愛宕神社(あたごじんじゃ)の樟(くす)
巨木(きょぼく)と言えば(いえば)、誰(だれ)も先ず(まず)樟(くす)を思い浮かべ(おもいうかべ)ますが、富浦一番(とみうらいちばん)の巨大(きょだい)な樟(くす)は原岡(はらおか)の愛宕神社(あたごじんじゃ)の樹(き)です。
根本(ねもと)から三本(さんぼん)の幹(みき)に分かれて(わかれて)立ち上がった(たちあがった)樹(き)の高さ(たかさ)は十八(じゅうはち)メートルもあり、根(ね)の周囲(しゅうい)は八(はち)メートルに及び(および)ます。一番(いちばん)太く(ふとく)なっている幹(みき)は、目通り(めどおり)三(さん)、四(よん)メートルで、樹(き)の肌(はだ)は若々しく(わかわかしく)て、大きく(おおきく)広がった(ひろがった)樹冠(じゅかん)は境内(けいだい)を圧し(あっし)、正(まさ)に神(かみ)の木(き)という感(かん)を受け(うけ)ます。
この樟(くす)が何時(いつ)のころ植えられた(うえられた)かは、愛宕神社(あたごじんじゃ)に伝わる(つたわる)話(はなし)で分かり(わかり)ます。戦国時代(せんごくじだい)の元亀三年(げんきさんねん)(一五七二)に、岡本城主(おかもとじょうしゅ)だった里見義頼(さとみよしより)が、城(しろ)の守護神(しゅごしん)として上総(かずさ)の久留里(くるり)から、愛宕大権現(あたごだいごんげん)を今(いま)の愛宕神社(あたごじんじゃ)の地(ち)に勧請(かんじょう)して社殿(しゃでん)を造営(ぞうえい)したとき、いっしょに植えた(うえた)と言い(いい)ますから、語り伝え(かたりつたえ)どおりなら樹齢(じゅれい)は四百三十年余り(よんひゃくさんじゅうねんあまり)となります。もしかしたら、この樹(き)は、里見(さとみ)の興亡(こうぼう)の歴史(れきし)をまだ覚えて(おぼえて)いるかもしれませんね。
樟(くす)はクスノキ科(か)の常緑高木(じょうりょくこうぼく)で、関東以南(かんとういなん)の暖地(だんち)、特(とく)に海岸(かいがん)に多く(おおく)、高さ(たかさ)は二十(にじゅう)メートル以上(いじょう)に達し(たっし)ます。樟脳(しょうのう)は、この樹(き)の幹(みき)・根(ね)・葉(は)を蒸留(じょうりゅう)した液(えき)から採り(とり)ます。
深名(ふかな)の常光寺(じょうこうじ)・薬師堂(やくしどう)の裏山(うらやま)にある銀杏(いちょう)は、葉(は)が黄(き)に染まる(そまる)頃(ころ)になりますと、遠く(とおく)富浦(とみうら)の海(うみ)からも見える(みえる)八束地区屈指(やつかちくくっし)の銀杏(いちょう)です。樹高(じゅこう)は三十(さんじゅう)メートル、根回り(ねまわり)は四(よん).一(いち)メートルもあります。
樹木(じゅもく)と言う(いう)のは古く(ふるく)なりますと、樹齢(じゅれい)がよく分からない(わからない)ものですが、この銀杏(いちょう)は、都合(つごう)よく常光寺(じょうこうじ)や館山市(たてやまし)の那古寺(なごじ)の文書(もんじょ)から、樹齢(じゅれい)を推測(すいそく)することができます。常光寺(じょうこうじ)が、銀杏(いちょう)を那古観音(なごかんのん)の多宝塔再建(たほうとうさいけん)のとき、寄進(きしん)したと記されて(しるされて)あるからです。
多宝塔(たほうとう)が再建(さいけん)されたのは宝暦十一年(ほうれきじゅういちねん)(一七六一)で、寄進(きしん)した銀杏(いちょう)は今(いま)の樹(き)と同年代(どうねんだい)で当時(とうじ)は樹齢(じゅれい)五(ご)〜六十年(ろくじゅうねん)だったそうですから、年(とし)を合せ(あわせ)ますと、今(いま)の常光寺(じょうこうじ)の銀杏(いちょう)は樹齢(じゅれい)三百年(さんびゃくねん)ほどになります。
そうしますと、この樹(き)は植えた(うえた)年(とし)まで、はっきりしてきます。三百年前(さんびゃくねんまえ)といえば、常光寺(じょうこうじ)が、元禄(げんろく)の大地震(おおじしん)で倒壊(とうかい)した薬師堂(やくしどう)を、現在(げんざい)の地(ち)に再建(さいけん)した宝永六年(ほうえいろくねん)(一七〇四)に当たり(あたり)ますので、銀杏(いちょう)は、その年(とし)に植えた(うえた)と言っても(いっても)良い(よい)と思い(おもい)ます。
豊岡(とよおか)の字(あざ)・磯津畑(いそづばた)の山頂(さんちょう)に、大きな(おおきな)柏槙(びゃくしん)があります。樹齢(じゅれい)は千年(せんねん)と言われ(いわれ)、その樹(き)には昔(むかし)から天狗(てんぐ)が飛来(ひらい)して宿り(やどり)、木端(こっぱ)(天狗(てんぐ))揃い(ぞろい)の日(ひ)に当る(あたる)正月九日(しょうがつここのか)に山(やま)へ立ち入る(たちいる)人(ひと)がいますと、大風(おおかぜ)を起して(おこして)、その人(ひと)に大怪我(おおけが)させるという話(はなし)が伝わって(つたわって)います。
