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お定狐(さだぎつね)
 昔(むかし)むかし、豊岡(とよおか)の坂ノ下(さかのした)に鎮座(ちんざ)まします乙羽(おとわ)の森(もり)の稲荷様(いなりさま)に、「お定(さだ)」と呼ばれる(よばれる)白い(しろい)狐(きつね)が棲みついて(すみついて)いました。
 どうして、お定(さだ)と名付けられ(なづけられた)たか謂(いわれ)は分かり(わかり)ませんが、神通力(じんつうりき)を持った(もった)狐(きつね)でしたので、沢山(たくさん)の人(ひと)を化かして(ばかして)困らせ(こまらせ)ました。白い(しろい)狐(きつね)ですから、色白(いろじろ)の美女(びじょ)に化けるの(ばける)が上手(じょうず)で、狐(きつね)と気付かず(きづかず)、ちょっかいを出した(だした)地元(じもと)の若い(わかい)男(おとこ)たちを、ひどい目(め)に合わせる(あわせる)こともありました。なにしろ、お定狐(さだぎつね)は人(ひと)と会う(あう)度(たび)に全く(まったく)顔形(かおかたち)の違った(ちがった)美女(びじょ)に化けた(ばけた)のですから仕末(しまつ)が悪く(わるく)、そのために、月(つき)に四(し)〜五回(ごかい)も化かされた(ばかされた)者(もの)がいたと言う(いう)のです。
 お定狐(さだぎつね)は魚(さかな)が大好物(だいこうぶつ)でしたから、坂ノ下(さかのした)の湊(みなと)に漁船(ぎょせん)が帰って(かえって)きますと、必ず(かならず)近づいて(ちかづいて)漁師(りょうし)を化かし(ばかし)、魚(さかな)をだまし盗る(とる)と、化けた(ばけた)着物(きもの)の袂(たもと)の中(なか)に隠して(かくして)棲処(すみか)の稲荷様(いなりさま)の祠(ほこら)へ運び(はこび)、食べた(たべた)そうです。
 お定狐(さだぎつね)は皆(みな)に嫌われた(きらわれた)悪い(わるい)狐(きつね)でしたが、しかし、地元(じもと)の人(ひと)たちは決して(けっして)、いじめたり懲らしめ(こらしめ)たりはしませんでした。白い(しろい)狐(きつね)は神(かみ)の使い(つかい)で、霊力(れいりょく)を持つ(もつ)と信じられて(しんじられて)いましたから、崇り(たたり)を恐れた(おそれた)のです。
 
 
牛(うし)が決めた(きめた)屋敷(やしき)
 江戸時代(えどじだい)から続く(つづく)歴史(れきし)を持つ(もつ)家(いえ)は、先祖(せんぞ)が「この土地(とち)が良し(よし)」と屋敷(やしき)を構えて(かまえて)以来(いらい)、幾代(いくだい)にも渡って(わたって)暮らして(くらして)来て(きて)いますので、愛着(あいちゃく)があり、滅多(めった)な事(こと)では屋敷替え(やしきがえ)をしません。
 とはいうものの、よんどころ無い(ない)事情(じじょう)があって屋敷替え(やしきがえ)をした家(いえ)が無い(ない)わけではありません。深名(ふかな)の屋号(やごう)・登戸(のぶと)さんの家(いえ)には民話(みんわ)になるような話(はなし)があります。
 江戸時代(えどじだい)、青木(あおき)の光厳寺(こうごんじ)が火災(かさい)になった事(こと)がありました。本堂(ほんどう)の大きな(おおきな)屋根(やね)の茅(かや)が火(ひ)の粉(こ)となって舞い(まい)、深名(ふかな)の山岸(やまぎし)の集落(しゅうらく)へ降り(ふり)そそいだのです。特(とく)に登戸(のぶと)さんの家(いえ)は火(ひ)の粉(こ)をたくさん浴び(あび)恐ろしかった(おそろしかった)ので、飼われて(かわれて)いた農耕用(のうこうよう)の黒牛(くろうし)は真っ先(まっさき)に厩(うまや)から飛び出して(とびだして)逃げ(にげ)ました。
 暫く(しばらく)して登戸(のぶと)さんの家(いえ)では、同じ(おなじ)恐ろしさ(おそろしさ)を避ける(さける)ため屋敷(やしき)を安全(あんぜん)な土地(とち)(現在(げんざい)の屋敷(やしき))へ替え(かえ)ましたが、そこは火災(かさい)の時(とき)、黒牛(くろうし)が逃げ込んで(にげこんで)いた所(ところ)なのです。
 大昔(おおむかし)から牛(うし)はお盆(ぼん)の時(とき)、現世(げんせ)と来世(らいせ)を往来(おうらい)したり、人(ひと)を災難(さいなん)から守ったり(まもったり)する不思議(ふしぎ)な力(ちから)を持って(もって)いると言い(いい)ますので、自分(じぶん)の家(いえ)の牛(うし)も、飼い主(かいぬし)へ「そこが一番(いちばん)安全(あんぜん)な土地(とち)」と教えて(おしえて)くれたに違い(ちがい)ないと思った(おもった)からです。
 
