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房総里見氏歴代略記(ぼうそうさとみしれきだいりゃくき)
里見義実(さとみよしざね)
 生歿年(せいぼつねん)は不明(ふめい)。房総里見氏(ぼうそうさとみし)の初代(しょだい)とされる人物(じんぶつ)です。鎌倉公房(かまくらくぼう)・足利持氏(あしかがもちうじ)の近臣刑部(きんしんぎょうぶ)小輔家基(しょうゆういえもと)の子(こ)とされますが、美濃里見氏出身(みのさとみししゅっしん)の可能性(かのうせい)もあります。確実(かくじつ)な史料(しりょう)はありませんが、その存在(そんざい)と、房総里見氏(ぼうそうさとみし)を興した(おこした)事実(じじつ)については否定(ひてい)できません。富浦(とみうら)には大房(たいぶさ)の不動尊(ふどうそん)に参詣(さんけい)し、戦勝祈願(せんしょうきがん)をしたという伝承(でんしょう)があります。法号(ほうごう)は杖珠院殿建室興公大居士(じょうじゅいんでんけんしつこうこうだいこじ)。江戸時代(えどじだい)の供養塔(くようとう)が白浜(しらはま)(白浜町(しらはままち))の杖珠院(じょうしゅいん)にあります。
 
里見成義(さとみしげよし)(義成(よししげ))
 生歿年(せいぼつねん)は不明(ふめい)。江戸時代以降(えどじだいいこう)作成(さくせい)された系図(けいず)では、里見義実(さとみよしざね)の嫡男(ちゃくなん)で、里見家二代目当主(さとみけにだいめいとうしゅ)として、歴代(れきだい)に数えられて(かぞえられて)いますが、後期(こうき)里見氏(さとみし)の手(て)によって、年代(ねんだい)の整合性(せいごうせい)を持たせる(もたせる)ため創作(そうさく)され、歴代中(れきだいちゅう)に挿入(そうにゅう)された人物(じんぶつ)ではないかと言われ(いわれ)ます。伝承(でんしょう)では、延徳年間(えんとくねんかん)(一四八九〜一四九二)に宮本城(みやもとじょう)を築いた(きずいた)とされています。法号(ほうごう)は慰月院殿大憧勝公大居士(いげついんでんだいどうしょうこうだいこじ)。墓(はか)が青木(あおき)(白浜町(しらはままち))の青根神社(あおねじんじゃ)にあったと伝えられて(つたえられて)います。
 
里見義通(さとみよしみち)
 生歿年(せいぼつねん)は不明(ふめい)。系図(けいず)では里見成義(さとみしげよし)の子(こ)として生まれ(うまれ)、里見家(さとみけ)の三代目当主(さんだいめとうしゅ)になっていますが、実(じつ)は初代里見義実(しょだいさとみよしざね)の子(こ)で、義実(よしざね)の「義(よし)」と「実(さね)」の二字(にじ)を、弟(おとうと)の里見実堯(さとみさねたか)と分け合って(わけあって)、名乗った(なのった)のであろうと言われて(いわれて)います。義通(よしみち)は、伝承(でんしょう)されてきたように三十代半ば(さんじゅうだいなかば)で病死(びょうし)したのではなく、活動期(かつどうき)は長く(ながく)、弟(おとうと)の実堯(さねたか)を副将(ふくしょう)として、安房国(あわのくに)の北部(ほくぶ)などに打ち入って(うちいって)います。配下(はいか)に強力(きょうりょく)な水軍(すいぐん)も持って(もって)いました。晩年(ばんねん)は白浜城(しらはまじょう)に隠居(いんきょ)して、子(こ)の里見義豊(さとみよしとよ)と、両頭政治(りょうとうせいじ)を行って(おこなって)いたと言われ(いわれ)ます。法号(ほうごう)は天昭院正皓居士(てんしょういんしょうこうこじ)。墓(はか)は犬掛(いぬかけ)(富山町(とみやままち))の、大雲院跡附近(だいうんいんあとふきん)にある層塔(そうとう)だと言い(いい)ます。
 
