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八束小学校校歌(やつかしょうがっこうこうか)
作詞(さくし) 真田(さなだ) 巌(いわお)
作曲(さっきょく) 石渡(いしわたり) 真一(しんいち)
一.明るく(あかるく)明るく(あかるく)声(こえ)ひびく
枇杷(びわ)の実(み)かおる山(やま)の空(そら)
われらは体(からだ)きたえてる
みんなすこやか地(ち)をかける
八束(やつか)の子(こ)どもよ意気(いき)あがれ
二.輝く(かがやく)輝く(かがやく)眉(まゆ)すがし
小鳥(ことり)のさえずる丘(おか)の上(うえ)
われらは心(こころ)磨いてる(みがいてる)
みんな元気(げんき)で学んでる(まなんでる)
八束(やつか)の子(こ)どもよ理想(りそう)あれ
三.楽しく(たのしく)楽しく(たのしく)肩(かた)を組む(くむ)
緑(みどり)は映ゆる(はゆる)水(みず)と風(かぜ)
われらは仲(なか)よし輪(わ)をつくる
みんな友情(ゆうじょう)育ててる(そだててる)
八束(やつか)の子(こ)どもよ未来(みらい)あれ
 
旧校歌(きゅうこうか)
作詞(さくし) 錦織(にしきおり)庄之助(しょうのすけ)(口伝(くでん))
作曲(さっきょく) 田村(たむら) 虎蔵(とらぞう)(口伝(くでん))
一.千町(ちまち)の小田(おだ)を潤して(うるおして)
清く(きよく)流れる(ながれる)千部川(せんぶがわ)
濁らぬ(にごらぬ)影(かげ)を鑑(かがみ)にて
二.高く(たかく)そびえる丸山(まるやま)の
松(まつ)の翠(みどり)のとことはに
変らぬ(かわらぬ)色(いろ)を栞(しおり)にて
三.学び(まなび)の窓(まど)の明け暮れ(あけくれ)に
たゆまぬことなくいそしみて
心(こころ)の玉(たま)を磨かなん(みがかなん)
 現在(げんざい)の八束小学校校歌(やつかしょうがっこうこうか)は、昭和四十二年(しょうわよんじゅうにねん)(一九六七)制定(せいてい)です。作詞(さくし)は、安房(あわ)・君津(きみつ)の校歌(こうか)を多く(おおく)手がけた(てがけた)館山市大井(たてやましおおい)の真田巌氏(さなだいわおし)。作曲(さっきょく)は真田氏(さなだし)とコンビを組んで(くんで)上三原小学校校歌(かみみはらしょうがっこうこうか)を作った(つくった)石渡真一氏(いしわたりしんいちし)です。
 旧校歌(きゅうこうか)は、校名(こうめい)が八束尋常高等小学校(やつかじんじょうこうとうしょうがっこう)と称して(しょうして)いた頃(ころ)のものです。大正十二年(たいしょうじゅうにねん)(一九二三)に起きた(おきた)関東大震災(かんとうだいしんさい)で校舎(こうしゃ)が焼失(しょうしつ)したため、当時(とうじ)の正確(せいかく)な資料(しりょう)は残って(のこって)いませんが、明治四十年(めいじよんじゅうねん)(一九〇七)隣村(となりむら)の富浦小学校校歌発表会(とみうらしょうがっこうこうかはっぴょうかい)に参加(さんか)した、初代校長(しょだいこうちょう)・堀藤太氏(ほりとうたし)がその校歌(こうか)に刺激(しげき)され、八束小学校(やつかしょうがっこう)にも校歌(こうか)をと、同じ(おなじ)作曲家(さっきょくか)に依頼(いらい)したという話(はなし)が語り伝えられて(かたりつたえられて)います。したがって校歌(こうか)が出来た(できた)のは、富浦小学校(とみうらしょうがっこう)より一年(いちねん)遅れた(おくれた)明治四十一年(めいじよんじゅういちねん)(一九〇八)となります。作詞(さくし)は深名(ふかな)の生稲吉右衛門宅(いくいなきちうえもんたく)に宿(やど)をとっていた錦織庄之助氏(にしきおりしょうのすけし)(二代校長(にだいこうちょう))という説(せつ)が有力(ゆうりょく)です。
 
