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岡本城跡(おかもとじょうせき)
 豊岡(とよおか)に、元亀元年(げんきがんねん)(一五七〇)、戦国大名(せんごくだいみょう)里見義弘(さとみよしひろ)の築いた(きずいた)、岡本城跡(おかもとじょうせき)があります。現在(げんざい)、里見公園(さとみこうえん)と呼ばれる(よばれる)山頂広場(さんちょうひろば)が中心的郭(ちゅうしんてきかく)です。ここからは、昭和六十年(しょうわろくじゅうねん)(一九八五)に行われた(おこなわれた)発掘調査(はっくつちょうさ)で、高層(こうそう)の建物(たてもの)と想定(そうてい)される岩盤(がんばん)を掘り込んだ(ほりこんだ)柱穴(ちゅうけつ)が出(で)ました。
 城主(じょうしゅ)だった里見義頼(さとみよしより)は、父(ちち)・里見義弘(さとみよしひろ)の没した(ぼっした)天正六年(てんしょうろくねん)(一五七八)の後(のち)、弟(おとうと)・梅王丸(うめおうまる)との相続争い(そうぞくあらそい)で勝利(しょうり)し、この岡本城(おかもとじょう)を里見家(さとみけ)の当主(とうしゅ)の居城(きょじょう)としました。岡本城(おかもとじょう)は、湊(みなと)としての機能(きのう)する小湾(しょうわん)を用害地区(ようがいちく)に持つ(もつ)、典型的(てんけいてき)な海城(うみじろ)です。
 主格(しゅかく)の北東先端(ほくとうせんたん)は物見台状(ものみだいじょう)となっており、東京湾(とうきょうわん)や城下(じょうか)の湊(みなと)を一望(いちぼう)できます。遺構(いこう)は大規模(だいきぼ)な堀切(ほりきり)によって、それぞれの郭(くるわ)に分かれて(わかれて)います。聖山(ひじりやま)の枡ヶ池(ますがいけ)と呼ばれる(よばれる)岩盤(がんばん)を掘り込んだ(ほりこんだ)水堀(みずぼり)は、全国的(ぜんこくてき)にも類例(るいれい)のない珍しい(めずらしい)施設(しせつ)で、井戸(いど)を兼ねた(かねた)ものと推定(すいてい)されます。
 城主義頼(じょうしゅよしより)の館(やかた)は、主郭南方(しゅかくなんぽう)の山腹(さんぷく)(現在(げんざい)の東京学芸大学付属(とうきょうがくげいだいがくふぞく)・大泉学園寮(おおいずみがくえんりょう)の附近(ふきん))にある方形(ほうけい)の地(ち)で、城主(じょうしゅ)の奥方(おくがた)の館(やかた)は、聖山山頂(ひじりやまさんちょう)にありました。
 なお、この岡本城(おかもとじょう)は、宮本城(みやもとじょう)の主郭(しゅかく)から望む(のぞむ)ことが可能(かのう)ですので、天正期(てんしょうき)(一五七三〜一五九一)まで、両城(りょうじょう)は有機的(ゆうきてき)な関係(かんけい)があったと考えられ(かんがえられ)ます。
 
里見氏城郭(さとみしじょうかく)の特徴(とくちょう)
○当主(とうしゅ)が代々(だいだい)、居城(きょじょう)を替える(かえる)
 白浜城(しらはまじょう)―稲村城(いなむらじょう)―滝田城(たきたじょう)―宮本城(みやもとじょう)―久留里城(くるりじょう)―佐貫城(さぬきじょう)―岡本城(おかもとじょう)―館山城(たてやまじょう)。これは、時代(じだい)ごとに里見氏(さとみし)の置かれて(おかれて)いた政治状況(せいじじょうきょう)を反映(はんえい)しており、これらの城(しろ)の地理的(ちりてき)・経済的条件(けいざいてきじょうけん)などを研究(けんきゅう)しますと、その時々(ときどき)の里見氏(さとみし)の権力構造(けんりょくこうぞう)を知る(しる)ことができます。
