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天文(てんぶん)の内乱(ないらん)
 天文二年(てんぶんにねん)(一五三三)七月二十七日(しちがつにじゅうしちにち)、里見義通(さとみよしみち)以来(いらい)の重要(じゅうよう)な協力者(きょうりょくしゃ)であった正木通綱(まさきみちつぐ)が、里見義豊(さとみよしとよ)によって稲村城(いなむらじょう)に呼び(よび)つけられて殺害(さつがい)され、同事(どうじ)に叔父(おじ)の里見実堯(さとみさねたか)も殺害(さつがい)されるという事件(じけん)が起こり(おこり)ました。
 里見家(さとみけ)の当主(とうしゅ)であった義豊(よしとよ)にとって両名(りょうめい)の力(ちから)が強大(きょうだい)になって来ました(きました)ので、それを封じる(ふうじる)ための行為(こうい)だったのですが、この事件(じけん)によって里見家(さとみけ)は内乱状態(ないらんじょうたい)になりました。
 先ず(まず)事件(じけん)を知った(しった)実堯(さねたか)の子(こ)・里見義堯(さとみよしたか)とその一党(いっとう)は、義豊(よしとよ)に対抗(たいこう)するため、上総(かずさ)の百首城(ひゃくしゅじょう)に立て籠もり(たてこもり)ました。三浦半島(みうらはんとう)に最も(もっとも)近い(ちかい)この城(しろ)を拠点(きょてん)にして、義堯(よしたか)は、義豊(よしとよ)が敵対(てきたい)していた小田原(おだわら)の北条氏(ほうじょうし)に援軍(えんぐん)を要請(ようせい)したのです。
 両者(りょうしゃ)の戦闘(せんとう)はすぐ開始(かいし)されました。劣勢(れっせい)だった義豊方(よしとよがた)は戦い(たたかい)に敗れて(やぶれて)各地(かくち)の拠点(きょてん)を失い(うしない)、最後(さいご)に残った(のこった)滝田城(たきたじょう)に立て籠もり(たてこもり)ましたが、その滝田城(たきたじょう)も危うく(あやうく)なったため、上総(かずさ)の武田氏(たけだし)を頼り(たより)、真里谷城(まりやじょう)(木更津(きさらづ))へ落ちた(おちた)のです。滝田城(たきたじょう)は落城(らくじょう)し、義豊(よしとよ)の妹婿(いもうとむこ)にあたる一色九郎(いっしきくろう)は、反逆者(はんぎゃくしゃ)として討ち取られ(うちとられ)、安房国(あわのくに)総て(すべて)義堯(よしたか)の領地(りょうち)となりました。
 上総(かずさ)へ逃れた(のがれた)義豊(よしとよ)は、天文三年(てんぶんさんねん)(一五三四)、反撃(はんげき)を始め(はじめ)ました。態勢(たいせい)を整える(ととのえる)と、四月初め(しがつはじめ)に上総(かずさ)から安房(あわ)へ進攻(しんこう)してきたのです。
 北条氏(ほうじょうし)から、またもや義堯(よしたか)へ援軍(えんぐん)が派遣(はけん)されました。そして四月六日(しがつむいか)、義豊(よしとよ)と義堯(よしたか)が大将(たいしょう)として直接対決(ちょくせつたいけつ)が行われ(おこなわれ)、両軍(りょうぐん)のあいだに激戦(げきせん)が交わされ(かわされ)ました。有名(ゆうめい)な犬掛合戦(いぬかけがっせん)です。義豊方(よしとよがた)は大敗(たいはい)、義豊(よしとよ)も討ち死に(うちじに)して、この内乱(ないらん)は、義堯(よしたか)の勝利(しょうり)となって終り(おわり)ました。
 義豊(よしとよ)の首(くび)は、北条氏綱(ほうじょううじつな)のもとへ送り届けられて(おくりとどけられて)います。義堯(よしたか)の勝利(しょうり)に、北条氏(ほうじょうし)の貢献度(こうけんど)が高かった(たかかった)からです。
 
里見義豊(さとみよしとよ)の実像(じつぞう)
 戦国大名(せんごくだいみょう)・房総里見氏(ぼうそうさとみし)の研究(けんきゅう)が進んで(すすんで)きましたが、これまでのイメージが一新(いっしん)されたのは、里見義豊(さとみよしとよ)の実像(じつぞう)です。
