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富浦の昔ばなし 第二集

 事業名 <郷土学>富浦に伝わる民話集の編纂と地域再発見
 団体名 NPO富浦エコミューゼ研究会 注目度注目度5


棒術(ぼうじゅつ)・羯鼓舞(かっこまい)・獅子神楽(ししかぐら)
 江戸時代(えどじだい)からの民俗芸能(みんぞくげいのう)として、多田良地区(ただらちく)に伝承(でんしょう)されている棒術(ぼうじゅつ)・羯鼓舞(かっこまい)・獅子神楽(ししかぐら)は、毎年(まいとし)七月二十四日(しちがつにじゅうよっか)〜二十五日(にじゅうごにち)に行われる(おこなわれる)浅間神社祭礼(せんげんじんじゃさいれい)に奉納(ほうのう)されます。
○棒術(ぼうじゅつ)
 清め役(きよめやく)が塩(しお)を撒いた(まいた)神前(しんぜん)で、木刀(ぼくとう)や棒(ぼう)を向かい合って(むかいあって)組み(くみ)、
「エー・トー・トー・トー」
と、刃合せ(はあわせ)を開始(かいし)します。木刀(ぼくとう)の型(かた)は、三振り(さんふり)、七振り(ななふり)、九振り(きゅうふり)とあり、六尺棒(ろくしゃくぼう)は棒術(ぼうじゅつ)の型(かた)です。木刀(ぼくとう)と鎌(かま)は武士(ぶし)と百姓(ひゃくしょう)の争い(あらそい)を表現(ひょうげん)したものであり、長刀(ちょうとう)と鎌(かま)は一南流(いちなんりゅう)の剣術型(けんじゅつがた)であるという伝承(でんしょう)があります。いずれも気合い(きあい)鋭く(するどく)渡り合う(わたりあう)さまは、見る(みる)べきものがあります。
○羯鼓舞(かっこまい)
 頭(あたま)に鶏(とり)の尾羽根(おばね)をなびかせた夫婦(ふうふ)と子供(こども)の三頭(さんとう)の羯鼓獅子(かっこじし)が、赤色(あかいろ)の紋羽二重(もんはぶたえ)の前(まえ)だれをかざし、腹(はら)に小鼓(こづつみ)を付け(つけ)、背(せ)に二本(にほん)の花揆(はなばち)をさし、笛(ふえ)・太鼓(たいこ)・鉦(しょう)に合せて(あわせて)、注連縄(しめなわ)や弓(ゆみ)と舷(げん)の間(あいだ)をくぐりながら踊り(おどり)ます。
 特(とく)に立弓(たてゆみ)の弦(げん)を広げて(ひろげて)くぐり抜ける(ぬける)動作(どうさ)は、目(め)にも止まらぬ(とまらぬ)早業(はやわざ)で、羯鼓舞(かっこまい)の中(なか)で圧巻(あっかん)です。
○獅子神楽(ししかぐら)
 獅子神楽(ししかぐら)は、浴衣(ゆかた)に草履(ぞうり)ばきの踊り手(おどりて)が二人(ふたり)で一組(ひとくみ)になり、獅子頭(ししがしら)や全長四(ぜんちょうよん)メートルほどの唐草模様(からくさもよう)の反物(たんもの)でできた胴(どう)や尾(お)に入って(はいって)、笛(ふえ)・太鼓(たいこ)・鉦(しょう)に合せて(あわせて)舞い(まい)ます。
 舞(まい)は、サガリ(サガリハ・テンサン)・幣(へい)の舞(まい)・唄(うた)の舞(まい)・鈴(すず)の舞(まい)・剣(けん)の舞(まい)・クズシ・大獅子(おおじし)の七種(ななしゅ)に別れて(わかれて)おり、道化的(どうけてき)な神楽(かぐら)と異なり(ことなり)優雅(ゆうが)な舞(まい)です。
 
 
夫婦と子供の三頭の羯鼓獅子の踊りは雨乞いの踊りである
 
曲に合せて流れるように舞う獅子神楽
 
気合いの入った長刀は一南流の型である
〈写真集南房総富浦の四季・鈴木勇太郎氏撮影〉
 
宮本城址(みやもとじょうし)
 宮本城(みやもとじょう)は、房総里見氏(ぼうそうさとみし)の二代目(にだいめ)成義(しげよし)が、延徳三年(えんとくさんねん)(一四九一)に、稲村城(いなむらじょう)の支城(しじょう)として築いた(きずいた)ものです。初代(しょだい)の城主(じょうしゅ)は、成義(しげよし)の三男(さんなん)実堯(さねたか)がなりました。
 城域(じょういき)は山頂一体(さんちょういったい)を主郭(しゅかく)とし、東(ひがし)へ延びた(のびた)尾根(おね)と南北(なんぼく)に派生(はせい)する支尾根(しおね)に、連続(れんぞく)して、竪堀(たてぼり)、土橋(どばし)、堀切(ほりきり)を組み合せ(くみあわせ)、敵(てき)の取り付き(とりつき)を困難(こんなん)にしている、技巧的(ぎこうてき)な構造(こうぞう)となっています。特(とく)に城(しろ)の北側(きたがわ)の防禦(ぼうぎょ)に力(ちから)が注がれて(そそがれて)いるのを見ます(みます)と、当時(とうじ)の里見氏(さとみし)が、上総方面(かずさほうめん)を意識(いしき)していたことがよく分かり(わかり)ます。
 この宮本城(みやもとじょう)は、天文二年(てんぶんにねん)(一五三三)に起きた(おきた)里見氏一族(さとみしいちぞく)の内乱(ないらん)で、当主(とうしゅ)の義豊(よしとよ)が敗死(はいし)すると、稲村城(いなむらじょう)と共(とも)に廃城(はいじょう)となったと伝えられて(つたえられて)いますが、遺構(いこう)の形式(けいしき)から見て(みて)、従来(じゅうらい)言われて(いわれて)いたより、後年(こうねん)まで使用(しよう)されていたと考えられ(かんがえられ)ます。当時(とうじ)の文献(ぶんけん)からも、義豊(よしとよ)を滅ぼした(ほろぼした)義堯(よしたか)が、宮本城(みやもとじょう)に居城(きょじょう)した事(こと)が明らか(あきらか)になっているからです。
 
技巧的な遺構を持つ宮本城址(大津・字要害)


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