そんな話(はんし)を聞き(きき)ますと、誰(だれ)も一度(いちど)は見たく(みたく)なるものですが、樹(き)の生えて(はえて)いる場所(ばしょ)が山奥(やまおく)の峻嶮(しゅんけん)な場所(ばしょ)のため近寄り(ちかより)がたく、そのため豊岡(とよおか)の人(ひと)でも、「びゃくせん下(じた)」と呼ばれる(よばれる)地域(ちいき)に土地(とち)を持つ(もつ)農家以外(のうかいがい)の人(ひと)は、その樹(き)を見る(みる)ことがなく、樹(き)の存在(そんざい)さえ知らない(しらない)のが実情(じつじょう)です。
そこで、平成十七年(へいせいじゅうななねん)(二〇〇五年)二月(にがつ)、町(まち)の土曜学校(どようがっこう)で、その樹(き)を調べよう(しらべよう)と岡本崇(おかもとみつる)さんに道案内(みちあんない)をお願い(ねがい)して、小学生(しょうがくせい)たちと力(ちから)を合せ(あわせ)樹(き)を測り(はかり)ますと、樹(き)の高さ(たかさ)は十三(じゅうさん)メートル、樹(き)の根回り(ねまわり)は六(ろく).四(よん)メートルもあったのです。
樹形(じゅけい)は、樹皮(じゅひ)を大きく(おおきく)よじらせて立ち上った(たちあがった)太い(ふとい)幹(みき)が三本(さんぼん)ありますが、落雷(らくらい)によって二本(にほん)の幹(みき)は枯れて(かれて)骸骨(がいこつ)のようになり、生き残って(いきのこって)いる一本(いっぽん)の幹(みき)は、目通り(めどおり)の周囲(しゅうい)が二(に).二(に)メートルもあって、老いた(おいた)竜(りゅう)が天(てん)に昇ろう(のぼろう)としているような姿(すがた)でした。
土曜学校(どようがっこう)に参加(さんか)した人(ひと)は皆(みな)、深く(ふかく)感動(かんどう)し、このような岩(いわ)のごつごつした峻嶮(しゅんけん)な所(ところ)に生えた(はえた)柏槙(びゃくしん)が、どのようにして厳しい(きびしい)自然災害(しぜんさいがい)に耐え(たえ)、長い(ながい)歳月(さいげつ)、成長(せいちょう)を続けた(つづけた)のかと話し合い(はなしあい)ました。
昭和四年(しょうわよねん)(一九二九)に、千葉県(ちばけん)の二十一代知事(にじゅういちだいちじ)となった後藤多喜蔵(ごとうたきぞう)が詠んだ(よんだ)歌(うた)ですが、南無谷(なむや)は房州(ぼうしゅう)の枇杷栽培(びわさいばい)の発祥地(はっしょうち)です。
その歴史(れきし)は、宝暦(ほうれき)(一七五一〜一七六四)の頃(ころ)から始まった(はじまった)といわれ、今(いま)も広大(こうだい)な栽培面積(さいばいめんせき)を有して(ゆうして)いますが、その中(なか)で、南無谷一番(なむやいちばん)の樹齢(じゅれい)をもち、しかも、果実(かじつ)をたくさん収穫(しゅうかく)している枇杷(びわ)はどこにあるかと言えば(いえば)、それは、和泉澤利幸(いずみさわよしゆき)さんの所有(しょゆう)する、南無谷(なむや)の字船目(あざふなめ)の山(やま)に植えられた(うえられた)「楠(くす)(早生種(わせしゅ))」です。
平成十七年(へいせいじゅうしちねん)(二〇〇五)二月(にがつ)に発行(はっこう)された富浦町広報(とみうらまちこうほう)の「この木(き)と私(わたくし)の思い出(おもいで)」と題した(だいした)ページに、和泉澤(いずみさわ)さんは、その楠(くす)について次(つぎ)のように話して(はなして)います。
「私(わたくし)の枇杷山(びわやま)では、この楠(くす)が一番早く(いちばんはやく)実(み)が色づく(いろづく)ので、山(やま)にある枇杷全体(びわぜんたい)の収穫基準(しゅうかくきじゅん)にしているのです。毎年(まいとし)平均(へいきん)して五月二十日頃(ごがつにじゅうにちころ)ですが、稀(まれ)に四月(しがつ)の終り(おわり)の早い(はやい)時期(じき)に色づく(いろづく)時(とき)などは、最後(さいご)に色づく(いろづく)田中(たなか)(晩生種(ばんせいしゅ))の収穫期(しゅうかくき)も、例年(れいねん)より早い(はやい)五月下旬(ごがつげじゅん)になるだろうと、その予想(よそう)ができるのです。
この楠(くす)は大きな(おおきな)樹(き)になっていますから、通常(つうじょう)だと千八百個余り(せんはっぴゃくこあまり)の実(み)に袋(ふくろ)を掛ける(かける)のですが、色づく(いろづく)のが早い(はやい)のでカラスやヒヨドリに狙われ(ねらわれ)、酷い(ひどい)時(とき)は三百(さんびゃく)〜五百個(ごひゃっこ)しか収穫(しゅうかく)できないこともあります。しかし楠(くす)は数(かず)ある枇杷(びわ)の品種(ひんしゅ)の中(なか)でも、癌腫病(がんしゅびょう)などの病害(びょうがい)に強く(つよく)、長生き(ながいき)する樹(き)ですから、まだ暫く(しばらく)私(わたくし)の枇杷山(びわやま)の一番(いちばん)として活躍(かつやく)してくれるでしょう。」
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