日蓮聖人(にちれんしょうにん)の裸像(らぞう)
成就山妙福寺(じょうじゅざんみょうふくじ)の日蓮聖人(にちれんしょうにん)の裸像(らぞう)は、弘安二年(こうあんにねん)(一二七九)に泉澤権頭太郎(いずみさわごんのかみたろう)が、甲州(こうしゅう)の身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)へ聖人(しょうにん)を訪れた(おとずれた)とき、聖人(しょうにん)が弟子(でし)の日法(にっぽう)に刻ませて(きざませて)授けた(さずけた)と伝えられる(つたえられる)木像(もくぞう)です。
聖人(しょうにん)は、清澄山(きよすみやま)で立教開宗(りっきょうかいしゅう)の後(のち)、布教(ふきょう)のため鎌倉(かまくら)へ赴こう(おもむこう)と建長五年(けんちょうごねん)(一二五三)の五月中旬(ごがつちゅうじゅん)に、便船(びんせん)をもとめ南無谷(なむや)きましたが、風波(ふうは)が激しく(はげしく)、渡航(とこう)できなかったため、小高い(こだかい)山(やま)(今(いま)の法華崎(ほっけざき))に登り(のぼり)、海上安全(かいじょうあんぜん)と法華(ほっけ)の教え(おしえ)が、あまねく天下(てんげ)に広まる(ひろまる)よう一心(いっしん)に祈祷(きとう)しました。
そのとき、権頭太郎(ごんのかみたろう)の一族(いちぞく)は聖人(しょうにん)を家(いえ)に招いて(まねいて)泊め(とめ)教化(きょうけ)を受け(うけ)ましたが、権頭太郎(ごんのかみたろう)の老母(ろうぼ)は、聖人(しょうにん)の衣(ころも)が汚れて(よごれて)いるのを見て(みて)、その衣(ころも)を洗濯(せんたく)したのです。
しかし代り(かわり)の衣(ころも)が無かった(なかった)ので、聖人(しょうにん)は裸(はだか)のまま読経(どきょう)を続けて(つづけて)衣(ころも)の乾く(かわく)のを待ち(まち)ました。妙福寺(みょうふくじ)の聖人裸像(しょうにんらぞう)は、そのときの姿(すがた)です。
紫の法衣をまとう聖人裸像(南無谷119)
6月5日・11月2日に裸像のお召し替えがある
日蓮聖人(にちれんしょうにん)の真筆(しんぴつ)と証明書(しょうめいしょ)
成就山妙福寺(じょうじゅざんみょうふくじ)の日蓮聖人真筆(にちれんしょうにんしんぴつ)は、弘安二年(こうあんにねん)(一二七九)に、泉澤権頭太郎(いずみさわごんのかみたろう)が甲州(こうしゅう)の身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)へ聖人(しょうにん)を訪れた(おとずれた)とき、聖人(しょうにん)の裸像(らぞう)といっしょに授かって(さずかって)きたものです。
幅二十センチ(はばにじゅっセンチ)の軸(じく)に、
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう) 日蓮(にちれん)
と、日蓮宗(にちれんしゅう)が唱える(となえる)七字(ななじ)の題目(だいもく)が書かれ(かかれ)、聖人(しょうにん)の署名(しょめい)があります。
証明書(しょうめいしょ)は二幅(にふく)で、永禄元年(えいろくがんねん)(一五五八)三月十一日(さんがつじゅういちにち)と、慶長十六年(けいちょうじゅうろくねん)(一六一一)十二月七日(じゅうにがつなのか)の日付(ひづけ)があり、いずれも、
日蓮大聖人御真墨無疑者也(にちれんだいしょうにんごしんぼくうたがいなきものなり)
と書かれ(かかれ)、永禄(えいろく)のものの証明者(しょうめいしゃ)は、日現(にちげん)、慶長(けいちょう)のものは、日遠(にちおん)です。
日蓮聖人の真筆
日遠と日現による証明書
深広山長泉寺(しんこうさんちょうせんじ)の木彫大黒天像(もくちょうだいこくてんぞう)は、元亀四年(げんきよねん)(一五七三)に、深名村平兵衛(ふかなむらへいべえ)の女(むすめ)が、里見家乳母(さとみけうば)の役目(やくめ)を終えて(おえて)下がる(さがる)とき、岡本城主(おかもとじょうしゅ)義頼公(よしよりこう)の奥方(おくがた)より、知行寄進状(ちぎょうきしんじょう)と共(とも)に拝領(はいりょう)したものです。