 義豊(よしとよ)の通説(つうせつ)は「父(ちち)の里見義通(さとみよしみち)が病死(びょうし)した際(さい)、竹若丸(たけわかまる)と呼ばれ(よばれ)、僅か(わずか)五歳(ごさい)だったので、義通(よしみち)の遺言(ゆいごん)により、叔父(おじ)の里見実堯(さとみさねたか)が里見家(さとみけ)の国政(こくせい)を預かった(あずかった)が、義豊(よしとよ)成人(せいじん)の後(のち)も実堯(さねたか)が、それを返そう(かえそう)としないので、義豊(よしとよ)は怒って(おこって)天文二年(てんぶんにねん)(一五三三)七月(しちがつ)、宮本城(みやもとじょう)から一味(いちみ)の者(もの)たちと稲村城(いなむらじょう)を急襲(きゅうしゅう)して実堯(さねたか)を討ち(うち)、里見氏(さとみし)の当主(とうしゅ)の座(ざ)を奪い取った(うばいとった)。しかし、翌年(よくねん)には、実堯(さねたか)の子(こ)、里見義堯(さとみよしたか)の反撃(はんげき)に合い(あい)、犬掛(いぬかけ)の合戦(かっせん)に敗け(まけ)稲村城(いなむらじょう)で自害(じがい)した。二十一歳(にじゅういっさい)であった。」とされていました。
 ところが実際(じっさい)には義豊(よしとよ)はすでに、この天文(てんぶん)の内乱(ないらん)を遡る(さかのぼる)こと十数年以上前(じゅうすうねんいじょうまえ)から、里見家当主(さとみけとうしゅ)であったことが、史料上(しりょうじょう)で確かめられる(たしかめられる)ようになったのです。
 そして義豊(よしとよ)は、鎌倉(かまくら)の中世禅林(ちゅうせいぜんりん)の中心人物(ちゅうしんじんぶつ)玉隠和尚(ぎょくいんおしょう)から、「房州賢使君(ぼうしゅうけんしのきみ)」と尊称(そんしょう)され、「文武兼備(ぶんぶけんび)の濁世(だくせい)の佳公子(かこうし)」と賞賛(しょうさん)されたほどの、文武(ぶんぶ)に秀いでた(ひいでた)武将(ぶしょう)だったことも明らか(あきらか)になってきたのです。
 義豊(よしとよ)は玉隠和尚(ぎょくいんおしょう)に、法名(ほうごう)と雅号(がごう)を付けて(つけて)くれるようにと依頼(いらい)したことがありましたが、そのとき、贈られた(おくられた)のが、「長義(ちょうぎ)」という法号(ほうごう)と、「高巌(こうがん)」という雅号(がごう)でした。それが後(のち)に「高巌院殿長義居士(こうがんいんでんちょうぎこじ)」と呼ぶ(よぶ)、義豊(よしとよ)の戒名(かいみょう)に活かされた(いかされた)のです。
 ではなぜ、誰(だれ)が義豊(よしとよ)を今(いま)までのような通説(つうせつ)に、歪めて(ゆがめて)しまったのでしょうか。それは、父(ちち)の実堯(さねたか)が殺害(さつがい)されたのを理由(りゆう)に、義豊(よしとよ)を滅ぼして(ほろぼして)奪った(うばった)、つまり里見氏嫡流(さとみしちゃくりゅう)の系統(けいとう)から宗主権(そうしゅけん)を奪った(うばった)行為(こうい)を、正当化(せいとうか)しようとする、義堯(よしたか)とその一派(いっぱ)の作為(さくい)に違い(ちがい)ないのです。
 
里見氏来歴(さとみしらいれき)の書替え(かきかえ)
 天文(てんぶん)の内乱(ないらん)は、里見家内部(さとみけないぶ)の権力闘争(けんりょくとうそう)でした。里見家当主(さとみけとうしゅ)であった里見義豊(さとみよしとよ)が、反対派(はんたいは)の鎮圧(ちんあつ)に失敗(しっぱい)したために、嫡流(ちゃくりゅう)である前期里見氏(ぜんきさとみし)が崩壊(ほうかい)し、結果的(けっかてき)には、庶流(しょりゅう)の里見義堯(さとみよしたか)へ里見家(さとみけ)の家督(かとく)が移った(うつった)のですが、こうした嫡庶(ちゃくしょ)の逆転(ぎゃくてん)は、儒教道徳(じゅきょうどうとく)を学び(まなび)重んじて(おもんじて)いた戦国武将(せんごくぶしょう)にとっては、いくら下克上(げこくじょう)の世(よ)とはいえ、人格(じんかく)の崩壊(ほうかい)にもなることでした。
