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富浦の昔ばなし 第二集

 事業名 <郷土学>富浦に伝わる民話集の編纂と地域再発見
 団体名 NPO富浦エコミューゼ研究会 注目度注目度5


富浦(とみうら)の里見小史(さとみしょうし)
里見義頼久栄朱印
義頼の奥方が長泉寺に残るおちへの手紙に押した印章
 
里見氏系譜(さとみしけいふ)
 応仁(おうにん)の乱(らん)から、織田信長(おだのぶなが)が将軍足利義昭(しょうぐんあしかがよしあき)を追い出し(おいだし)、天下統一(てんかとういつ)に乗り出す(のりだす)までの時代(じだい)を戦国時代(せんごくじだい)と呼び(よび)ます。その時代(じだい)は、各地(かくち)に割拠(かっきょ)した武将(ぶしょう)たちが、勢力(せいりょく)の拡大(かくだい)を図って(はかって)戦い(たたかい)を繰り返し(くりかえし)、血(ち)を流し合って(ながしあって)いたのです。
 曲亭馬琴(きょくていばきん)の最高傑作(さいこうけっさく)として有名(ゆうめい)な、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』のモデルとなった、房総里見氏一族(ぼうそうさとみしいちぞく)も、この戦乱(せんらん)の時代(じだい)に生きた(いきた)武将(ぶしょう)たちでした。
 その房総里見氏初代(ぼうそうさとみししょだい)とされる里見義実(さとみよしざね)が安房(あわ)に現れた(あらわれた)のは、嘉吉(かきつ)(一四四一〜一四四四)の頃(ころ)と言われ(いわれ)、慶長十九年(けいちょうじゅうくねん)(一六一四)、里見氏(さとみし)が徳川幕府(とくがわばくふ)によって伯耆国(ほうきのくに)(鳥取県(とっとりけん))倉吉(くらよし)へ移される(うつされる)までの、およそ百七十年間(ひゃくななじゅうねんかん)に世代(せだい)が十代(じゅうだい)続いた(つづいた)と言われて(いわれて)います。
 里見義実(さとみよしざね)・成義(しげよし)・義通(よしみち)・実堯(さねたか)・義豊(よしとよ)・義堯(よしたか)・義弘(よしひろ)・義頼(よしより)・義康(よしやす)・忠義(ただよし)の十代(じゅうだい)ですが、実(じつ)は前半(ぜんはん)の世代(せだい)の人(ひと)たちには、不明(ふめい)なことばかりです。私(わたし)たちが昔(むかし)から聞かされて(きかされて)いた里見氏(さとみし)の歴史(れきし)は、近年(きんねん)研究(けんきゅう)が進む(すすむ)につれて、たいへん違って(ちがって)いることが判って(わかって)きました。里見(さとみ)の歴史(れきし)がどのように見直された(みなおされた)のか、館山市立博物館発行(たてやましりつはくぶつかんはっこう)の『さとみ物語(ものがたり)』。川名登編(かわなのぼるへん)『すべてわかる戦国大名(せんごくだいみょう)里見氏(さとみし)の歴史(れきし)』。富浦町発行(とみうらまちはっこう)の『富浦町史(とみうらちょうし)』を参考(さんこう)にして、富浦(とみうら)の地(ち)に関わる(かかわる)里見氏小史(さとみししょうし)を書いて(かいて)みました。
 平成十二年(へいせいじゅうにねん)(二〇〇〇)に発行(はっこう)した拙著(せっちょ)、『富浦町(とみうらまち)の昔(むかし)ばなし』の中(なか)の「富浦(とみうら)の里見物語(さとみものがたり)」と、比較(ひかく)しつつ読んで(よんで)下さい(ください)。
 
