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富浦の昔ばなし 第二集

 事業名 <郷土学>富浦に伝わる民話集の編纂と地域再発見
 団体名 NPO富浦エコミューゼ研究会 注目度注目度5


里見領富浦の石高(さとみりょうとみうらのこくだか)
 
 慶長十一年(けいちょうじゅういちねん)(一六〇六)の『里見分限帳(さとみぶげんちょう)』に記載(きさい)されている、富浦地区(とみうらちく)の村々(むらむら)の石高(こくだか)です。坂之下(さかのした)・汐入(しおいり)・丹生(にゅう)の村(むら)の石高記載(こくだかきさい)はありませんが、当時(とうじ)は、坂之下(さかのした)・汐入(しおいり)は岡本村(おかもとむら)と、丹生(にゅう)は手取村(てどりむら)と一緒(いっしょ)だったと思われ(おもわれ)ます。神野谷村(かのやむら)とは、金尾谷(かなおや)(現在(げんざい)の福澤(ふくざわ))のことです。富浦全地域(とみうらぜんちいき)の総石高(そうこくだか)は、三千五百十六石二斗三升一合(さんぜんごひゃくじゅうろくこくにとさんしょういちごう)でした。その石高(こくだか)を、里見氏(さとみし)は家臣(かしん)や社寺(しゃじ)に振り分けて(ふりわけて)与えた(あたえた)のです。
 石高(こくだか)の多い(おおい)深名村(ふかなむら)と、原村(はらむら)の例(れい)を上げて(あげて)みました。
深名村総石高(ふかなむらそうこくだか) 六百三十四石七斗四升四合(ろっぴゃくさんじゅうよんこくななとよんしょうよんごう)
百三十石(ひゃくさんじゅうこく) 印東六右衛門(いんどうろくうえもん)(中小姓頭(ちゅうこしょうかしら))
百石(ひゃっこく) 馬乳久右衛門(ばぢちきゅううえもん)(馬乗り(うまのり)八人預り(はちにんあずかり)組頭(くみがしら)二十人衆(にじゅうにんしゅう))
百石(ひゃっこく) 黒川彦四郎(くろかわひこしろう)(使番十人衆(つかいばんじゅうにんしゅう))
百石(ひゃっこく) 粕屋源三郎(かすやげんざぶろう)(台所奉行併代官頭(だいどころぶぎょうあわせだいかんかしら))
五十石(ごじゅっこく) 本間弥次郎(ほんまやじろう)(足軽小頭(あしがるこがしら))
五十石(ごじゅっこく) 長南内記(ちょうなんないき)(祐筆(ゆうひつ))
三十石(さんじゅっこく) 本間式部(ほんましきぶ)(百人衆(ひゃくにんしゅう))
十三石(じゅうさんこく) 宅間監物(たくまけんもつ)(二十人衆頭(にじゅうにんしゅうがしら))
六石(ろっこく) 常光寺分(じょうこうじぶん)
三石(さんこく) 長泉寺分(ちょうせんじぶん)
二石七斗四升四合(にこくななとよんしょうよんごう) 常禅寺分(じょうぜんじぶん)
原村総石高(はらむらそうこくだか) 四百六十三石八斗二升一合(よんひゃくろくじゅうさんこくはっとにしょういちごう)
五十六石五斗五升(ごじゅうろっこくごとごしょう) 興禅寺屋敷(こうぜんじやしき)
二十二石(にじゅうにこく) 光厳寺領(こうごんじりょう)
二十石(にじゅっこく) 正善院領(しょうぜんいんりょう)
一石八斗(いっこくはっと) 法花寺屋敷(ほっけじやしき)
一石九升二合(いっこくきゅうしょうにごう) 長泉寺屋敷(ちょうせんじやしき)
残り(のこり)三百六十二石三斗七升九合(さんびゃくろくじゅうにこくさんとななしょうきゅうごう) 蔵入り(くらいり)
 
里見氏関係(さとみしかんけい)の社寺(しゃじ)
 富浦(とみうら)には、里見家当主(さとみけとうしゅ)の居城(きょじょう)となった宮本城(みやもとじょう)や岡本城(おかもとじょう)が存在(そんざい)しましたので、その武運(ぶうん)を祈願(きがん)するため、また、家臣(かしん)の人心(じんしん)を安定(あんてい)するため、多く(おおく)の社寺(しゃじ)が保護(ほご)されていました。それらの社寺(しゃじ)の名(な)が、慶長十一年(けいちょうじゅういちねん)(一六〇六)の『里見分限帳(さとみぶげんちょう)』などから判り(わかり)ます。
大宮明神(おおみやみょうじん) 現(げん)・大宮八幡宮(おおみやはちまんぐう)。豊岡字宮ノ台(とよおかあざみやのだい)にあります。祭神(さいじん)は誉田別命(ほんだわけのみこと)。創建(そうけん)は元暦元年(げんりゃくがんねん)(一一八四)です。里見氏(さとみし)から、北郡岡本村(きたごおりおかもとむら)の内(うち)で、高五石(たかごこく)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
