里見水軍(さとみすいぐん)
里見水軍(さとみすいぐん)とは、里見氏配下(さとみしはいか)にあった水上勢力(すいじょうせいりょく)の総称(そうしょう)です。ただし当時(とうじ)は水軍(すいぐん)などと呼ばず(よばず)、相模(さがみ)や武蔵(むさし)に暮らす(くらす)人(ひと)たちや、敵対(てきたい)した北条氏(ほうじょうし)からは「房州海賊(ぼうしゅうかいぞく)」と呼ばれ(よばれ)、『里見分限帳(さとみぶげんちょう)』では、水軍(すいぐん)の事(こと)を「船手(ふなて)」と称して(しょうして)います。
古来(こらい)、安房国(あわのくに)は立地条件(りっちじょうけん)からみて、現在(げんざい)の東京湾(とうきょうわん)に於ける(おける)さまざまな権限(けんげん)を持って(もって)いたと考えられ(かんがえられ)ます。それは、東京湾(とうきょうわん)が単なる(たんなる)漁場(ぎょじょう)だけでなく、東国(とうごく)の流通(りゅうつう)を支える(ささえる)大動脈(だいどうみゃく)であったからです。東京湾岸(とうきょうわんがん)に住む(すむ)漁夫(ぎょふ)たちは国衙(こくが)の力(ちから)を背景(はいけい)にして、集団(しゅうだん)を形成(けいせい)し、漁業(ぎょぎょう)や海上輸送(かいじょうゆそう)などに従事(じゅうじ)しながら、一旦(いったん)、無許可(むきょか)で通行(つうこう)されるなど、自ら(みずから)領域(りょういき)を侵犯(しんぱん)された場合(ばあい)は、ただらに成敗(せいばい)する権限(けんげん)を持って(もって)いたのですが、戦国時代(せんごくじだい)になりますと、房総(ぼうそう)の支配(しはい)を強めた(つよめた)里見氏(さとみし)が、その権限(けんげん)を持つ(もつ)漁夫(ぎょふ)たちを統制(とうせい)するようになったのです。
ところが、戦国時代(せんごくじだい)には水軍(すいぐん)(海賊(かいぞく))は自ら(みずから)が支配(しはい)する海域(かいいき)を護る(まもる)だけでなく、他国(たこく)の領海(りょうかい)に侵攻(しんこう)し、略奪(りゃくだつ)をほしいままにする侵略者(しんりゃくしゃ)にもなっていたのです。里見氏(さとみし)の水軍(すいぐん)は、対岸(たいがん)の三浦(みうら)の村々(むらむら)や、東京湾(とうきょうわん)を航行(こうこう)する商船(しょうせん)を襲い(おそい)、反対(はんたい)に北条氏(ほうじょうし)の水軍(すいぐん)も、安房(あわ)・上総(かずさ)の海岸(かいがん)に押しかけ(おしかけ)、同様(どうよう)の事(こと)をおこなったのです。
里見氏(さとみし)の代表的(だいひょうてき)な水軍(すいぐん)の根拠地(こんきょち)は、百首(ひゃくしゅ)・金谷(かなや)・勝山(かつやま)・岡本(おかもと)の城(しろ)でしたが、特(とく)に湊(みなと)を持つ(もつ)岡本城(おかもとじょう)は、里見氏当主(さとみしとうしゅ)の居城(きょじょう)でもありました。
戦国時代(せんごくじだい)、房総里見氏(ぼうそうさとみし)の城下町岡本(じょうかまちおかもと)が栄えて(さかえて)いた頃(ころ)の里謡(りよう)です。
元亀元年(げんきがんねん)(一五七〇)里見氏(さとみし)は小田原(おだわら)の北条氏(ほうじょうし)に対抗(たいこう)するため、岡本(おかもと)に堅固(けんご)な城郭(じょうかく)を築き(きずき)ますと、城下(じょうか)の町(まち)づくりにも力(ちから)を注ぎ(そそぎ)ました。今(いま)の岡本地区(おかもとちく)の国道(こくどう)(百二十七号線(ひゃくにじゅうななごうせん))部分(ぶぶん)に軍馬(ぐんば)を養う(やしなう)大きな(おおきな)馬場(ばば)を設け(もうけ)ますと、その西方(にしかた)の海岸沿い(かいがんぞい)に、外敵(がいてき)が攻め入った(せめいった)時(とき)、有利(ゆうり)に防戦(ぼうせん)のできる角(かど)や行き止まり(いきどまり)の多い(おおい)五の字形(ごのじがた)(碁盤(ごばん)の目(め)のようでもある)の道路(どうろ)の町並み(まちなみ)を作った(つくった)のです。そこには、いざの時(とき)、海賊(かいぞく)(水軍(すいぐん))となる漁民(ぎょみん)を大勢(おおぜい)住まわせ(すまわせ)ました。