里見実堯(さとみさねたか)
 生年(せいねん)は不明(ふめい)。里見義通(さとみよしみち)の弟(おとうと)です。義通(よしみち)の存命中(ぞんめいちゅう)には兄(あに)に従って(したがって)活躍(かつやく)しました。伝承(でんしょう)では、宮本城(みやもとじょう)に在城(ざいじょう)していたと言われ(いわれ)、兄(あに)・義通(よしみち)が没した(ぼっした)時(とき)、その子(こ)若竹丸(わかたけまる)(義豊(よしとよ))が幼少(ようしょう)だったので、成長(せいちょう)まで国政(こくせい)を託され(たくされ)、当主(とうしゅ)となって家(いえ)の隆盛(りゅうせい)を招き(まねき)ました。天文二年(てんぶんにねん)(一五三三)甥(おい)の里見義豊(さとみよしとよ)のため、居城稲村城(きょじょういなむらじょう)を襲われ(おそわれ)、討ち死に(うちじに)したとされてきました。しかし、この話(はなし)の筋書き(すじがき)は、子(こ)の里見義堯(さとみよしたか)が義豊(よしとよ)を滅ぼし(ほろぼし)、嫡流(ちゃくりゅう)を滅亡(めつぼう)させた事(こと)を正当化(せいとうか)するため、後期(こうき)里見氏(さとみし)によって創作(そうさく)されたのです。実際(じっさい)の実堯(さねたか)は、里見家(さとみけ)の当主(とうしゅ)の位置(いち)にあった形跡(けいせき)はないのです。しかし、強力(きょうりょく)な水軍(すいぐん)を持つ(もつ)正木氏(まさきし)と結び(むすび)、義豊政権(よしとよせいけん)を揺がす(ゆるがす)存在(そんざい)になっていたのです。それを恐れた(おそれた)義豊(よしとよ)が、居城(きょじょう)の稲村城(いなむらじょう)へ天文二年(てんぶんにねん)七月二十七日(しちがつにじゅうしちにち)、召喚(しょうかん)して殺害(さつがい)したのです。したがって近年(きんねん)は、実堯(さねたか)は里見家(さとみけ)の歴代当主(れきだいとうしゅ)に入れる(いれる)べき人物(じんぶつ)ではないと、言われる(いわれる)ようになりました。法号(ほうごう)は延命寺殿一翁正源居士(えんめいじでんいちおうせいげんこじ)。本織(もとおり)(三芳村(みよしむら))の延命寺(えんめいじ)に葬られ(ほうむられ)ました。
 
里見義豊(さとみよしとよ)
 生年(せいねん)は不明(ふめい)。里見義通(さとみよしみち)の子(こ)です。伝承(でんしょう)では、父(ちち)・義通(よしみち)の死後(しご)、宮本城(みやもとじょう)に移って(うつって)成人(せいじん)しましたが、叔父(おじ)の里見実堯(さとみさねたか)が、里見家(さとみけ)の座(ざ)を譲らない(ゆずらない)ので、怒って(おこって)稲村城(いなむらじょう)へ押し寄せ(おしよせ)、実堯(さねたか)を討って(うって)、里見家(さとみけ)の五代目当主(ごだいめとうしゅ)の座(ざ)についたとされていますが、実(じつ)は、父(ちち)・義通(よしみち)の存命時(ぞんめいじ)から稲村(いなむら)にあって政務(せいむ)を執り(とり)、東国(とうごく)の諸大名(しょだいみょう)とも幅広い(はばひろい)外交関係(がいこうかんけい)をもつなどして活躍(かつやく)、また、文化(ぶんか)・宗教面(しゅうきょうめん)でも一流(いちりゅう)の人物(じんぶつ)との交流(こうりゅう)がありました。しかし、叔父(おじ)・実堯(さねたか)を殺害(さつがい)したため、実堯(さねたか)の子(こ)、里見義堯(さとみよしたか)に天文三年(てんぶんさんねん)(一五三四)四月六日(しがつむいか)、犬掛(いぬかけ)の戦い(たたかい)で討たれ(うたれ)ました。法号(ほうごう)は高巌院殿長義居士(こうがんいんでんちょうぎこじ)。墓(はか)は犬掛(いぬかけ)(富山町(とみやままち))の大雲院跡附近(だいうんいんあとふきん)の、父(ちち)・義通(よしみち)と並んで(ならんで)立つ(たつ)層塔(そうとう)だと言われ(いわれ)ます。
 