満蔵寺(まんぞうじ) 豊岡字和田(とよおかあざわだ)にあります。見龍山(けんりゅうさん)と号し(ごうし)、臨済宗円覚寺派(りんざいしゅうえんがくじは)。原岡(はらおか)・興禅寺末(こうぜんじまつ)。本尊(ほんぞん)は釈迦如来(しゃかにょらい)。創建(そうけん)は応永二年(おうえいにねん)(一三九五)です。「滝田(たきだ)の青墓(あおはか)」の岡本頼重(おかもとよりしげ)の過去帳(かこちょう)が残って(のこって)います。里見氏(さとみし)から、北郡岡本村(きたごおりおかもとむら)の内(うち)で、高一石八斗(たかいっこくはっと)の地(ち)が与えられ(あたえられ)ました。
海禅寺(かいぜんじ) 豊岡字谷(とよおかあざやつ)にあります。福浦山(ふくうらさん)と号し(ごうし)、臨済宗円覚寺派(りんざいしゅうえんがくじは)。原岡興禅寺末(はらおかこうぜんじまつ)。本尊(ほんぞん)は釈迦如来(しゃかにょらい)。創建(そうけん)は永徳年間(えいとくねんかん)(一三八一〜一三八三)です。境内(けいだい)に、里見義頼(さとみよしより)の室(しつ)(北条氏政(ほうじょううじまさ)の娘(むすめ))の持仏(じぶつ)を祀った(まつった)観音堂(かんのんどう)があります。里見氏(さとみし)から、北郡岡本村(きたごおりおかもとむら)の内(うち)で、高二石三斗四升(たかにこくさんとよんしょう)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
愛宕社(あたごしゃ) 現(げん)・愛宕神社(あたごじんじゃ)。原岡字古宿(はらおかあざふるじゅく)にあります。祭神(さいじん)は香具土命(かぐつちのみこと)、創建(そうけん)は、元亀三年(げんきさんねん)(一五七二)です。岡本城主里見義頼(おかもとじょうしゅさとみよしより)が、久留里(くるり)・愛宕社(あたごしゃ)から分霊(ぶんれい)を勧請(かんじょう)しました。里見氏(さとみし)から、山下郡真倉村(やましたごおりさなぐらむら)の内(うち)で、高二石(たかにこく)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
正善院(しょうぜんいん) 原岡字古宿(はらおかあざふるじゅく)にあります。愛宕社(あたごしゃ)の別当(べっとう)です。養老山(ようろうさん)と号し(ごうし)、山伏(やまぶし)。本尊(ほんぞん)は白馬(はくば)に跨った(またがった)勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)です。明治以来(めいじいらい)、愛宕神社(あたごじんじゃ)の神官(しんかん)になりました。里見氏(さとみし)から、北郡原村(きたごおりはらむら)の内(うち)で、高二十石(たかにじゅっこく)、北郡正木村(きたごおりまさきむら)の内(うち)で、高三十石(たかさんじゅっこく)、丸郡海発村(まるごおりかいほつむら)の内(うち)で、高一石(たかいっこく)、合計高五十一石(ごうけいたかごじゅういっこく)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
興禅寺(こうぜんじ) 原村字金山(はらむらあざかねやま)にあります。海恵山(かいけいさん)と号し(ごうし)、臨済宗円覚寺派(りんざいしゅうえんがくじは)。鎌倉(かまくら)・円覚寺末(えんがくじまつ)。本尊(ほんぞん)は釈迦如来(しゃかにょらい)。創建(そうけん)は貞和元年(じょうわがんねん)(一三四五)です。境内(けいだい)には、里見義弘(さとみよしひろ)の室(しつ)・青岳尼(しょうがくに)(智光院)(ちこういん)の百回忌(ひゃっかいき)の供養塔(くようとう)があります。里見氏(さとみし)から、北郡原村(きたごおりはらむら)の内(うち)で、高五十六石五斗五升(たかごじゅうろっこくごとごしょう)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