大黒天像(だいこくてんぞう)の大きさ(おおきさ)は、像高(ぞうだか)三十二(さんじゅうに)センチ・肩幅(かたはば)二十三(にじゅうさん)センチ・俵高(たわらだか)九(きゅう).六(ろく)センチでありふくよかなお顔(かお)には気品(きひん)があります。
知行寄進状(ちぎょうきしんじょう)は、おち(乳母(うば))への手紙(てがみ)として知られ(しられ)、
「なをなを ふかな(深名(ふかな))にて てんち(田地(でんち))三くわんめ(貫目(かんめ))まいらせ候(そうろう)」
と、書かれた(かかれた)ものです。
貫(かん)とは、当時(とうじ)の知行高(ちじょうだか)を表す(あらわす)単価(たんか)のことですが、寄進(きしん)を受けた(うけた)田地(でんち)は三十(さんじゅう)アールほどの良質田(りょうしつでん)で、今(いま)も長泉寺田(ちょうせんじた)と呼ばれ(よばれ)深名(ふかな)に残って(のこって)います。
大黒天(だいこくてん)のことは知行寄進状(ちぎょうきしんじょう)に書かれて(かかれて)いませんが、文面(ぶんめん)の最後(さいご)に押されて(おされて)いる朱印(しゅいん)が、大黒天(だいこくてん)の像(ぞう)であるところから、伝承通り(でんしょうどおり)里見家(さとみけ)より拝領(はいりょう)されたものと考えられ(かんがえられ)ます。
里見家より拝領した大黒天(原岡5)
戦国大名(せんごくだいみょう)里見義弘(さとみよしひろ)の正室(せいしつ)青岳尼(しょうがくに)の供養塔(くようとう)が海恵山興禅寺(かいけいざんこうぜんじ)にあります。
弘治二年(こうじにねん)(一五五六)義弘(よしひろ)は宿敵北条氏(しゅくてきほうじょうし)を懲らしめる(こらしめる)ため、三浦(みら)の城ヶ島(じょうがしま)を攻略(こうりゃく)し、勢い(いきおい)に乗じて(じょうじて)鎌倉(かまくら)まで攻め入り(せめいり)ましたが、そのとき、鎌倉円覚寺系(かまくらえんがくじけい)の尼寺大平寺(あまでらたいへいじ)から、若くて(わかくて)美しい(うつくしい)住職(じゅうしょく)青岳尼(しょうがくに)を連れて帰り(つれてかえり)正室(せいしつ)にしました。戦国武将(せんごくぶしょう)の豪快(ごうかい)さがしのばれますが、実(じつ)は義弘(よしひろ)と青岳尼(しょうがくに)は幼なじみ(おさななじみ)の友(とも)だったのです。
青岳尼(しょうがくに)は天文七年(てんぶんしちねん)(一五三八)の第一次市川国府台合戦(だいいちじいちかわこうのだいがっせん)で、北条勢(ほうじょうぜい)に敗れて(やぶれて)戦死(せんし)した小弓御所(おゆみごしょ)(下総浜野(しもうさはまの))足利義明(あしかがよしあき)の遺児(いじ)で、国府台(こうのだい)の敗戦(はいせん)のとき、小弓(おゆみ)から家臣(かしん)に伴われて(ともなわれて)逃れ(のがれ)、一時(いちじ)房州(ぼうしゅう)の里見義堯(さとみよしたか)(義弘(よしひろ)の父(ちち))のもとに、身(み)を寄せた(よせた)ことがあったのです。
青岳尼(しょうがくに)は還俗(げんぞく)して義弘(よしひろ)の正室(せいしつ)になり、御仲(おんなか)はなはだ睦まじく(むつまじく)と言われ(いわれ)ましたが、若くして(わかくして)この世(よ)を去り(さり)ました。
本名(ほんみょう)も、死亡年月日(しぼうねんがっぴ)も不明(ふめい)ですが、法名(ほうみょう)は智光院殿洪獄梵長大姉(ちこういんでんこうがくぼんちょうだいし)といいます。興禅寺(こうぜんじ)は青岳尼(しょうがくに)の菩提寺(ぼだいじ)でした。
戦国ロマンを秘めた青岳尼供養塔(原岡275)
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