八束小学校運動会応援歌(やつかしょうがっこううんどうかいおうえんか)
一.八束(やつか)の里(さと)に 秋(あき)たけて
学び(まなび)のにわに 覇(は)をきそう
わが白(しろ)(赤(あか))組(ぐみ)の はらからよ
いざたて奮え(ふるえ) もろともに
二.豪気堂々(ごうきどうどう) 天(てん)をつく
白組(しろぐみ)(赤(あか))選手(せんしゅ)の意気(いき)を見よ(みよ)
必勝(ひっしょう)期したる(きしたる) その姿(すがた)
いざたて奮え(ふるえ) 我が健児(わがけんじ)
三.走れ(はしれ)健脚(けんきゃく) 地(ち)をけって
奮え(ふるえ)鉄腕(てつわん) 空(そら)高く(たかく)
栄冠(えいかん)我(われ)の けんじょうに
掲ぐ(かかぐ)はまさに このいっきょ
 
八束小紅組応援歌(やつかしょうあかぐみおうえんか)
 小中学校(しょうちゅうがっこう)の運動会(うんどうかい)を知らせる(しらせる)花火(はなび)の音(おと)が聞こえ(きこえ)ますと、大人(おとな)でも、楽しく(たのしく)飛んだり(とんだり)跳ねたり(はねたり)した当時(とうじ)のことを思い起こし(おもいおこし)、胸(むね)が高鳴り(たかなり)ますね。
 どこの学校(がっこう)の運動会(うんどうかい)にも、昔(むかし)から紅白(こうはく)などのチームに士気(しき)を鼓舞(こぶ)する応援歌(おうえんか)があり、盛ん(さかん)に歌われて(うたわれて)いるのですが、八束小学校(やつかしょうがっこう)では何時(いつ)の間(ま)にか、「八束(やつか)の里(さと)に秋(あき)たけて」と始まる(はじまる)白組応援歌(しろぐみおうえんか)の歌詞(かし)だけになり、紅組(あかぐみ)のものは無く(なく)なっていたのです。
 昔(むかし)、八束小学校(やつかしょうがっこう)で学んだ(まなんだ)者(もの)は、皆(みな)、それを残念(ざんねん)に思って(おもって)いますので、出来れば(できれば)、昔(むかし)あった紅組応援歌(あかぐみおうえんか)の復活(ふっかつ)を考えて(かんがえて)調べ(しらべ)ますと、理由(りゆう)は不明(ふめい)ですが、学校(がっこう)から歌詞(かし)が消えた(きえた)のは、昭和三十八年(しょうわさんじゅうはちねん)(一九六三)頃(ころ)でした。
 そして長い(ながい)年月(ねんげつ)を経た(へた)ため、今(いま)では、その歌詞(かし)を全部(ぜんぶ)正確(せいかく)に覚えて(おぼえて)いる者(もの)は一人(ひとり)もいないことが分かった(わかった)のです。残念無念(ざんねんむねん)という外(ほか)はないのですが・・・。
 ところがです。幸い(さいわい)にも平成十六年(へいせいじゅうろくねん)(二〇〇四年)、その紅組応援歌(あかぐみおうえんか)の歌詞(かし)が発見(はっけん)されたのです。宮本(みやもと)の白石裕子(しらいしひろこ)さんの家(いえ)に、がり版刷(がりばんずり)されたものが残って(のこって)いたのです。たいへん感激(かんげき)しました。
 八束小学校(やつかしょうがっこう)の学区(がっく)に住む(すむ)皆(みな)さん、約四十年(やくよんじゅうねん)ぶりに蘇った(よみがえった)紅組応援歌(あかぐみおうえんか)を読んで見て(よんでみて)下さい(ください)。
 