○海城(うみしろ)(湊城(みなとじょう))が多い(おおい)
 里見氏(さとみし)の特質(とくしつ)は、海(うみ)を支配(しはい)する領主(りょうしゅ)であったことですが、それを裏付ける(うらづける)かのように、海(うみ)に面した(めんした)城(しろ)が多い(おおい)のです。内房(うちぼう)では、百首城(ひゃくしゅじょう)・金谷城(かなやじょう)・妙本寺要害(みょうほんじようがい)・勝山城(かつやまじょう)・岡本城(おかもとじょう)・館山城(たてやまじょう)。外房(そとぼう)では勝浦城(かつうらじょう)・吉尾城(よしおじょう)・葛ヶ崎城(くずがさきじょう)・磯村陣屋(いそむらじんや)・白浜城(しらはまじょう)が上げられ(あげられ)ます。
○城(しろ)の部分(ぶぶん)の名称(めいしょう)
 里見氏(さとみし)が活躍(かつやく)した戦国時代(せんごくじだい)の、城(しろ)を構成(こうせい)するそれぞれの部分(ぶぶん)には、どのような名称(めいしょう)が付いて(ついて)いたのでしょうか、当時(とうじ)のことは不明(ふめい)ですので、現代(げんだい)の研究者(けんきゅうしゃ)が使って(つかって)いる名称(めいしょう)で説明(せつめい)します。
「大手(おおて)」城(しろ)の表門(おもてもん)です。宮本城(みやもとじょう)は、現在(げんざい)の宮本(みやもと)・仲尾沢(なかおざわ)から入る(はいる)道(みち)を言い(いい)、岡本城(おかもとじょう)は、当時(とうじ)のままの姿(すがた)で残って(のこって)いませんが、旧富浦町役場(きゅうとみうらまちやくば)の裏(うら)より入り(はいり)ました。
「郭(くるわ)」居城(きょじょう)や他(ほか)の目的(もくてき)のため、自然地形(しぜんちけい)を生かし(いかし)、人工的(じんこうてき)に平ら(たいら)にした空間(くうかん)。近代(きんだい)の本丸(ほんまる)に当る(あたる)中心(ちゅうしん)の郭(かく)を主郭(しゅかく)、または本曲輪(ほんぐるわ)と呼び(よび)ます。宮本城(みやもとじょう)には「袈裟丸(けさまる)」、岡本城(おかもとじょう)には「中の丸(なかのまる)」と呼ばれる(よばれる)郭(くるわ)もあります。
「腰曲輪(こしぐるわ)」丘陵(きゅうりょう)や台地(だいち)の法面(のりめん)を削って(けずって)、主郭(しゅかく)より下方(かほう)に設けた(もうけた)細長い(ほそながい)空間(くうかん)。人体(じんたい)でいうと腰(こし)の部分(ぶぶん)に当る(あたる)ため、そう呼ばれて(よばれて)いますが、緩斜面(かんしゃめん)を急(きゅう)にして、登って(のぼって)くる敵(てき)をこの空間(くうかん)で防ぎ(ふせぎ)ます。宮本城(みやもとじょう)に、大規模(だいきぼ)なものがあります。
「虎口(こぐち)」郭(くるわ)や城内(じょうない)への出入口(でいりぐち)で、木戸(きど)が設けられて(もうけられて)いました。防禦(ぼうぎょ)のための重要(じゅうよう)な場所(ばしょ)です。戦国後期(せんごくこうき)には、その虎口(こぐち)を折り曲げたり(おりまげたり)、枡形(ますがた)の小空間(しょうくうかん)を組み合わせて(くみあわせて)複雑(ふくざつ)にしました。
「櫓台(やぐらだい)」物見(ものみ)や、虎口(こぐち)の防禦(ぼうぎょ)のため、土塁(どるい)や郭(くるわ)の角(かど)や隅(すみ)などに設けた(もうけた)方形(ほうけい)の高層(こうそう)の櫓(やぐら)を言い(いい)ます。