城番(しろばん)の侍(さむらい)たちが住む(すむ)城(しろ)の下(した)(坂(さか)の下(した))と岡本(おかもと)の町(まち)の間(あいだ)には、交易船(こうえきせん)の商人(しょうにん)たちの寄る(よる)宿場(しゅくば)(今(いま)の豊岡(とよおか)・新宿(にいじゅく))が置かれ(おかれ)ました。岡本浦(おかもとうら)は海賊(かいぞく)の基地(きち)としてばかりでなく、沖(おき)を通る(とおる)交易船(こうえきせん)から、里見氏(さとみし)へ安全通行(あんぜんつうこう)の保障金(ほしょうきん)を納めさせる(おさめさせる)所(ところ)にもなったからです。
そのため町(まち)は大勢(おおぜい)の人(ひと)で賑わい(にぎわい)、商家(しょうか)や遊女(ゆうじょ)を囲った(かこった)茶屋(ちゃや)などが沢山(たくさん)でき、安房国(あわのくに)で一番(いちばん)大きな(おおきな)那古観音(なごかんのん)の門前町(もんぜんまち)に負けない(まけない)くらい栄えた(さかえた)のです。
岡本城(おかもとじょう)から館山城(たてやまじょう)へ
里見義康(さとみよしやす)は、自分(じぶん)の力(ちから)で所領(しょりょう)を広げる(ひろげる)ことができる戦国大名(せんごくだいみょう)から、所領(しょりょう)の保障(ほしょう)や、その増減(ぞうげん)は天下人(てんかびと)・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の意思次第(いししだい)という、近世大名(きんせいだいみょう)の立場(たちば)になりました。
それが、義康(よしやす)が里見氏(さとみし)の居城(きょじょう)を代える(かえる)ことに繋がった(つながった)のです。義康(よしやす)は、父(ちち)の里見義頼(さとみよしより)以来(いらい)、岡本城(おかもとじょう)を安房(あわ)・上総支配(かずさしはい)の拠点(きょてん)にしてきましたが、天正十九年(てんしょうじゅうくねん)(一五九一)に、館山城(たてやまじょう)へと居城(きょじょう)を移した(うつした)のです。
岡本城(おかもとじょう)は、豊岡海岸(とよおかかいがん)に迫った(せまった)丘陵(きゅうりょう)で、麓(ふもと)に、小さな(ちいさな)岬(みさき)に囲まれた(かこまれた)湊(みなと)がある海(うみ)の城(しろ)ですから、軍事力(ぐんじりょく)で、周辺(しゅうへん)の勢力(せいりょく)から土地(とち)を奪ったり(うばったり)、外敵(がいてき)を防いだり(ふせいだり)、あるいは海上(かいじょう)を航行(こうこう)する商船(しょうせん)を脅して(おどして)、商品(しょうひん)を取り上げる(とりあげる)などという戦国時代(せんごくじだい)には、適当(てきとう)な城(しろ)でしたが、秀吉(ひでよし)によって大名独自(だいみょうどくじ)の侵略(しんりゃく)が否定(ひてい)され、世上(せじょう)が安定(あんてい)しますと、大名(だいみょう)たちは、自ら(みずから)の経済力(けいざいりょく)を強め(つよめ)なければ、領国(りょうごく)の支配(しはい)を維持(いじ)できない時代(じだい)になってきましたので、義康(よしやす)も、岡本城(おかもとじょう)では湊(みなと)が小さく(ちいさく)、所領(しょりょう)の経済活性化(けざいかっせいか)を図る(はかる)には不向き(ふむき)と考えた(かんがえた)のです。