法花寺(ほっけじ) 現(げん)・法華寺(ほっけじ)。原岡字和田(はらおかあざわだ)にあります。妙法山(みょうほうざん)と号し(ごうし)、日蓮宗一致派(にちれんしゅういっちは)。興津(おきつ)・妙覚寺末(みょうがくじまつ)。本尊(ほんぞん)は大曼茶羅(だいまんだら)。創建(そうけん)は寺伝(じでん)によりますと、建長五年(けんちょうごねん)(一二五三)日蓮聖人(にちれんしょうにん)が鎌倉(かまくら)へ渡海(とかい)の砌(みぎり)、便船待ち(びんせんまち)の三日間(みっかかん)説法(せっぽう)した法華塚(ほっけづか)なる地(ち)に建てられて(たてられて)いた、三間四面(さんげんしめん)の堂(どう)を現在(げんざい)の地(ち)に移した(うつした)天正四年(てんしょうよねん)(一五七六)としています。里見義頼(さとみよしより)の奥方(おくがた)が帰依(きえ)し、三十番神(さんじゅうばんしん)の木造(もくぞう)に朱印地(しゅいんち)を付けて(つけて)奉納(ほうのう)しました。里見氏(さとみし)から、北郡原村(きたごおりはらむら)の内(うち)で、高一石八斗(たかいっこくはっと)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
全昌寺(ぜんしょうじ) 原岡字田宿(はらおかあざたじゅく)にあります。宝永山(ほうえいざん)と号し(ごうし)、日蓮宗(にちれんしゅう)。池上(いけがみ)・本門寺末(ほんもんじまつ)。本尊(ほんぞん)は大曼茶羅(だいまんだら)。創建(そうけん)は明応年間(めいおうねんかん)(一四九二〜一五〇〇)です。寺伝(じでん)によりますと、岡本城下(おかもとじょうか)のため、里見家家中(さとみけかちゅう)の供養(くよう)と祈願(きがん)のための寺(てら)であったと言い(いい)ます。
長泉寺(ちょうせんじ) 原岡字沢渕(はらおかあざさわぶち)にあります。深廣山無涯院(しんこうさんむがいいん)と号し(ごうし)、浄土宗(じょうどしゅう)。大網(おおあみ)・大巌院末(だいがんいんまつ)。本尊(ほんぞん)は阿弥陀如来(あみだにょらい)。創建(そうけん)は建暦元年(けんりゃくがんねん)(一二一一)です。毎年一月六日(まいとしいちがつむいか)、里見氏(さとみし)から寄進(きしん)されたという大黒天像(だいこくてんぞう)の開帳(かいちょう)があります。元亀四年(げんきよねん)(一五七三)里見義頼(さとみよしより)の奥方(おくがた)が出した(だした)、大黒天(だいこくてん)の朱印(しゅいん)を捺した(おした)寄進状(きしんじょう)も所蔵(しょぞう)されています。里見氏(さとみし)から、北郡原村(きたごおりはらむら)の内(うち)で長泉寺屋敷分(ちょうせんじやしきぶん)として、高一石九升二合(たかいっこくきゅうしょうにごう)、北郡深名村(きたごおりふかなむら)の内(うち)で高三石(たかさんこく)、合計高四石九升二合(ごうけいたかよんこくきゅうしょうにごう)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
瀧不動(たきふどう) 現在(げんざい)の多田良字野房(たたらあざのぼう)にある瀧淵神社(たきぶちじんじゃ)です。創建(そうけん)は大宝元年(たいほうがんねん)(七〇一)。瀧淵山大宝寺(たきぶちさんたいほうじ)と号して(ごうして)大房(たいぶさ)にあり。本尊(ほんぞん)は不動明王(ふどうみょうおう)でした。伝承(でんしょう)によりますと、房総里見氏(ぼうそうさとみし)の初代(しょだい)・里見義実(さとみよしざね)が、この不動明王(ふどうみょうおう)に武運(ぶうん)の祈願(きがん)をしました。里見氏(さとみし)から、北郡青木村(きたごおりあおきむら)の内(うち)で、高五石(たかごこく)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
釈迦寺(しゃかじ) 多田良字下荒田(たたらあざしもあらた)にあります。荘厳山(そうごんさん)と号し(ごうし)、日蓮宗(にちれんしゅう)。原岡(はらおか)・法華寺末(ほっけじまつ)。本尊(ほんぞん)は日蓮聖人像(にちれんしょうにんぞう)です。寺伝(じでん)によりますと、文禄年間(ぶんろくねんかん)(一五九二〜一五九五)、里見義康(さとみよしやす)の家臣(かしん)・本田孫六(ほんだまごろく)が剃髪(ていはつ)して創建(そうけん)したと言い(いい)ます。
光厳寺(こうごんじ) 青木字面井戸(あおきあざおもていど)にあります。金龍山大勢院(こんりゅうさんたいせいいん)と号し(ごうし)、曹洞宗(そうとうしゅう)。本織(もとおり)・延命寺末(えんめいじまつ)。本尊(ほんぞん)は釈迦如来(しゃかにょらい)。天正二年(てんしょうにねん)(一五七四)岡本城主(おかもとじょうしゅ)・里見義頼(さとみよしより)の菩提寺(ぼだいじ)として創建(そうけん)されました。本堂北側(ほんどうきたがわ)の墓地(ぼち)に、天正十五年(てんしょうじゅうごねん)(一五八七)に没した(ぼっした)義頼(よしより)の墓(はか)(宝篋印塔(ほうきょういんとう))があり、かつては、義頼(よしより)の肖像画(しょうぞうが)もありました。