 
恒三郎(つねさぶろう)の乳牛(にゅうぎゅう)
 享保十二年(きょうほじゅうにねん)(一七二七)、将軍徳川吉宗(しょうぐんとくがわよしむね)が嶺岡(みねおか)にインド産(さん)の白牛(しろうし)を放牧(ほうぼく)したという歴史的(れきしてき)な背景(はいけい)があって、房州(ぼうしゅう)は明治(めいじ)から昭和(しょうわ)にかけ全国有数(ぜんこくゆうすう)の酪農王国(らくのうおうこく)になりました。
 そのような事(こと)から、富浦(とみうら)でも先人(せんじん)たちが優秀(ゆうしゅう)な乳牛(にゅうぎゅう)を産出(さんしゅつ)して酪農(らくのう)の発展(はってん)に努めた(つとめた)のですが、一番最初(いちばんさいしょ)に、富浦(とみうら)に名牛(めいぎゅう)ありと、その名(な)を全国(ぜんこく)に広めた(ひろめた)のは、南無谷(なむや)の石井恒三郎(いしいつねさぶろう)さんでした。
 大正九年(たいしょうきゅうねん)(一九二〇)、恒三郎(つねさぶろう)さんの育てた(そだてた)、ホルスタイン種(しゅ)乳牛(にゅうぎゅう)『第四(だいよん)アイダロッダ号(ごう)』が、安房郡北条町(あわぐんほうじょうまち)て開催(かいさい)された千葉県畜産共進会(ちばけんちくさんきょうしんかい)に、一等賞(いっとうしょう)(賞金百円(しょうきんひゃくえん))を授与(じゅよ)され、更に(さらに)次ぎ(つぎ)の大正十年(たいしょうじゅうねん)(一九二一)に岡山県(おかやまけん)で開催(かいさい)された中央畜産博覧会(ちゅうおうちくさんはくらんかい)では、二等賞(にとうしょう)(賞金百円(しょうきんひゃくえん))を授与(じゅよ)されたからです。中央畜産博覧会(ちゅうおうちくさんはくらんかい)は盛会(せいかい)を極め(きわめ)、大正天皇(たいしょうてんのう)もお成り(おなり)になりましたが、その時(とき)、第四(だいよん)アイダロッダ号(ごう)に、「立派(りっぱ)な乳牛(にゅうぎゅう)だ。」とお声(こえ)を掛け(かけ)、額(ひたい)を幾度(いくど)もお撫ぜ(なぜ)になったそうです。
 時代(じだい)の流れ(ながれ)で、富浦(とみうら)の酪農(らくのう)は消えて(きえて)久しく(ひさしく)なりますが、恒三郎(つねさぶろう)さんの乳牛(にゅうぎゅう)が共進会(きょうしんかい)の時(とき)、背(せ)に掛けた(かけた)、別珍(べっちん)の『毛(け)ぶせ(安房郡(あわぐん)・富浦村(とみうらむら)・石井(いしい)、の文字(もじ)と、石井家(いしいけ)の家紋(かもん)が刺繍(ししゅう)してある)』や、授与(じゅよ)された賞状(しょうじょう)や金牌(きんぱい)は、昔年(せきねん)の栄光(えいこう)を秘めて(ひめて)今(いま)も残って(のこって)います。
 