里見義実(さとみよしざね)の安房入部(あわにゅうぶ)
 房総里見氏(ぼうそうさとみし)の初代(しょだい)里見義実(さとみよしざね)は、下総国結城(しもふさのくにゆうき)(茨城県(いばらぎけん))の合戦(かっせん)の籠城(ろうじょう)で、関東管領(かんとうかんれい)の上杉方(うえすぎがた)に敗けて(まけて)脱出(だっしゅつ)、嘉吉元年(かきつがんねん)(一四四一)安房(あわ)へ逃れて(のがれて)きた落武者(おちむしゃ)だと、言われて(いわれて)いました。
 しかし、実(じつ)は義実(よしざね)は、鎌倉公房(かまくらくぼう)の足利氏(あしかがし)によって、安房平定(あわへいてい)のため、送り込まれた(おくりこまれた)人(ひと)でした。その頃(ころ)、関東(かんとう)では、鎌倉公房足利氏(かまくらくぼうあしかがし)と関東管領上杉氏(かんとうかんれいうえすぎし)の両勢力(りょうせいりょく)が対立(たいりつ)し、特(とく)に東京湾(とうきょうわん)は、海上通路(かいじょうつうろ)が生み出す(うみだす)権益(けんえき)をめぐり、両勢力(りょうせいりょく)の争い(あらそい)の場(ば)となっていたのです。
 安房(あわ)では鎌倉時代(かまくらじだい)から、二百年以上(にひゃくねんいじょう)にわたる、安西氏(あんざいし)・神余氏(かなまりし)・丸氏(まるし)・東条氏(とうじょうし)の四家(よんけ)が知られて(しられて)いますが、外(ほか)にも安東氏(あんどうし)・真田氏(さなだし)・木曾氏(きそし)・上野氏(うえのし)・糟屋氏(かすやし)などの武士(ぶし)たちがおり、みな足利氏(あしかがし)と上杉氏(うえすぎし)の派(は)に分かれて(わかれて)争って(あらそって)いましたから、公房(くぼう)の足利氏(あしかがし)は近臣(きんしん)として仕えて(つかえて)いた義実(よしざね)を、管領上杉氏(かんれいうえすぎし)の勢力(せいりょく)に対する(たいする)巻き返し(まきかえいし)をはかるため、安房国(あわのくに)の白浜(しらはま)へ送り(おくり)こんだのです。
 義実(よしざね)は、足利一門(あしかがいちもん)としての血筋(ちすじ)のよさと、足利氏(あしかがし)の権威(けんい)を背景(はいけい)に白浜(しらはま)の上杉勢(うえすぎぜい)を追い出し(おいだし)、そして国衙(こくが)(国司(こくし)の役所(やくしょ)・今(いま)の三芳村府中(みよしむらふちゅう))を見おろす(みおろす)館山平野(たてやまへいや)の稲村城(いなむらじょう)を拠点(きょてん)に、水軍(すいぐん)の安西氏(あんざいし)や正木氏(まさきし)なども従え(したがえ)、安房一国(あわいっこく)を平定(へいてい)したのです。
 義実(よしざね)が安房(あわ)に入部(にゅうぶ)した年代(ねんだい)については、まだよく分からない(わからない)のですが、康正二年(こうしょうにねん)(一四五六)という説(せつ)があります。
 
里見氏(さとみし)の出身地(しゅっしんち)
 房総里見氏(ぼうそうさとみし)は、もともと安房(あわ)の武士(ぶし)ではなく、上野国(こうずけのくに)、今(いま)の群馬県榛名町(ぐんまけんはるなまち)に里見(さとみ)という土地(とち)がありますが、そこが出身地(しゅっしんち)です。
 鎌倉時代(かまくらじだい)の初め(はじめ)、ここを所領(しょりょう)とした新田氏(にったし)一族(いちぞく)の新田義俊(にったよしとし)が、新田(にった)から里見(さとみ)という苗字(みょうじ)に替えた(かえた)のです。義俊(よしとし)の子(こ)・里見義成(さとみよしなり)は源頼朝(みなもとのよりとも)に従って(したがって)鎌倉幕府(かまくらばくふ)に仕え(つかえ)ましたが、それから二百年(にひゃくねん)のあいだに、里見氏一族(さとみしいちぞく)は、上野国(こうずけのくに)の南東部一帯(なんとうぶいったい)に広がり(ひろがり)、更(さら)に美濃国(みののくに)(岐阜県(ぎふけん))陸奥国(むつのくに)(青森(あおもり)〜岩手県(いわてけん))常陸国(ひたちのくに)(茨城県(いばらきけん))などにも移住(いじゅう)しました。
 正慶二年(しょうけいにねん)(一三三三)、新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府(かまくらばくふ)打倒(だとう)の挙兵(きょへい)をしますと、里見一族(さとみいちぞく)はそれに従った(したがった)ため、いったん没落(ぼつらく)しますが、その中(なか)から、戦国時代(せんごくじだい)に安房(あわ)へ入部(にゅうぶ)した里見義実(さとみよしざね)が房総里見氏(ぼうそうさとみし)の祖(そ)となったのです。
 里見氏(さとみし)は代々(だいだい)、房総(ぼうそう)を拠点(きょてん)にして関東(かんとう)の群雄(ぐんゆう)と争い(あらそい)ました。その興亡(こうぼう)は、江戸時代(えどじだい)の軍記物(ぐんきもの)にも勇ましく(いさましく)描かれて(えがかれて)います。


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