大勢院(たいせいいん)は義頼(よしより)の法号(ほうごう)です。里見氏(さとみし)から、北郡青木村(きたごおりあおきむら)の内(うち)で、高三十八石(たかさんじゅうはっこく)、北郡原村(きたごおりはらむら)の内(うち)で、高二十二石(たかにじゅうにこく)、山下郡南条村(やましたごおりなんじょうむら)の内(うち)で、高十二石六斗八升(たかじゅうにこくろくとはっしょう)、合計高七十一石六斗八升(ごうけいたかななじゅういっこくろくとはっしょう)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
真勝寺(しんしょうじ) 青木字岩峯(あおきあざいわぶ)にあります。岩峰山(いわぶさん)と号し(ごうし)、真言宗智山派(しんごうしゅうちざんは)。府中(ふちゅう)・宝珠院末(ほうしゅいんまつ)。本尊(ほんぞん)は如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)。創建(そうけん)は不詳(ふしょう)です。寺伝(じでん)によりますと、岡本城主(おかもとじょうしゅ)・里見義頼(さとみよしより)の祈願所(きがんじょ)でしたが、永禄年間(えいろくねんかん)(一五五八〜一五六九)に、本間弾正(ほんまだんじょう)の兵火(へいか)にかかり焼け(やけ)ました。
八坂神社(やさかじんじゃ) 深名字森台(ふかなあざもりだい)にあります。祭神(さいじん)は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。白鳳二年(はくほうにねん)(六七三)に修験者(しゅげんじゃ)・仙寿院(せんじゅいん)の祈祷所(きとうしょ)として創建(そうけん)され、江戸時代(えどじだい)まで牛頭天王(ごずてんのう)と称して(しょうして)いました。社伝(しゃでん)によりますと、元亀二年(げんきにねん)(一五七一)に、里見義頼(さとみよしより)が再建(さいけん)しました。
常光寺(じょうこうじ) 深名字仲尾川(ふかなあざなかおがわ)にあります。医王山(いおうさん)と号し(ごうし)、真言宗智山派(しんごんしゅうちざんは)。府中(ふちゅう)・宝珠院末(ほうしゅいんまつ)。本尊(ほんぞん)は薬師如来(やくしにょらい)。創建(そうけん)は養老年間(ようろうねんかん)(七一七〜七二三)です。当地(とうち)の武士(ぶし)、黒川大学助(くろかわだいがくのすけ)などの名(な)がある。永禄五年(えいろくごねん)(一五六二)の薬師堂建立(やくしどうこんりゅう)の棟札(むなふだ)が残って(のこって)います。里見氏(さとみし)から、北郡深名村(きたごおりふかなむら)の内(うち)で、高六石(たかろっこく)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
常禅寺(じょうぜんじ) 深名字丹関(ふかなあざたんぜき)にあります。東方山(とうほうざん)と号し(ごうし)、臨済宗円覚寺派(りんざいしゅうえんがくじは)。原岡(はらおか)・興禅寺末(こうぜんじまつ)。本尊(ほんぞん)は釈迦如来(しゃかにょらい)。創建(そうけん)は正平年間(しょうへいねんかん)(一三四六〜一三六九)です。里見氏(さとみし)から、北郡深名村(きたごおりふかなむら)の内(うち)で、高二石七斗四升四合(たかにこくななとよんしょうよんごう)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。
諏訪明神(すわみょうじん) 現(げん)・諏訪神社(すわじんじゃ)です。大津字大庭(おおつあざおおにわ)にありましたが、現在(げんざい)は大津字坂本(おおつあざさかもと)の熊野神社(くまのじんじゃ)の境内(けいだい)に遷座(せんざ)されています。創建(そうけん)は不詳(ふしょう)です。祀られて(まつられて)いる神像(しんぞう)は、白象(はくぞう)に乗った(のった)普賢菩薩(ふけんぼさつ)です。伝承(でんしょう)では昔(むかし)の神像(しんぞう)は、左右(さゆう)の目(め)の大きさ(おおきさ)が異なって(ことなって)いたと言い(いい)ます。『里見分限帳(さとみぶげんちょう)』には、「諏訪免(すわめん)」と記載(きさい)され、北郡大津村(きたごおりおおつむら)の内(うち)で、高四石八斗(たかよんこくはっと)の地(ち)を与えられ(あたえられ)ました。


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