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富浦町(とみうらまち)の指定文化財(していぶんかざい)
多田良の羯鼓獅子の弓くぐりの舞は目にも止まらぬ早業である
〈写真集南房総富浦の四季・鈴木勇太郎氏撮影〉
 
忍足佐内殉難(おしたりさないじゅんなん)の地(ち)
 徳川十代将軍家治(とくがわじゅうだいしょうぐんいえはる)の世(よ)の、明和五年(めいわごねん)から七年(しちねん)(一七六八〜一七七〇)にかけては、大干ばつ(だいかんばつ)で禾穀(かこく)(稲(いね))が稔らず(みのらず)、酒井大和守領内(さかいやまとのかみりょうない)の深名(ふかな)、金尾谷(かなおや)、白坂(しらさか)、小原(こばら)の四ヶ村(よんかそん)は、山田(やまだ)の多い(おおい)土地柄(とちがら)で特(とく)に被害(ひがい)が大きく(おおきく)、しかも悪政(あくせい)による重税(じゅうぜい)のため、村民(そんみん)の苦しみ(くるしみ)は想像(そうぞう)を絶する(ぜっする)ものがありました。
 金尾谷村(かなおやむら)(今(いま)の福澤(ふくざわ))の名主(なぬし)・忍足佐内(おしたりさない)は、三村(さんそん)の名主(なぬし)と共(とも)に勝山陣屋(かつやまじんや)に村民(そんみん)の疲弊(ひへい)の惨状(さんじょう)を訴え(うったえ)、減租(げんそ)を嘆願(たんがん)しましたが、藩政(はんせい)を委されて(まかされて)いた御国奉行(おくにぶぎょう)の稲葉重佐衛門(いなばじゅうざえもん)と代官(だいかん)・藤田嘉内(ふじたかない)は応じ(おうじ)ませんでした。
 そのため、村民代表十八名(そんみんだいひょうじゅうはちめい)が大和守(やまとのかみ)の江戸屋敷(えどやしき)へ門訴(もんそ)を企て(くわだて)出発(しゅっぱつ)しましたが、佐内(さない)は一行(いっこう)に追付き(おいつき)、直訴(じきそ)は法(ほう)の禁ずる(きんずる)とこであると村民(そんみん)の軽率(けいそつ)を戒め(いましめ)、自ら(みずから)が江戸屋敷(えどやしき)に赴き(おもむき)、村民(そんみん)の窮状(きゅうじょう)と奉行代官(ぶぎょうだいかん)の不正横暴(ふせいおうぼう)を訴えた(うったえた)のです。
 稲葉重佐衛門(いなばじゅうざえもん)と藤田嘉内(ふじたかない)は佐内(さない)の越訴(おっそ)を憎み(にくみ)、悪政(あくせい)の露見(ろけん)することを恐れ(おそれ)、帰村(きそん)した佐内(さない)を捕える(とらえる)と勝山(かつやま)の獄(ごく)に投じ(とうじ)、藩主(はんしゅ)の命(めい)と偽り(いつわり)、明和八年(めいわはちねん)(一七七一)十一月二十九日(じゅういちがつにじゅうくにち)、四方引き回し(しほうひきまわし)の上(うえ)、白塚川原(しらつかがわら)で処刑(しょけい)しました。
 時(とき)に佐内(さない)は四十四歳(よんじゅうよんさい)でした。
 
義民忍足佐内の碑
 
忍足佐内処刑地跡の地蔵(福澤字・白塚39-1)
 
