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丹生(にゅう)のチリ椿(つばき)
 丹生(にゅう)・山木家(やまきけ)のチリ椿(つばき)は、樹齢(じゅれい)四百(よんひゃく)〜五百年(ごひゃくねん)と推定(すいてい)され、樹高(じゅこう)六(ろく).五(ご)メートル、枝張り(えだはり)八(はち)メートル、樹幹(じゅかん)は目通り(めどおり)一(いち).四(よん)メートルです。樹勢(じゅせい)も盛ん(さかん)であり、チリ椿(つばき)では安房一(あわいち)の大樹(たいじゅ)です。
 チリ椿(つばき)は、その名(な)が表す(あらわす)ように、山茶花(さざんか)の如く(ごとく)、花弁(かべん)が一枚一枚(いちまいいちまい)散る(ちる)のが特徴(とくちょう)です。
 丹生(にゅう)・山木家(やまきけ)のチリ椿(つばき)は、同じ(おなじ)木(き)に、赤(あか)、白(しろ)、ピンク、縦絞り(たてしぼり)と、咲き分ける(さきわける)美しい(うつくしい)五色(ごしき)チリ椿(つばき)で、花(はな)の最盛期(さいせいき)は、二月(にがつ)〜三月(さんがつ)です。
 
美しい花の咲いた丹生のチリ椿(丹生359)
 
瀧淵神社(たきぶちじんじゃ)の石造群(せきぞうぐん)
 多田良(ただら)・瀧淵神社(たきぶちじんじゃ)の境内(けいだい)に、同社(どうしゃ)が創建(そうけん)の地(ち)大房岬(たいぶさみさき)にあって瀧淵不動(たきぶちふどう)(修験(しゅげん))と称した(しょうした)頃(ころ)の、石造物(せきぞうぶつ)が多数(たすう)あります。
 これらの石造物(せきぞうぶつ)は、明治三十三年(めいじさんじゅうさんねん)(一九〇〇)大房岬(たいぶさみさき)が帝国海軍(ていこくかいぐん)の射的場(しゃてきじょう)となったため、堂舎(どうしゃ)と共(とも)に現在(げんざい)の地(ち)に移された(うつされた)のですが、主(おも)なるものは、役行者像(えんのぎょうじゃぞう)、竜頭(りゅうず)、石祠(せきし)(八幡宮(はちまんぐう)・石尊(せきそん))、手洗石(てあらいせき)、狛犬(こまいぬ)、灯籠(とうろう)です。
 永年(えいねん)の風化(ふうか)により、大方(おおかた)の銘文(めいぶん)が消滅(しょうめつ)。年代(ねんだい)の推考(すいこう)は困難(こんなん)ですが、信仰上(しんこうじょう)、重要(じゅうよう)な位置(いち)にあった役行者(えんのぎょうじゃ)の石像(せきぞう)(像高(ぞうだか)・百二十(ひゃくにじゅう)センチ)についていいますと、室町時代(むろまちじだい)の作(さく)と考えられ(かんがえられ)、制作当時(せいさくとうじ)は、芸術的(げいじゅつてき)な面(めん)でも優れた(すぐれた)石像(せきぞう)であったと思われ(おもわれ)ます。
 役行者(えんのぎょうじゃ)は本名(ほんみょう)役小角(えんのおづぬ)。大和国(やまとのくに)(奈良県(ならけん))に生まれた(うまれた)人(ひと)です。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によりますと、葛城山(かつらぎやま)の洞窟(どうくつ)に住み(すみ)、修行(しゅぎょう)を重ねて(かさねて)神通力(じんつうりき)を得(え)、修験(しゅげん)の祖(そ)となりましたが、妖術(ようじゅつ)を使い(つかい)世人(せじん)を惑わす(まどわす)者(もの)として、文武天皇三年(もんむてんのうさんねん)(六九九)伊豆大島(いずおおしま)へ流された(ながされた)といいます。
 大房岬(たいぶさみさき)に役行者(えんのぎょうじゃ)が飛び来たって(とびきたって)、大宝寺(たいほうじ)(瀧淵不動(たきぶちふどう))を創建(そうけん)したのは、その時(とき)だと『太武佐不動縁起(たいぶさふどうえんぎ)』に記されて(しるされて)います。
 
役行者の石像(多田良1193)
 
仲尾沢(なかおざわ)の初午行事(はつうまぎょうじ)と道切り(みちきり)
 『道切り(みちきり)』とは、病魔(びょうま)や災い(わざわい)の悪霊(あくりょう)が進入(しんにゅう)してこないよう、村境(むらざかい)に注連(しめ)を張る(はる)習俗(しゅうぞく)のことです。昔(むかし)は富浦(とみうら)でも幾つか(いくつか)の集落(しゅうらく)で行われて(おこなわれて)いましたが、世(よ)の流れ(ながれ)とともに廃れ(すたれ)、今(いま)は宮本(みやもと)の仲尾沢(なかおざわ)だけが、その習俗(しゅうぞく)を残す(のこす)唯一(ゆいいつ)の集落(しゅうらく)になってしまいました。
 仲尾沢(なかおざわ)の道切り(みちきり)は、現在(げんざい)も初午(はつうま)の日(ひ)に行い(おこない)ます。籠り宿(こもりやど)に皆(みな)が稲(いな)わらを持って(もって)集まり(あつまり)ますと、人間(にんげん)が使う(つかう)三倍(さんばい)の大きさ(おおきさ)の、束子(たわし)(洗い(あらい)清める(きよめる)意味(いみ))・桟俵(さんだわら)(円座(えんざ)=未完成品(みかんせいひん)=)・御神酒錫(おみきすず)(榊(さかき)の枝(えだ)を挿し込む(さしこむ))・刀(かたな)・足中(あしなか)(草履(ぞうり)=未完成品(みかんせいひん)=)・飾り(かざり)(三本(さんぼん))を取り付けた(とりつけた)、四(よん)メートルほどの注連(しめ)を作り(つくり)、集落(しゅうらく)の入り口(いりぐち)へ吊り下げ(つりさげ)ます。
 仲尾沢(なかおざわ)では、道切り(みちきり)のことを『注連吊り(しめつり)』と呼び(よび)、その由来(ゆらい)を次(つぎ)のように言い伝えて(いいつたえて)います。
 「大昔(おおむかし)、安房国中(あわのくにじゅう)に疫病(えきびょう)が流行(りゅうこう)したとき、仲尾沢(なかおざわ)には、その病魔(びょうま)が入って(はいって)こないようにと、皆(みな)が集まる(あつまる)初午(はつうま)の日(ひ)に、注連(しめ)を作って(つくって)集落(しゅうらく)の入り口(いりぐち)に生えて(はえて)いた松(まつ)の枝(えだ)に張った(はった)のが始まり(はじまり)である。
 すると、集落(しゅうらく)に入ろう(はいろう)とした恐ろしい(おそろしい)病魔(びょうま)が、こんな大きな(おおきな)物(もの)を使う(つかう)巨人(きょじょん)(荒ぶる(あらぶる)神(かみ))がいるのでは、うっかりできないし、それに、未完成(みかんせい)の品(しな)が吊り下がって(つりさがって)おるのは、真面(まとも)に物(もの)を作れない(つくれない)馬鹿(ばか)ばかりの住む(すむ)集落(しゅうらく)だからだ。誰(だれ)も風邪(かぜ)ひとつひかないだろうと、入る(はいる)のを止めて(やめて)しまったのだ。」
 
富浦で一ケ所だけの道切り(宮本・仲尾沢地区)
 
巨人の使う草履などを見て病魔は退散


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