動物(どうぶつ)や植物(しょくぶつ)の話(はなし)
南無谷の字船目に生えている樹齢60年の枇杷「楠」
1800個の実に袋を掛ける〈和泉澤利幸氏所有〉 |
昭和四十年(しょうわよんじゅうねん)(一九六五)頃(ころ)まで、豊岡(とよおか)の字(あざ)・星山(ほしやま)と野ヶ谷(のげやつ)の山中(さんちゅう)を棲処(すみか)とする大蛇(おおへび)が一匹(いっぴき)いました。嘘(うそ)ではありません。その辺り(あたり)の枇杷山(びわやま)などへ作業(さぎょう)に通った(かよった)者(もの)が、見た(みた)と語り伝えて(かたりつたえて)いますので話(はなし)は本当(ほんとう)です。
蛇(へび)は、幾十年(いくじゅうねん)の齢(よわい)を重ねた(かさねた)のか分からない(わからない)ヤマカガシの大物(おおもの)で、胴(どう)の太さ(ふとさ)は一升(いっしょう)びんほど、胴体(どうたい)が重い(おもい)ので、移動(いどう)する時(とき)は草(くさ)を薙ぎ倒し(なぎたおし)ながら進んだ(すすんだ)というのです。もし山兎(やまうさぎ)などを捕まえ(つかまえ)ようものなら、一呑み(ひとのみ)したでしょうね。
不思議(ふしぎ)なのは、その蛇(へび)が何故(なぜ)か急斜面(きゅうしゃめん)の山中(さんちゅう)だけを縄張り(なわばり)にして動き廻り(うごきまわり)、決して(けっして)、野菜(やさい)や花木(かぼく)を植えた(うえた)平地(へいち)の畑(はたけ)には姿(すがた)を現さなかった(あらわさなかった)事(こと)と、もう一つ(ひとつ)は、人(ひと)には絶対(ぜったい)に胴体(どうたい)しか見せなかった(みせなかった)事(こと)でした。ですから誰(だれ)も頭(あたま)(鎌首(かまくび))と尾(お)を見ていない(みていない)のです。
人間社会(にんげんしゃかい)のことわざを当てはめて(あてはめて)いうなら「尻尾(しっぽ)を見せない(みせない)」なんて、たいへん利巧(りこう)?な蛇(へび)だったと言えます(いえます)が、鎌首(かまくび)の方(ほう)は、寧ろ(むしろ)誰(だれ)も見なくて(みなくて)良かった(よかった)かも知れません(しれません)ね。もし見たら(みたら)、恐ろしさ(おそろしさ)で金縛り(かなしばり)に合い(あい)、呑み込まれて(のみこまれて)しまうからです。
原岡(はらおか)・愛宕神社(あたごじんじゃ)の宮司(ぐうじ)・田代家(たしろけ)(正善院(しょうぜんいん))の屋敷(やしき)に、椨(たぶのき)の巨木(きょぼく)があります。
田代家(たしろけ)では、その樹(き)を、
「老木(ろうぼく)となって自然(しぜん)に枯れる(かれる)のは構わない(かまわない)が、どのような事(こと)があっても、絶対(ぜったい)に切り倒しては(きりたおしては)ならない。」
と、言い伝えて(いいつたえて)いますので、訳(わけ)を聞き(きき)ますと、その椨(たぶのき)にある大きな(おおきな)洞(うろ)に、大昔(おおむかし)から屋敷(やしき)を護る(まもる)大蛇(おおへび)が棲み着いて(すみついて)いるためだというのです。
今(いま)の世(よ)に大蛇(おおへび)が棲む(すむ)などと言えば(いえば)、民話(みんわ)の世界(せかい)の事(こと)だと笑われ(わらわれ)そうですが、この大蛇(おおへび)の話(はなし)は本当(ほんとう)なのです。昭和四十一年(しょうわよんじゅういちねん)(一九六六)に、田代家(たしろけ)と、近く(ちかく)の生稲青果店(いくいなせいかてん)の奥(おく)さんが二人(ふたり)揃って(そろって)、椨(たぶのき)のそばの歩道(ほどう)を横切ろう(よこぎろう)としている大蛇(おおへび)の姿(すがた)を見た(みた)からです。頭(あたま)と尾(お)は歩道(ほどう)の両側(りょうがわ)の草木(くさき)に隠れて(かくれて)見えなかった(みえなかった)が、黒く(くろく)光る(ひかる)長い(ながい)胴(どう)の太さ(ふとさ)が、一升瓶(いっしょうびん)ほどもあったので、二人(ふたり)はびっくり仰天(ぎょうてん)、大声(おおごえ)を上げて(あげて)人(ひと)を呼んだ(よんだ)のですが・・・。