「堀切(ほりきり)」敵(てき)の侵入(しんにゅう)を防ぐ(ふせぐ)ため、城内(じょうない)へ続く(つづく)、尾根(おね)を急角度(きゅうかくど)に大きく(おおきく)断ち切って(たちきって)遮断(しゃだん)したものです。宮本城(みやもとじょう)・岡本城(おかもとじょう)にもあります。
「竪掘(たてぼり)」斜面(しゃめん)に、長く(ながく)堀(ほり)を掘り下ろした(ほりおろした)ものです。堀切(ほりきり)と組み合せ(くみあわせ)、敵(てき)の尾根筋(おねすじ)の移動(いどう)を遮断(しゃだん)しました。宮本城(みやもとじょう)のものは、その典型(てんけい)です。
「切岸(きりぎし)」敵(てき)の取り付き(とりつき)や、降下(こうか)を防ぐ(ふせぐ)ため城郭(じょうかく)の斜面(しゃめん)を垂直(すいちょく)に削り立てた(けずりたてた)場所(ばしょ)を言い(いい)ます。上総南部(かずさなんぶ)や安房(あわ)の海岸沿い(かいがんぞい)は、地質的(ちしつてき)に切岸(きりぎし)を容易(ようい)に造成(ぞうせい)できますので多用(たよう)されました。宮本城(みやもとじょう)・岡本城(おかもとじょう)にもあります。
「土橋(どばし)」堀(ほり)を掘った(ほった)時(とき)に、削り残した(けずりのこした)地面(じめん)が橋(はし)のようになったものです。人(ひと)が一人(ひとり)通れる(とおれる)くらいの狭い(せまい)もので、敵(てき)が攻めて(せめて)来ても(きても)、一度(いちど)に多勢(おおぜい)で渡る(わたる)ことはできません。宮本城(みやもとじょう)・岡本城(おかもとじょう)とも、一ヶ所(いっかしょ)ずつあります。
 
里見分限帳(さとみぶげんちょう)
 『里見分限帳(さとみぶげんちょう)』とは、近世初期(きんせいしょき)の房総里見氏領国(ぼうそうさとみしりょうごく)、安房国内(あわこくない)の知行者(ちぎょうしゃ)とその郷名(ごうめい)、更(さら)に石高(こくだか)が記された(しるされた)帳簿(ちょうぼ)です。富浦(とみうら)にも、その写し(うつし)が存在(そんざい)しますが、慶長十一年(けいちょうじゅういちねん)(一六〇六)と十五年(じゅうごねん)(一六一〇)のものがあり、当時(とうじ)の里見家臣団(さとみかしんだん)の全体(ぜんたい)の様子(ようす)を知る(しる)事(こと)ができます。
 家臣(かしん)の構成(こうせい)を見(み)ますと、「御一門(ごいちもん)」と呼ばれる(よばれる)里見忠義一族(さとみただよしいちぞく)と、里見家直属(さとみけちょくぞく)の家臣(かしん)とに別れて(わかれて)います。直属(ちょくぞく)の家臣団(かしんだん)は、戦時(せんじ)に対応(たいおう)した軍団(ぐんだん)としての編成(へんせい)で記載(きさい)され、重役(じゅうやく)として四人(よにん)の家老(かろう)がおり、更(さら)に忠義(ただよし)の親衛隊(しんえいたい)を組織(そしき)する番頭(ばんがしら)と呼ばれる(よばれる)上級家臣(じょうきゅうかしん)が二十六人(にじゅうろくにん)います。番頭(ばんがしら)のうち民政(みんせい)に当たる(あたる)奉行(ぶぎょう)が六人(ろくにん)、忠義(ただよし)の身辺警護(しんぺんけいご)に当たる(あたる)徒歩(かち)や小姓(こしょう)、側近(そっきん)である祐筆(ゆうひつ)などの統率(とうそつ)に当たる(あたる)頭衆(かしらしゅう)が八人(はちにん)、実戦部隊(じっせんぶたい)を指揮(しき)する番頭(ばんがしら)として十人衆之頭(じゅうにんしゅうのかしら)・二十人衆之頭(にじゅうにんしゅうのかしら)・百人衆之頭(ひゃくにんしゅうのかしら)・足軽大頭(あしがるおおがしら)・船手頭(ふなてがしら)が十二人(じゅうににん)という内訳(うちわけ)になっています。
