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枇杷(びわ)の生産(せいさん)流通(りゅうつう)に関する(かんする)生業用具(せいぎょうようぐ)
 現在(げんざい)の、富浦町(とみうらまち)の枇杷生産量(びわせいさんりょう)は、町村単位(ちょうそんたんい)でいいますと日本一(にっぽんいち)です。
 富浦(とみうら)の枇杷栽培(びわさいばい)の始まり(はじまり)は、宝暦年間(ほうれきねんかん)(一七五一〜一七六四)あたりと言われ(いわれ)ますが、それは、天明四年(てんめいよねん)(一七八四)、汐入村(しおいりむら)の山田屋(やまだや)と南無谷村(なむやむら)の太郎右衛門(たろううえもん)、与五左衛門(よござえもん)が、江戸(えど)の神田須田町(かんだすだちょう)の果物仲買人(くだものなかがいにん)・三河屋岩蔵(みかわやいわぞう)に出荷(しゅっか)した売上価格(うりあげかかく)の仕切書(しきりしょ)によって、推測(すいそく)することができるのです。
 以来(いらい)、枇杷栽培(びわさいばい)の先人(せんじん)たちは、栽培面積(さいばいめんせき)の拡張(かくちょう)、新品種(しんぴんしゅ)の導入(どうにゅう)、出荷方法(しゅっかほうほう)の改良(かいりょう)など、血(ち)の滲む(にじむ)ような努力(どりょく)を重ねて(かさねて)きたのですが、それらの歴史(れきし)を刻み込んで(きざみこんで)いる、生産(せいさん)や流通(りゅうつう)の用具(ようぐ)・用器(ようき)については、木材(もくざい)、竹材(ちくざい)、紙製品(かみせいひん)であるため、永年使用(えいねんしよう)には耐えられず(たえられず)、また、用具(ようぐ)・用器改良(ようきかいりょう)の流れ(ながれ)もあって、利用価値(りようかち)が無く(なく)なれば、廃棄(はいき)するのが通常(つうじょう)でした。
 しかし幸い(さいわい)なことに、豊岡八十八番地(とよおかはちじゅうはちばんち)の岡本家(おかもとけ)に、昭和初期(しょうわしょき)(一九二六〜)から現在(げんざい)に至る(いたる)、枇杷(びわ)の生産用具(せいさんようぐ)と流通(りゅうつう)に関わる(かかわる)用器(ようき)が百点以上(ひゃくてんいじょう)保存(ほぞん)されていましたので、富浦(とみうら)の枇杷栽培(びわさいばい)を語り継ぐ(かたりつぐ)資料(しりょう)として、町(まち)が文化財(ぶんかざい)に指定(してい)しました。
 
枇杷の運搬に使った枇杷かごと天秤棒
 
枇杷を出荷した木箱
 
あとがき
 今年は、富浦町が町制を施行して五十年に当ります。その記念すべき年に、『富浦昔ばなし第二集』を、NPO富浦エコミューゼ研究会より発行していただきましたことは、筆者といたしまして、この上ない喜びであります。心から感謝を申し上げます。
 この本は、平成十二年に富浦町より発行されました『富浦昔ばなし』の続編で、掲載いたしました昔話は、大方が富浦町広報の『まちの民話』欄に載せた、民話と伝説と古文書類の話です。いずれの話も、自分たちの住む町の昔話を愛する多くの方々が、広報に民話掲載を依頼されていた筆者のために提供して下さったもので、味わい深いものばかりです。従いまして、この本は富浦町民皆さんの手によって、出来上ったというのが本当です。
 文才に欠けた筆者ですので、皆さんをファンタジーの世界に誘い込むことまでは出来ませんが、読み易くするため、心を込めて全文に振り仮名を付け、語りかけるような調子で書きあげました。富浦の昔話を後世まで伝え残すために、少しでも役立てば幸いです。
 
平成十八年弥生 生稲 謹爾
 
著者略歴
生稲 謹爾(いくいな きんじ)
一九三四年生まれ。農業
千葉県安房郡富浦町宮本二二七
富浦町行政連絡員協議会長 文化財審議委員長 郷土文化研究会長 教育委員長などを歴任。一九八三年『富浦町史』編纂に参画。『広報とみうら』の六一号より最終の三九八号まで町の民話を掲載。著書に『とみうら昔むかし』『富浦の里見物語』『富浦の昔ばなし』。


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