紅組応援歌(あかぐみおうえんか)
一、そう天高く(てんたかく) 気(き)は澄みて(すみて)
秋色深き(しゅうしょくふかき) このよき日(ひ)
わが数百(すうひゃく)の 健児(けんじ)らの
そうはの戦い(たたかい) 開かれぬ(ひらかれぬ)
二、堅陣(けんじん)ほこる あかぐみの
選手(せんしゅ)の意気(いき)は 天(てん)をつく
健脚千里(けんきゃくせんり) ほう翼(よく)に
くらべん姿(すがた)ぞ いさましく
三、戦績(せんせき)かがやく あかぐみの
威力(いりょく)にはむこう てきはなし
しめよ栄冠(えいかん) 又(また)われに
あげようかちどき 空高く(そらたかく)
ふれえー ふれえー
あかかてー!!
 
八束(やつか)の鉄道唱歌(てつどうしょうか)
 明治三十三年(めいじさんじゅうさんねん)(一九〇〇)に、
「汽笛一声新橋(きてきいっせいしんばし)をはや我が汽車(わがきしゃ)は離れたり(はなれたり)」
と始まる(はじまる)鉄道唱歌(てつどうしょうか)が生まれ(うまれ)ますと、歌詞(かし)の中(なか)に、誰(だれ)もが馴染み(なじみ)の駅名(えきめい)や沿線(えんせん)の風物(ふうぶつ)が詠み込まれて(よみこまれて)いましたから、広く(ひろく)親しまれ(したしまれ)大流行(だいりゅうこう)したそうです。
 そして全国(ぜんこく)に類似(るいじ)の歌(うた)が次ぎ次ぎ(つぎつぎ)作られ(つくられ)、やがては駅(えき)の無い(ない)八束(やつか)にまで歌(うた)ができてしまったというのです。深名(ふかな)の羽山誠(はやままこと)さんが八束(やつか)の鉄道唱歌(てつどうしょうか)を覚えて(おぼえて)いたため、その話(はなし)の裏付け(うらづけ)ができた訳(わけ)ですが、お陰(かげ)で消滅(しょうめつ)しそうになっていた口伝え(くちづたえ)の歌詞(かし)を、文字(もじ)で残す(のこす)事(こと)ができたいへん良かった(よかった)と思い(おもい)ます。
 歌詞(かし)は、館山方面(たてやまほうめん)から八束(やつか)への入り口(いりぐち)である川名(かわな)の切り通し(きりどおし)で始まり(はじまり)、各集落(かくしゅうらく)の名所(めいしょ)を歌い(うたい)ながら富浦(とみうら)へ出る(でる)青木(あおき)で終って(おわって)います。作詞者(さくししゃ)は、八束(やつか)の事(こと)をよく知って(しって)いる人(ひと)と思える(おもえる)のですが、残念(ざんねん)ながら不明(ふめい)です。誰(だれ)だったのでしょうね。
 
八束鉄道唱歌(やつかてつどうしょうか)
一 天狗(てんぐ)住み(すみ)跳(ちょう)切り通し(きりどおし)
義民佐内(ぎみんさない)の碑(ひ)に燃えて(もえて)
早く(はやく)も出ずる(いずる)福澤(ふくざわ)よ
西(にし)に富士(ふじ)の嶺(ね)仰ぎ(あおぎ)つつ
二 広き(ひろき)杉原(すぎはら)後(あと)にして
濁らぬ(にごらぬ)水(みず)の千部川(せんぶがわ)
小高き(こだかき)丘(おか)の学校(がっこう)を
仰ぎて(あおぎて)急ぐ(いそぐ)大津山(おおつやま)
三 右(みぎ)に城山(しろやま)そびえ立つ(たつ)
里見(さとみ)の跡(あと)はおぐら庵(あん)
手取(てどり)に名高き(なだかき)妙蓮寺(みょうれんじ)
鬼子山(きじやま)越えて(こえて)丹生(にゅう)の里(さと)
四 左(ひだり)に丸山(まるやま)のぞみつつ
ザーザンボーの水(みず)の音(おと)
枇杷(びわ)の産地(さんち)で名(な)も高き(たかき)
深名青木(ふかなあおき)に近づけり(ちかづけり)


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