 更(さら)に、番頭(ばんがしら)に統括(とうかつ)される実戦部隊(じっせんぶたい)には、騎兵八人(きへいはちにん)から十人(じゅうにん)ずつの隊(たい)を指揮(しき)する二十人衆(にじゅうにんしゅう)と、足軽十人(あしがるじゅうにん)の隊(たい)を指揮(しき)する足軽小頭(あしがるこがしら)が三十人(さんじゅうにん)の計五十人(けいごじゅうにん)からなる組頭衆(くみがしらしゅう)、百人(ひゃくにん)で一編成(いちへんせい)の隊(たい)を組む(くむ)百人衆(ひゃくにんしゅう)、水軍(すいぐん)を担う(になう)船手(ふなて)を統率(とうそつ)する船手小頭五人(ふなてこがしらごにん)がいます。
 戦場(せんじょう)での伝令(でんれい)や、敵方(てきがた)への使者(ししゃ)、戦功(せんこう)の観察(かんさつ)などを役目(やくめ)とする使番十人衆(つかいばんじゅうにんしゅう)、偵察(ていさつ)や戦功調査(せんこうちょうさ)を指揮(しき)する大目付(おおめつけ)、忠義(ただよし)への取次ぎ(とりつぎ)をする奏者(そうしゃ)、といった戦場(せんじょう)での個別(こべつ)の役割(やくわり)をもった役人衆(やくにんしゅう)が十五人(じゅうごにん)、という編成(へんせい)になっています。
 里見家(さとみけ)の所領(しょりょう)は、安房国(あわのくに)が九万石(きゅうまんごく)・鹿島郡(かしまごおり)三万石(さんまんごく)で、合計(ごうけい)十二万石(じゅうにまんごく)ありましたが、里見家一門衆(さとみけいちもんしゅう)や、家臣(かしん)に与え(あたえた)た知行地(ちぎょうち)は五万三千石(ごまんさんぜんごく)あまりで、外(ほか)に社寺領(しゃじりょう)を引き(ひき)、残り(のこり)六万五千三百石余り(ろくまんごせんさんびゃくこくあまり)が里見家(さとみけ)の蔵(くら)へ入る(はいる)分(ぶん)でした。
 しかし、その中(なか)から知行地(ちぎょうち)でなく、給米(きゅうまい)として渡される(わたされる)家臣(かしん)がおり、足軽(あしがる)・中間(ちゅうげん)の分(ぶん)まで含める(ふくめる)と二万俵余り(にまんびょうあまり)でしたので、実質(じっしつ)里見家(さとみけ)へは、四万五千三百石(よんまんごせんさんびゃくこく)が収まった(おさまった)ようです。
 分限帳(ぶげんちょう)の中(なか)にある里見家臣団(さとみかしんだん)の苗字(みょうじ)に、安西(あんざい)・石井(いしい)・岩崎(いわさき)・岡本(おかもと)・小倉(おぐら)・忍足(おしたり)・加藤(かとう)・川名(かわな)・君塚(きみづか)・近藤(こんどう)・佐久間(さくま)・佐藤(さとう)・白井(しらい)・高梨(たかなし)・武田(たけだ)・角田(つのだ)・中野(なかの)・中村(なかむら)・長谷川(はせがわ)・羽山(はやま)・福原(ふくはら)・藤平(ふじひら)・堀内(ほりうち)・本間(ほんま)・正木(まさき)・三浦(みうら)・宮本(みやもと)・森川(もりかわ)・山田(やまだ)・山本(やまもと)・吉田(よしだ)・渡辺(わたなべ)・和田(わだ)などが見え(みえ)ます。
 今(いま)の富浦(とみうら)には、里見氏(さとみし)の築いた(きずいた)岡本城(おかもとじょう)や宮本城(みやもとじょう)が戦国時代(せんごくじだい)に存在(そんざい)した関係(かんけい)から、同じ(おなじ)苗字(みょうじ)を持つ(もつ)家(いえ)が多く(おおく)あります。きっと何(なに)か、繋がり(つながり)があるに違い(ちがい)ありません。


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