里見義堯(さとみよしたか)
 永正五年(えいしょうごねん)(一五〇八)里見実堯(さとみさねたか)の子(こ)として生まれ(うまれ)ました。父(ちち)の実堯(さねたか)を殺害(さつがい)した里見義豊(さとみよしとよ)を、小田原(おだわら)の北条氏綱(ほうじょううじつな)の支援(しえん)を得て(えて)滅ぼし(ほろぼし)、嫡家(ちゃくけ)から里見(さとみ)の宗主権(そうしゅけん)を奪い(うばい)ました。その後(ご)まもなく、小弓公房(おゆみくぼう)・足利義明(あしかがよしあき)に従って(したがって)北条氏(ほうじょうし)と断交(だんこう)し、天文六年(てんぶんろくねん)(一五三七)第一次(だいいちじ)・下総国府台合戦(しもうさこうのだいかっせん)に参戦(さんせん)しましたが敗れ(やぶれ)ました。当初(とうしょ)は宮本城(みやもとじょう)を居城(きょじょう)としましたが、後(のち)に上総(かずさ)に進出(しんしゅつ)して久留里城(くるりじょう)を奪取(だっしゅ)し、その城(しろ)を本拠(ほんきょ)としました。永禄七年(えいろくしちねん)(一五六四)子(こ)の里見義弘(さとみよしひろ)と共(とも)に、第二次(だいにじ)・国府台合戦(こうのだいかっせん)を行い、又(また)、敗れて(やぶれて)安房(あわ)に退き(しりぞき)ましたが、上総三船山(かずさみふねやま)の合戦(かっせん)で大勝(たいしょう)し、上総(かずさ)から北条勢(ほうじょうぜい)を一掃(いっそう)すると、永禄(えいろく)から元亀年間(げんきねんかん)(一五五八〜一五七三)にかけ、下総(しもうさ)や三浦(みうら)まで進出(しんしゅつ)し、里見氏(さとみし)の全盛期(ぜんせいき)を築き(きずき)ました。天正二年(てんしょうにねん)(一五七四)六月一日(ろくがつついたち)、六十歳(ろくじゅっさい)で歿し(ぼっし)、法号(ほうごう)は、東陽院殿岱叟正五居士(とうよういんでんたいそうしょうごこじ)。本織(もとおり)(三芳村(みよしむら))の延命寺(えんめいじ)に葬られ(ほうむられ)ました。
 
里見義弘(さとみよしひろ)
 生年(せいねん)は、はっきりしませんが大永五年(だいえいごねん)(一五二五)の頃(ころ)です。佐貫城(さぬきじょう)を居城(きょじょう)とし、岡本城(おかもとじょう)を築いた(きずいた)のはこの義弘(よしひろ)です。伝承(でんしょう)では、元亀元年(げんきがんねん)(一五七〇)、岡本随縁斉(おかもとずいえんさい)の城(しろ)を召し上げて(めしあげて)修築(しゅうちく)し、子(こ)の里見義頼(さとみよしより)に護らせ(まもらせ)、海防(かいぼう)の要(かなめ)にしたと言われて(いわれて)います。父(ちち)の里見義堯(さとみよしたか)と共(とも)に、下総(しもうさ)や三浦(みうら)に転戦(てんせん)し、里見氏(さとみし)の隆盛(りゅうせい)を築き上げた(きずきあげた)ことから、その名(な)は関東近隣(かんとうきんりん)に知られ(しられ)、房総里見氏(ぼうそうさとみし)を語る(かたる)とき、象徴的(しょうちょうてき)な人物(じんぶつ)として伝承(でんしょう)されています。天正五年(てんしょうごねん)(一五七七)には、長い(ながい)間(あいだ)、犬猿(けんえん)の仲(なか)だった小田原(おだわら)の北条氏(ほうじょうし)と和睦(わぼく)しました。しかし安房(あわ)の岡本城主(おかもとじょうしゅ)である、子(こ)の義頼(よしより)と対立(たいりつ)し、義頼(よしより)と梅王丸(うめおうまる)との継嗣問題(けいしもんだい)を残した(のこした)まま、天正六年(てんしょうろくねん)(一五七八)、中風(ちゅうぶう)を煩い(わずらい)五十四歳(ごじゅうよんさい)で歿し(ぼっし)ました。法号(ほうごう)は瑞龍院殿在天高存居士(ずいりゅういんでんざいてんこうぞんこじ)。本織(もとおり)(三芳村(みよしむら))の延命寺(えんめいじ)に葬られ(ほうむられ)ました。
 