木造薬師如来立像(もくぞうやくしにょらいりつぞう)
 養老元年(ようろうがんねん)(七一七)の開基(かいき)といわれる医王山常光寺(いおうさんじょうこうじ)の、薬師堂(やくしどう)に祀られて(まつられて)いる木造薬師如来立像(もくぞうやくしにょらいりつぞう)は、藤原時代(ふじわらじだい)(平安後期(へいあんこうき))の作(さく)と言われ(いわれ)町内最古(ちょうないさいこ)のものです。
 像(ぞう)の高さ(たかさ)は四十五(よんじゅうご).八(はち)センチ、材質(ざいしつ)はカツラ。肉身(にくしん)は漆箔(しっぽく)(うるしに金箔(きんぱく)を付けた(つけた))で仕上げた(しあげた)一本造り(いっぽんづくり)です。
 内(うち)ぐりはなく、右肩(みぎかた)をおおう偏衫(へんさん)(左(ひだり)まえに着る(きる)僧衣(そうい))と左肩(ひだりかた)をおおう納衣(のうい)を付け(つけ)、両足(りょうあし)をそろえて立ち(たち)、左手(ひだりて)をゆるく曲げ(まげ)、垂下(すいか)した掌(たなごころ)に薬壷(やくつぼ)を載せ(のせ)、右手(みぎて)は肘(ひじ)を曲げ(まげ)、掌(たなごころ)を前(まえ)に立て(たて)五指(ごし)を伸して(のばして)います。
 像(ぞう)には藤原時代(ふじわらじだい)のおだやかさがよく出て(でて)いますが、作者(さくしゃ)については不明(ふめい)です。しかし、表現(ひょうげん)や材質(ざいしつ)から考え(かんがえ)ますと、この地(ち)の作(さく)と推定(すいてい)されます。
 薬師如来(やくしにょらい)は、くわしくは薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)といい、病(やまい)や災い(わざわい)、苦難(くなん)を除き(のぞき)人間(にんげん)の寿命(じゅみょう)を伸ばす(のばす)仏(ほとけ)と言われる(いわれる)ため、常光寺(じょうこうじ)の薬師如来(やくしにょらい)も、古来(こらい)より民衆(みんしゅう)に信仰(しんこう)されており、寅年大開帳(とらどしだいかいちょう)には多く(おおく)の巡礼者(じゅんれいしゃ)で賑わい(にぎわい)ます。
 
富浦町最古の薬師如来像(深名434)
 
里見義頼(さとみよしより)の墓(はか)
 金竜山光厳寺(こんりゅうさんこうごんじ)の墓地(ぼち)に、岡本城主里見義頼(おかもとじょうしゅさとみよしより)の眠る(ねむる)墓塔(ぼとう)(宝筴印塔(ほうきょいんとう))があります。墓塔(ぼとう)は室町時代末期(むろまちじだいまっき)の特徴(とくちょう)をよく現して(あらわして)おり、歴史的(れきしてき)にも、文化財的(ぶんかざいてき)にも一級(いっきゅう)のものです。
 義頼(よしより)は、戦国大名(せんごくだいみょう)里見七代義弘(さとみななだいよしひろ)の子(こ)(弟(おとうと)であるとも)として生まれ(うまれ)、長ずる(ちょうずる)に及んで(およんで)里見水軍(さとみすいぐん)の根拠地(こんきょち)、岡本城(おかもとじょう)を守って(まもって)いましたが、父義弘(ちちよしひろ)の死後(しご)に起きた(おきた)、天正六(てんしょうろく)〜八年(はちねん)(一五七八〜一五八〇)の、里見家相続争い(さとみけそうぞくあらそい)の内紛(ないふん)に勝利(しょうり)すると、領国(りょうごく)すべてを手中(しゅちゅう)にし里見八代目(さとみはちだいめ)を継ぎ(つぎ)ました。
 義頼(よしより)は、岡本城(おかもとじょう)を里見(さとみ)の居城(きょじょう)と定め(さだめ)、南総(なんそう)に武威(ぶい)を振い(ふるい)ましたが、天正十五年(てんしょうじゅうごねん)(一五八七)十月二十六日(じゅうがつにじゅうろくにち)に、四十歳(よんじゅっさい)で病死(びょうし)しました。
 法名(ほうみょう)を、大勢院殿勝岩泰英大居士(たいせいいんでんしょうがんたいえいだいこじ)といいます。
 
里見八代義頼の墓(青木232-1)


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