 そこで義堯(よしたか)とその後継者(こうけいしゃ)たちは、義堯(よしたか)の家督相続(かとくそうぞく)が正当(せいとう)であることを、世(よ)に理解(りかい)させるため、前期里見氏(ぜんきさとみし)(里見義実(さとみよしざね)〜義豊(よしとよ))の歴史(れきし)に手(て)を加え(くわえ)、家督(かとく)が義豊(よしとよ)でなく、里見義通(さとみよしみち)から継承(けいしょう)であるように印象付ける(いんしょうづける)作業(さぎょう)を行った(おこなった)のです。
 嫡流(ちゃくりゅう)から、庶流(しょりゅう)への家督(かとく)が継承(けいしょう)されたのは、止む(やむ)を得ぬ(えぬ)事情(じじょう)だったと記録(きろく)し、実際(じっさい)には義堯(よしたか)の父(ちち)・里見実堯(さとみさねたか)が国政(こくせい)を支配(しはい)していなかったにもかかわらず、義豊(よしとよ)を年少(ねんしょう)に仕立てる(したてる)と、国政(こくせい)を渡さない(わたさない)実堯(さねたか)を殺害(さつがい)したので、義堯(よしたか)が仇(かたき)を討ち(うち)、里見家(さとみけ)の家督(かとく)を相続(そうぞく)することになったという筋書き(すじがき)をつくりました。
 そのとき、歴史(れきし)の年代(ねんだい)を整合(せいごう)させるために、歴代当主(れきだいとうしゅ)の中(なか)へ、創作(そうさく)した里見成義(さとみしげよし)という人物(じんぶつ)まで挿入(そうにゅう)したのです。
 
青岳尼(しょうがくに)
 岡本城(おかもとじょう)近く(ちかく)の原岡(はらおか)・興禅寺(こうぜんじ)に、延宝三年(えんぽうさんねん)(一六七五)に建てられた(たてられた)、里見義弘(さとみよしひろ)の室(しつ)・青岳尼(しょうがくに)の百回忌供養塔(ひゃっかいきくようとう)があります。
 青岳尼(しょうがくに)は、小弓公房(おゆみくぼう)・足利義明(あしかがよしあき)の娘(むすめ)ですが、少女時代(しょうじょじだい)、下総国府台(しもふさこうのだい)の合戦(かっせん)に破れて(やぶれて)安房(あわ)へ退却(たいきゃく)した里見義堯(さとみよしたか)に連れられ(つれられ)、一時(いちじ)、安房(あわ)に住み(すみ)ましたが、後(のち)に鎌倉尼五山(かまくらあまござん)の筆頭(ひっとう)・太平寺住職(たいへいじじゅうしょく)になりました。
 太平寺(たいへいじ)は住職(じゅうしょく)が正月(しょうがつ)に鎌倉公房(かまくらくぼう)から、茶(ちゃ)の接待(せったい)をうけ、二月(にがつ)には公房(くぼう)が焼香(しょうこう)に訪れる(おとずれる)のが慣例(かんれい)となっている格式(かくしき)のある寺(てら)でしたが、青岳尼(しょうがくに)は、その太平寺(たいへいじ)の最後(さいご)の住職(じゅうしょく)になった人(ひと)でもありました。それは、里見義弘(さとみよしひろ)が鎌倉(かまくら)へ侵入(しんにゅう)した際(さい)、義弘(よしひろ)と示し合せて(しめしあわせて)寺(てら)を捨て(すて)、安房(あわ)へ渡って(わたって)しまったため、小田原(おだわら)の北条氏(ほうじょうし)が怒って(おこって)太平寺(たいへいじ)を廃寺(はいじ)にしたからです。
 安房(あわ)に渡った(わたった)後(のち)の青岳尼(しょうがくに)は、還俗(げんぞく)して義弘(よしひろ)の正室(せいしつ)になり、夫婦(ふうふ)睦まやか(むつまやか)に暮らし(くらし)、天正四年(てんしょうよねん)(一五七六)に歿した(ぼっした)とされますが、詳しい(くわしい)ことは不明(ふめい)です。
 伝承(でんしょう)の通り(とおり)なら、青岳尼(しょうがくに)は義弘(よしひろ)と幸せ(しあわせ)に暮らした(くらした)ことになりますが、一方(いっぽう)で義弘(よしひろ)は、永禄年間(えいろくねんかん)(一五五八〜一五七〇)の中頃(なかごろ)、古河公房(こがくぼう)・足利晴氏(あしかがはるうじ)の娘(むすめ)を娶って(めとって)いるのです。


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