 
パッパーの牛飼い(うしかい)
 大正十年(たいしょうじゅうねん)(一九二一)、岡山県(おかやまけん)で開かれた(ひらかれた)中央畜産博覧会(ちゅうおうちくさんはくらんかい)から、二等賞(にとうしょう)になった乳牛(にゅうぎゅう)・第四(だいよん)アイダロッダ号(ごう)を引き連れ(ひきつれ)、意気揚々(いきようよう)、石井恒三郎(いしいつねさぶろう)さんが南無谷(なむや)へ帰って来ます(かえってきます)と、間(ま)もなく恒三郎(つねさぶろう)さんの家(いえ)に、その乳牛(にゅうぎゅう)を買おう(かおう)とする人(ひと)が、日本中(にほんじゅう)から押し寄せ(おしよせ)ました。
 第四(だいよん)アイダロッダ号(ごう)は、体形(たいけい)が美しい(うつくしい)だけでなく、一日(いちにち)の最高産乳量(さいこうさんにゅうりょう)が二斗八合七勺(にとはちごうななしゃく)の公式記録(こうしききろく)を持つ(もつ)優秀(ゆうしゅう)な乳牛(にゅうぎゅう)でもありましたので、値段(ねだん)は買い手(かいて)によって釣り上げられ(つりあげられ)、三千五百円(さんぜんごひゃくえん)までなりました。その頃(ころ)は千円(せんえん)で上等(じょうとう)な家(いえ)が一軒(いっけん)建つ(たつ)時代(じだい)ですから、売って(うって)しまえば大儲け(おおもうけ)でしたが、人(ひと)の心(こころ)は不思議(ふしぎ)ですね。余り(あまり)高い(たかい)値(ね)が付く(つく)と却って(かえって)売れない(うれない)ものなのです。恒三郎(つねさぶろう)さんは第四(だいよん)アイダロッダ号(ごう)を売らず(うらず)に牝(めす)の子牛(こうし)をたくさん生ませて(うませて)、もっと儲ける(もうける)事(こと)にしましたが、しかし、世(よ)の中(なか)は旨く(うまく)行かない(いかない)もので、残念(ざんねん)ながら第四(だいよん)アイダロッダ号(ごう)は、死ぬ(しぬ)まで牝牛(めすうし)を生み(うみ)ませんでした。
 恒三郎(つねさぶろう)さんという人(ひと)については、今(いま)の石井家(いしいけ)(屋号(やごう)・下畑(したばたけ))で面白く(おもしろく)語られて(かたられて)います。派手(はで)でお金(かね)が身(み)に付かない(つかない)パッパーで、例えば(たとえば)他県(たけん)の温泉地(おんせんち)へ旅(たび)に出掛け(でかけ)ても、途中(とちゅう)の東京(とうきょう)で持ち金(もちがね)を全部(ぜんぶ)使って(つかって)しまうとか、農作業(のうさぎょう)を頼んだ(たのんだ)人(ひと)たちに贅沢(ぜいたく)な蓄音機(ちくおんき)を買って(かって)、毎日(まいにち)聞かせ(きかせ)たりした人(ひと)だったので、何時(いつ)の間(ま)にか先祖(せんぞ)から継いだ(ついだ)身上(しんしょう)を減らして(へらして)しまったというのです。
 
 
猫(ねこ)の崇り(たたり)
 昔(むかし)むかし、ある家(いえ)に猫(ねこ)をたいへん可愛いがって(かわいがって)いたお婆さん(おばあさん)がいました。
 お婆さん(おばあさん)は、猫(ねこ)を我が子(わがこ)のように思い(おもい)、夜(よる)は自分(じぶん)のふとんの中(なか)に入れて(いれて)寝たり(ねたり)、餌(えさ)にする魚(さかな)の骨(ほね)は噛み砕いて(かみくだいて)与える(あたえる)ほど大事(だいじ)にしていたのですが・・・。ある日(ひ)その猫(ねこ)が、家(いえ)の前(まえ)の道(みち)で、近く(ちかく)に住む(すむ)男(おとこ)の大八車(だいはちぐるま)に轢かれて(ひかれて)死んで(しんで)しまったのです。死んだ(しんだ)猫(ねこ)は顔(かお)が潰れ(つぶれ)口(くち)が耳(みみ)の方(ほう)まで曲がって(まがって)いました。
 しかし男(おとこ)は、道(みち)にうろうろしていた猫(ねこ)が悪い(わるい)と思って(おもって)いましたから、後片付け(あとかたづけ)もせず、お婆さん(おばあさん)に謝り(あやまり)もしませんでした。気持ち(きもち)が治まらない(おさまらない)のは、猫(ねこ)を殺された(ころされた)お婆さん(おばあさん)です。泣く泣く(なくなく)死んだ(しんだ)猫(ねこ)を撫ぜ(なぜ)ながら、「崇って(たたって)やれ、崇って(たたって)やれ。」と言った(いった)のです。
 幾日(いくにち)か過ぎた(すぎた)ある日(ひ)、猫(ねこ)を櫟き殺した(ひきころした)男(おとこ)の家(いえ)に恐ろしい(おそろしい)事(こと)が起き(おき)ました。男(おとこ)の女房(にょうぼう)の顔(かお)に激しい(はげしい)痛み(いたみ)が走り(はしり)、口(くち)の片方(かたほう)が耳(みみ)の近く(ちかく)まで曲がって(まがって)しまったのです。それだけで済まず(すまず)次(つぎ)は口(くち)の曲がった(まがった)赤ん坊(あかんぼう)が生まれた(うまれた)のです。
 昔(むかし)から猫(ねこ)は化けたり(ばけたり)崇ったり(たたったり)した話(はなし)がありますから、この話(はなし)も本当(ほんとう)の事(こと)に違い(ちがい)ないですね。恐ろし(おそろし)や、恐ろし(おそろし)や。
 


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