里見義頼(さとみよしより)
 生年(せいねん)は不明(ふめい)です。里見義弘(さとみよしひろ)の子(こ)ですが、弟(おとうと)であるという説(せつ)もあります。初め(はじめ)は義継(よしつぐ)といいました。久留里在城(くるりざいじょう)の里見義堯(さとみよしたか)から安房(あわ)の支配(しはい)を任され(まかされ)、岡本城(おかもとじょう)を居城(きょじょう)としていましたが、義堯(よしたか)が歿し(ぼっし)ますと、佐貫城(さぬきじょう)の父(ちち)義弘(よしひろ)と後継者問題(こうけんしゃもんだい)で不和(ふわ)となりました。父(ちち)が没し(ぼっし)ますと、上総(かずさ)に侵攻(しんこう)して、弟(おとうと)の梅王丸(うめおうまる)を捕え(とらえ)、続けて(つづけて)東上総(ひがしかずさ)の正木憲時(まさきのりとき)を制圧(せいあつ)、上総一円(かずさいちえん)の領有化(りょうゆうか)に成功(せいこう)しました。しかし義頼(よしより)は岡本城(おかもとじょう)から居城(きょじょう)を上総(かずさ)に移す(うつす)ことなく、領国(りょうこく)の支配(しはい)を行い(おこない)、外交面(がいこうめん)では、北条氏(ほうじょうし)との和平(わへい)を継続(けいぞく)、反北条勢力(はんほうじょうせいりょく)の上杉氏(うえすぎし)・武田氏(たけだし)・佐竹氏(さたけし)や、天下人(てんかびと)となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)とも交渉(こうしょう)を行い(おこない)ました。内政外交(ないせいがいこう)に大きな(おおきな)足跡(そくせき)を残し(のこし)ましたが、天正十五年(てんしょうじゅうごねん)(一五八七)歿し(ぼっし)ました。法号(ほうごう)は大勢院殿勝岩泰英居士(たいせいいんでんしょうがんたいえいこじ)。青木(あおき)(富浦町(とみうらまち))の光厳寺(こうごんじ)に葬られ(ほうむられ)ました。
 
里見梅王丸(さとみうめおうまる)
 生年(せいねん)は不明(ふめい)です。父(ちち)は里見義弘(さとみよしひろ)、母(はは)は古河公房(こがくぼう)・足利晴氏(あしかがはるうじ)の娘(むすめ)とされ、父(ちち)と共(とも)に佐貫城(さぬきじょう)に在城(ざいじょう)しました。父(ちち)が病死(びょうし)しますと、その遺領(いりょう)を加藤伊賀守信景等(かとういがのかみのぶかげら)に支えられて(ささえられて)相続(そうぞく)し、義弘(よしひろ)の鳳凰(ほうおう)の家印(かいん)も継承(けいしょう)しましたが、しかし早く(はやく)から義弘(よしひろ)の後継者(こうけいしゃ)として、里見氏本領(さとみしほんりょう)の安房(あわ)を管轄(かんかつ)していた里見義頼(さとみよしより)に、佐貫城(さぬきじょう)を落とされ(おとされ)、岡本城聖山(おかもとじょうひじりやま)に幽閉(ゆうへい)されました。剃髪(ていはつ)して淳泰(じゅんたい)と名乗り(なのり)、里見氏改易後(さとみしかいえきご)の元和八年(げんなはちねん)(一六二二)に歿した(ぼっした)とされています。
 
