式(ぎしき)に使う(つかう)鯛(たい)の生簀(いけす)として使われて(つかわれて)いました。
 
ヨソベエ生簀(石小浦海岸)
明治以降も宮中に納める鯛を飼っていた
 
ヨソベエ墓(石小浦堂墓地)
墓の裏側に泉州境池田弥太郎墓と刻まれている


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