しかし、その声(こえ)を聞きつけた(ききつけた)田代家(たしろけ)の老母(ろうば)は、少しも(すこしも)驚かず(おどろかず)言い(いい)ました。
「その大蛇(おおへび)は椨(たぶのき)に棲んで(すんで)いるもんだ、昔(むかし)はちょくちょく出て来た(でてきた)よ。」
豊岡(とよおか)のある人(ひと)が、大東亜戦争(だいとうあせんそう)が終った(おわった)年(とし)(一九四五)に、大房岬(たいぶさみさき)で白い(しろい)大蛇(だいじゃ)を見た(みた)そうです。
大房岬(たいぶさみさき)は長い(ながい)間(あいだ)、日本帝国陸軍(にほんていこくりくぐん)の要塞(ようさい)だったので、一般(いっぱん)の人(ひと)は立ち入り禁止(たちいりきんし)でしたが、終戦(しゅうせん)で自由(じゆう)になったため、進駐軍(しんちゅうぐん)(アメリカ兵)が破壊(はかい)した要塞跡(ようさいあと)を一目(ひとめ)見よう(みよう)とする者(もの)が、幾人(いくにん)も入り込み(はいりこみ)ました。
豊岡(とよおか)の人(ひと)もその一人(ひとり)だったのですが、地面(じめん)が暗く(くらく)なるほど茂った(しげった)木々(きぎ)の中(なか)に構築(こうちく)されている要塞(ようさい)を見て(みて)いますと、後(うしろ)の方(ほう)から、みしみしと大きな(おおきな)音(おと)を立てて(たてて)、長さ(ながさ)が十(じゅう)メートルもある白い(しろい)大蛇(だいじゃ)が、二本(にほん)の舌(した)をペロペロ出し(だし)近づいて来た(ちかづいてきた)というのです。
びっくり仰天(ぎょうてん)した豊岡(とよおか)の人(ひと)は、何処(どこ)をどう走った(はしった)か夢中(むちゅう)で逃げ(にげ)、無事(ぶじ)に家(いえ)に帰った(かえった)ものの、恐ろしさ(おそろしさ)の余り(あまり)口(くち)も利けず(きけず)に、三日(みっか)も寝込んで(ねこんで)しまったそうです。
幾日(いくにち)かして、その話(はなし)を聞いた(きいた)人(ひと)たちも、
「大房岬(たいぶさみさき)は、秘密(ひみつ)の要塞(ようさい)を隠す(かくす)ため、茂らせた(しげらせた)大木(たいぼく)で深山(しんざん)のようになっているし、周り(まわり)の断崖(だんがい)には弁天窟(べんてんくつ)など洞窟(どうくつ)が七つ(ななつ)もあるので、大蛇(だいじゃ)はその何処(どこ)かに潜んで(ひそんで)いたのだろう。岬(みさき)を守る(まもる)兵隊(へいたい)がいなくなったので、人(ひと)の前(まえ)に現れる(あらわれる)ようになったのかも知れない(しれない)。」と言い合って(いいあって)震えた(ふるえた)そうです。
宮本(みやもと)の字(あざ)・堂入(どういり)の山中(さんちゅう)に、青砥権現(あおとごんげん)の石宮(いしみや)を祀る(まつる)大岩(おおいわ)がありますが、その辺り(あたり)に、大蛇(おおへび)になったヤマカガシが昭和四十年(しょうわよんじゅうねん)(一九六五)代(だい)まで棲んで(すんで)いました。
野蕗(のぶき)が大きく(おおきく)育つ(そだつ)頃(ころ)になりますと、山裾(やますそ)まで姿(すがた)を現し(あらわし)、蕗取り(ふきとり)に来た(きた)人達(ひとたち)を驚かせた(おどろかせた)話(はなし)や、街(まち)の方(ほう)から嫁(よめ)に来た(きた)ばかりで大蛇(だいじゃ)のいる事(こと)を知らない(しらない)農婦(のふ)が、その大蛇(おおへび)を踏み付け(ふみつけ)、びっくり仰天(ぎょうてん)した話(はなし)が残って(のこって)います。