里見義康(さとみよしやす)
 天正元年(てんしょうがんねん)(一五七三)里見義頼(さとみよしより)の子(こ)として岡本城(おかもとじょう)に生まれ(うまれ)ました。天正十三年(てんしょうじゅうさんねん)(一五八五)鶴谷八幡宮(つるがやはちまんぐう)の社殿(しゃでん)で元服(げんぷく)し、病気(びょうき)がちであった父(ちち)に代って(かわって)政務(せいむ)を継承(けいしょう)しました。岡本城(おかもとじょう)から館山城(たてやまじょう)に本城(ほんじょう)を移した(うつした)のはこの義康(よしやす)です。天正十八年(てんしょうじゅうはちねん)(一五九〇)豊臣秀吉(とよとみひでよし)の要請(ようせい)によって、小田原攻め(おだわらぜめ)に三浦(みうら)まで出陣(しゅつじん)しましたが、途中(とちゅう)の行動(こうどう)が、惣無事令違反(そうぶじれいいはん)であると詰問(きつもん)されて、上総(かずさ)を召し上げられ(めしあげられ)、領地(りょうち)が安房一国(あわいっこく)のみになりました。以降(いこう)、秀吉(ひでよし)の家臣(かしん)として朝鮮攻め(ちょうせんぜめ)の九州名護屋出陣(きゅうしゅうなごやしゅつじん)。秀吉(ひでよし)の腹心(ふくしん)、増田長盛(ますだながもり)による安房国総検地(あわこくそうけんち)。関ヶ原合戦(せきがはらかっせん)の際(さい)は、徳川氏方(とくがわしがた)に加わり(くわわり)、下野宇都宮(しもつけうつのみや)の出陣(しゅつじん)など、義康(よしやす)の生涯(しょうがい)は激動(げきどう)の一生(いっしょう)でした。宇都宮(うつのみや)の出陣(しゅつじん)による功(こう)として、徳川氏(とくがわし)より、常陸鹿島(ひたちかしま)の三万石(さんまんごく)をうけ、十二万石(じゅうにまんごく)の大名(だいみょう)になりましたが、慶長八年(けいちょうはちねん)(一六〇三)三十一歳(さんじゅういっさい)で病死(びょうし)しました。法号(ほうごう)は龍潜院殿傑山芳英大居士(りゅうせんいんでんけつざんほうえいだいこじ)。真倉(さなぐら)(館山市(たてやまし))の慈恩院(じおんいん)に葬られ(ほうむられ)ました。
 
里見忠義(さとみただよし)
 文禄三年(ぶんろくさんねん)(一五九四)里見義康(さとみよしやす)の子(こ)として生まれ(うまれ)、梅鶴丸(うめつるまる)と称し(しょうし)ました。父(ちち)の里見義康(さとみよしやす)が若くして(わかくして)病死(びょうし)したため、十歳(じゅっさい)で里見家当主(さとみけとうしゅ)の座(ざ)に付き(つき)、館山城(たてやまじょう)を居城(きょじょう)とし政務(せいむ)は、正木時茂(まさきときしげ)や堀江頼忠等(ほりえよりただら)が補佐(ほさ)しました。慶長十一年(けいちょうじゅういちねん)(一六〇六)梅鶴丸(うめつるまる)は将軍秀忠(しょうぐんひでただ)の前(まえ)で元服(げんぷく)、一字(いちじ)を賜って(たまわって)忠義(ただよし)を名乗り(なのり)、間(ま)もなく、幕閣(ばっかく)の大久保忠隣(おおくぼただちか)の孫娘(まごむすめ)を室(しつ)に迎えた(むかえた)ため、忠義(ただよし)の前途(ぜんと)は安泰(あんたい)かにみえましたが、忠隣(ただちか)の失脚(しっきゃく)に連座(れんざ)して改易(かいえき)、慶長十九年(けいちょうじゅうくねん)(一六一四)、伯老国倉吉(ほうきのくにくらよし)へ配流(はいる)されました。倉吉(くらよし)では不遇(ふぐう)の身(み)でありながら、家名再興(かめいさいこう)を夢(ゆめ)みて、社寺(しゃじ)などに寄進行為(きしんこうい)を重ねて(かさねて)いましたが、改易(かいえき)から僅か(わずか)八年後(はちねんご)の元和八年(げんなはちねん)(一六二二)三月(さんがつ)、倉吉郊外(くらよしこうがい)の堀村(ほりむら)で病死(びょうし)しました。二十九歳(にじゅうきゅうさい)でした。法号(ほうごう)は雲晴院殿心叟賢涼御大居士(うんせいいんでんしんそうけんりょうおんだいこじ)。倉吉(くらよし)の大岳院(だいがくいん)に葬られ(ほうむられ)ました。本織(もとおり)(三芳村(みよしむら))の延命寺(えんめいじ)では、高源院殿華山放午大居士(こうげんいんでんかざんほうごだいこじ)と贈り名(おくりな)をしました。和歌山県(わかやまけん)の高野山(こうやさん)に、忠義(ただよし)の正室(せいしつ)が建てた(たてた)三十三回忌(さんじゅうさんかいき)の供養塔(くようとう)があります。


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