館山城(たてやまじょう)を築いて(きずいて)居城(きょじょう)と定めた(さだめた)のは、城(しろ)の近く(ちかく)に、高の島(たかのしま)という天然(てんねん)の大きな(おおきな)良港(りょうこう)があり、隣接(りんせつ)する北条郷(ほうじょうごう)には、南(みなみ)の白浜(しらはま)や北(きた)の岡本(おかもと)、内陸(ないりく)の府中(ふちゅう)・平久里(へぐり)、外房(がいぼう)の長狭(ながさ)などへの陸上交通(りくじょうこうつう)が集中(しゅうちゅう)しており、軍事(ぐんじ)、経済共(けいざいとも)に最適(さいてき)の地(ち)と考えた(かんがえた)からです。
大津(おおつ)に、延徳年間(えんとくねんかん)(一四八九〜一四九二)築かれた(きずかれた)という、宮本城跡(みやもとじょうせき)があります。標高(ひょうこう)百八十(ひゃくはちじゅう)メートルの城跡山頂(じょうせきさんちょう)からの眺め(ながめ)はすばらしく、南方(なんぽう)に鏡ヶ浦(かがみがうら)・館山城(たてやまじょう)・稲村城跡(いなむらじょうせき)、西方(せいほう)には伊豆(いず)・三浦(みうら)の半島(はんとう)が見渡せ(みわたせ)ます。
城跡(じょうせき)は、この山頂一帯(さんちょういったい)を主郭(しゅかく)として、更(さら)に東(ひがし)へ伸びる(のびる)尾根筋(おねすじ)と、ここから南北(なんぼく)に派生(はせい)する支尾根(しおね)に遺構(いこう)が見られ(みられ)ます。北方(ほっぽう)の防禦(ぼうぎょ)に力(ちから)が入れられて(いれられて)いますが、このことは上総方面(かずさほうめん)の敵(てき)を意識(いしき)した構え(かまえ)に違い(ちがい)ありません。
縄張面(なわばりめん)では、北(きた)へ延びる(のびる)尾根(おね)に左右(さゆう)に二連(にれん)と一連(いちれん)の竪堀(たてぼり)を配して(はいして)土橋(どばし)を作った(つくった)箇所(かしょ)や、主郭南東(しゅかくなんとう)に伸びる(のびる)尾根(おね)の先端(せんたん)に連続(れんぞく)した堀切(ほりきり)と竪堀(たてぼり)を組み合わせた(くみあわせた)箇所(かしょ)など、各所(かくしょ)に技巧的(ぎこうてき)な構造(こうぞう)が見られ(みられ)、また北(きた)へ伸びる(のびる)緩やかな(おだやかな)尾根(おね)には、蒲鉾(かまぼこ)を切る(きる)ように下方(かほう)までカットして長い(ながい)切岸(きりぎし)を作り(つくり)、敵(てき)の取り付き(とりつき)を困難(こんなん)にしています。珍しい(めずらしい)遺構(いこう)であると言え(いえ)ます。
以上(いじょう)のような遺構(いこう)から考え(かんがえ)ますと、伝承(でんしょう)では、里見義豊(さとみよしとよ)が天文三年(てんぶんさんねん)(一五三四)の内乱(ないらん)で敗死(はいし)すると、本城(ほんじょう)は廃城(はいじょう)になったとされていますが、実際(じっさい)には、五十年(ごじゅうねん)ほど長く(ながく)使用(しよう)されていたと言え(いえ)ます。
文献面(ぶんけんめん)からも、それが明らか(あきらか)になってきました。義豊(よしとよ)を滅ぼし(ほろぼし)、里見家(さとみけ)の当主(とうしゅ)となっていた里見義堯(さとみよしたか)が出した(だした)書状(しょじょう)(保田(ほた)・妙本寺文書(みょうほんじもんじょ))に、大津(おおつ)よりと記されて(しるされて)いるからです。義堯(よしたか)は、暫く(しばらく)、宮本城(みやもとじょう)を居城(きょじょう)としていたのです。なお、城(しろ)の尾根筋(おねすじ)を伝って(つたって)東方(とうほう)へ約二キロ(やくにキロ)進み(すすみ)ますと、滝田城跡(たきたじょうせき)がありますが、両城(りょうじょう)の連関(れんかん)が想定(そうてい)されます。
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