ある年(とし)の夕暮れ時(ゆうぐれどき)、農婦(のうふ)が山畑(やまばたけ)から草(くさ)の生えた(はえた)坂道(さかみち)を駆け下って来ます(かけくだってきます)と、物(もの)を踏み付けた(ふみつけた)感じ(かんじ)がしましたので、何(なに)かなと思い(おもい)ますと、突然(とつぜん)目(め)の前(まえ)に一尺(いっしゃく)(約三十センチ(やくさんじゅっセンチ))も幅(はば)のある、赤黒い(あかぐろい)板(いた)のような物(もの)が立ち上がり(たちあがり)ました。自分(じぶん)の背丈(せたけ)より高かった(たかかった)ので、びっくりして上(うえ)を見上げ(みあげ)ますと、またびっくり。そこには恐ろしい(おそろしい)大蛇(おおへび)の三角(さんかく)な頭(あたま)があったのです。「ぎやーっ」っと叫んだ(さけんだ)農婦(のうふ)は、後(うしろ)の方(ほう)へ飛び跳ね(とびはね)腰(こし)を抜かして(ぬかして)しまいました。
しかし、もっとびっくりしたのは大蛇(おおへび)の方(ほう)です。いきなり尾(お)を勢い(いきおい)よく踏まれた(ふまれた)から、その反動(はんどう)で、棒立ち(ぼうだち)になったのです。大蛇(おおへび)が板(いた)のようになったのは、敵(てき)に襲われた(おそわれた)と思った(おもった)ので、自分(じぶん)の姿(すがた)を相手(あいて)に大きく(おおきく)見せよう(みせよう)と、胴体(どうたい)を平たく(ひらたく)したのです。
昔(むかし)の漁師(りょうし)は、納屋(なや)を持つ(もつ)家(いえ)が少なかった(すくなかった)ので、漁網(ぎょもう)などを母屋(おもや)の天井(てんじょう)にしまい入れる(いれる)事(こと)がありました。
しかし、そういう所(ところ)には必ず(かならず)ネズミが巣(す)を作り(つくり)、大切(たいせつ)な網(あみ)を噛み切られ(かみきられ)困った(こまった)ものでした。ところが良く(よく)したもので、お金(かね)を掛けず(かけず)にネズミの害(がい)を防ぐ(ふせぐ)方法(ほうほう)があったのです。それは、青大将(あおだいしょう)と呼ぶ(よぶ)蛇(へび)に棲み付いて(すみといて)もらう事(こと)でした。何しろ(なにしろ)青大将(あおだいしょう)は猫(ねこ)と違い(ちがい)、どんな狭い(せまい)所(ところ)でも入って(はいって)行き(いき)、ネズミを残らず(のこらず)呑み込んで(のみこんで)しまうからです。
と言い(いい)ましても、青大将(あおだいしょう)にも都合(つごう)がありますから、どこの家(いえ)にも棲む(すむ)訳(わけ)ではありません。ですから、漁師(りょうし)は、もし自分(じぶん)の家(いえ)に青大将(あおだいしょう)が棲み付こう(すみつこう)ものなら、福(ふく)の神(かみ)のように有り難く(ありがたく)思い(おもい)、感謝(かんしゃ)の気持(きもち)を込めて(こめて)、ときどき青大将(あおだいしょう)の好物(こうぶつ)の鶏卵(けいらん)を与えた(あたえた)のです。
話(はなし)は少し(すこし)変わり(かわり)ますが、漁師(りょうし)は蛇(へび)の事(こと)を、「長(なが)もん」と呼び(よび)ます。どういう理由(りゆう)か分かり(わかり)ませんが蛇(へび)とは呼ばない(よばない)のです。そして長(なが)もんの代表(だいひょう)である青大将(あおだいしょう)は、篤く(あつく)信仰(しんこう)する弁財天(べんざいてん)の使い(つかい)なので、殺せば(ころせば)必ず(かならず)崇り(たたり)があって出漁(しゅつりょう)のたびに海(うみ)が荒れる(あれる)と思って(おもって)います。
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