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岡本城址(おかもとじょうし)
 里見公園(さとみこうえん)と呼ばれて(よばれて)いる岡本城址(おかもとじょうし)へ、最初(さいしょ)に城(しろ)が築かれた(きずかれた)のは何時(いつ)の頃(ころ)か不明(ふめい)ですが、一般(いっぱん)に岡本城(おかもとじょう)という名称(めいしょう)で語り伝えられる(かたりつたえられる)城(しろ)は、元亀元年(げんきがんねん)(一五七〇)に戦国大名(せんごくだいみょう)の里見義弘(さとみよしひろ)(里見七代(さとみななだい))が、犬猿(けんえん)の仲(なか)だった小田原(おだわら)の北条氏(ほうじょうし)に備える(そなえる)ため、時(とき)の城主(じょうしゅ)であった岡本随縁斉(おかもとずいえんさい)から譲り受けて(ゆずりうけて)修築(しゅうちく)し、元亀三年(げんきさんねん)(一五七二)水軍(すいぐん)の拠点(きょてん)として完成(かんせい)させたものを言い(いい)ます。義弘(よしひろ)は城主(じょうしゅ)として、子(こ)の義頼(よしより)(里見八代(さとみはちだい))を住まわせ(すまわせ)ました。
 標高(ひょうこう)五十(ごじゅう)メートル山頂(さんちょう)の諸所(しょしょ)に平地(へいち)があり、周囲(しゅうい)には天然(てんねん)の岩石(がんせき)を削って(けずって)作った(つくった)外郭(がいかく)や、堀(ほり)、切り通し(きりとおし)が残って(のこって)おり、文字通り(もじどおり)要害(ようがい)の地(ち)と言え(いえ)ます。城主(じょうしゅ)の屋形(やかた)は南面(なんめん)の山腹(さんぷく)にありました。東方(とうほう)の聖山(ひじりやま)には、城主(じょうしゅ)の奥方(おくがた)が常居(じょうきょ)し、天正六(てんしょうろく)〜八(はち)(一五七八〜一五八〇)に起きた(おきた)里見氏(さとみし)の内紛(ないふん)の際(さい)には、義頼(よしより)によって弟(おとうと)の梅王丸(うめおうまる)が幽閉(ゆうへい)されました。
 聖山(ひじりやま)の北東(ほくとう)の山腹(さんぷく)には、桝ヶ池(ますがいけ)という十(じゅう)メートル四方(しほう)の岩(いわ)を掘った(ほった)池(いけ)があります。どんな干天(かんてん)にも涸れる(かれる)ことはないので、城(しろ)の有事(ゆうじ)の飲料水(いんりょうすい)に利用(りよう)したものと考えられ(かんがえられ)ます。
 岡本城(おかもとじょう)が里見(さとみ)の居城(きょじょう)としての幕(まく)を閉じた(とじた)のは、義頼(よしより)の子(こ)義康(よしやす)(里見九代(さとみきゅうだい))のときでした。義康(よしやす)は、安房上総(あわかずさ)を領する(りょうする)里見(さとみ)の居城(きょじょう)としては手狭(てぜま)であると考え(かんがえ)、館山(たてやま)に新しい(あたらしい)城(しろ)を築く(きずく)と、天正十八年(てんしょうじゅうはちねん)(一五九〇)に移って(うつって)いったのです。里見(さとみ)の岡本城(おかもとじょう)の歴史(れきし)は二十年(にじゅうねん)でした。
 
里見水軍の根拠地として築かれた岡本城址(豊岡・字要害)
 
怪しげに水をたたえる桝ヶ池
 
釈迦寺(しゃかじ)の槙(まき)
 荘厳山釈迦寺(そうごんさんしゃかじ)の墓地(ぼち)に、推定樹齢(すいていじゅれい)九百年(きゅうひゃくねん)から千百年(せんひゃくねん)の槙(まき)の巨木(きょぼく)があります。
 樹高(じゅこう)はおよそ十三(じゅうさん)メートル、樹幹(じゅかん)は目通り(めどおり)四(よん)メートル、根回り(ねまわり)は六(ろく)メートルもあり、樹冠(じゅかん)にも勢い(いきおい)と気品(きひん)があるため、富浦一(とみうらいち)の銘木(めいぼく)との呼び声(よびごえ)があります。この釈迦寺(しゃかじ)の槙(まき)が、人(ひと)の手(て)によって植えられた(うえられた)ものか、自生(じせい)したものか不明(ふめい)ですが、推定通り(すいていどおり)九百年以上(きゅうひゃくねんいじょう)も年輪(ねんりん)を重ねて(かさねて)いるとすれば、今(いま)の富浦町全域(とみうらまちぜんいき)が、達良郷(ただらごう)あるいは多田良荘(たたらしょう)と呼ばれて(よばれて)いた平安時代(へいあんじだい)から、生長(せいちょう)を続けて(つづけて)いたことになります。
 槙(まき)は、気品(きひん)のある美しい(うつくしい)樹形(じゅけい)をしているところから、昭和四十一年(しょうわよんじゅういちねん)(一九六六)、「千葉県(ちばけん)の木(き)」にも指定(してい)されておりますが、関東以南(かんとういなん)に広く(ひろく)天然分布(てんねんぶんぷ)するマキ科(か)の常緑針葉高木(じょうりょくしんようこうぼく)で、和名(わめい)は「イヌマキ」、俗(ぞく)に富浦町(とみうらまち)では「ホソバ」と呼び(よび)ます。
 種子(しゅし)は緑色(みどりいろ)の球形(きゅうけい)で、果托(かたく)は赤紫色(あかむらさきいろ)に熟して(じゅくして)甘く(あまく)、食べられ(たべられ)ますが、槙(まき)には雄(おす)と雌(めす)があり、釈迦寺(しゃかじ)の槙(まき)は雄(おす)ですから実(み)がなりません。材(ざい)は白色(はくしょく)で耐久(たいきゅう)・耐虫性(たいちゅうせい)にすぐれていますので、建築(けんちく)や器具用(きぐよう)に適して(てきして)います。昔(むかし)は、桶類(おけるい)によく利用(りよう)されました。
 
すばらしい樹冠を形成する釈迦寺の槙(多田良699-1)


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