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大正(たいしょう)の大武岬(たいぶさき)
 大正六年(たいしょうろくねん)(一九一七)に、深名出身(ふかなしゅっしん)の羽山常太郎(はやまつねたろう)さんが発行(はっこう)した『安房(あわ)の傳説(でんせつ)』の中(なか)から、大武岬(たいぶさき)の説明文(せつめいぶん)を抜き書き(ぬきがき)しました。
 現在(げんざい)、自然公園(しぜんこうえん)になっている大房岬(たいぶさみさき)の昔(むかし)の様子(ようす)を知る(しる)上(うえ)で、たいへん参考(さんこう)になりますのでお読み(よみ)下さい(ください)。なお、説明文(せつめいぶん)の中(なか)に出て(でて)くる汽船(きせん)は、当時(とうじ)、東京(とうきょう)の霊岸島(れいがんじま)(隅田川河口(すみだがわかこう))と、房州館山港(ぼうしゅうたてやまこう)を往復(おうふく)していた内湾汽船(ないわんきせん)の事(こと)です。房州(ぼうしゅう)に、まだ鉄道(てつどう)が無かった(なかった)ので、汽船(きせん)には乗客(じょうきゃく)がたくさんありました。
 
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船形城(ふなかたじょう)
 館山市船形(たてやましふなかた)と富浦町深名(とみうらまちふかな)の境(さかい)に、二位山(にいやま)と呼ばれる(よばれる)小高い(こだかい)山(やま)があります。八束(やつか)の人達(ひとたち)には、大石山(おおいしやま)(昔(むかし)、大隅内閣(おおすみないかく)の農商相(のうしょうしょう)だった大石正巳(おおいしまさみ)の別荘(べっそう)があった山(やま))と言った(いった)方(ほう)が良く(よく)分かり(わかり)ますが、そこに、昔(むかし)、船形城(ふなかたじょう)と呼ぶ(よぶ)城(しろ)がありました。
 富浦町(とみうらまち)には、宮本城(みやもとじょう)や岡本城(おかもとじょう)という房総里見氏(ぼうそうさとみし)の築いた(きずいた)有名(ゆうめい)な城跡(じょうせき)がありますから、船形城(ふなかたじょう)と言っても(いっても)、他所(よそ)の土地(とち)の話(はなし)と思い(おもい)、興味(きょうみ)を持たない(もたない)人(ひと)が多い(おおい)ようですが、二位山(にいやま)は尾根(おね)より北側(きたがわ)、つまり城跡(じょうせき)の半分(はんぶん)は深名地(ふかなじ)ですから、富浦町(とみうらまち)の人達(ひとたち)も知って(しって)おかねばならない事(こと)ですね。
 城(しろ)の遺構(いこう)としては、頂上(ちょうじょう)に屋形(やかた)のあった平地(へいち)があり、山(やま)の西端(せいたん)には、隣り(となり)の堂山(どうやま)(船形崖観音(ふなかたがけかんのん)のある山(やま))から敵(てき)を攻め込ませない(せめこませない)ための切り割り(きりわり)があります。又(また)、山(やま)の北側(きたがわ)には、城兵(じょうへい)の使った(つかった)直径(ちょっけい)五(ご)メートルほどの大井戸(おおいど)があります。
 この城(しろ)は、鎌倉時代(かまくらじだい)から室町時代(むろまちじだい)にかけ、東京湾(とうきょうわん)に面して(めんして)いる安房国(あわのくに)の西部(せいぶ)を支配(しはい)した安西氏(あんざいし)が築いた(きずいた)という説(せつ)があります。安西氏(あんざいし)は頼朝(よりとも)の再興(さいこう)に力(ちから)を貸した(かした)豪族(ごうぞく)で、後(のち)には房総里見氏(ぼうそうさとみし)の家臣(かしん)となりましたが、水軍(すいぐん)として大きな(おおきな)力(ちから)を持って(もって)いましたから、船形(ふなかた)や川名(かわな)の海(うみ)を支配(しはい)するための城(しろ)にしたのでしょう。
 しかし、それだけではなく、城(しろ)の北方(ほっぽう)に広がる(ひろがる)、青木(あおき)・深名(ふかな)・福澤(ふくざわ)の大きな(おおきな)水田(すいでん)の原(はら)を支配下(しはいか)に置く(おく)ためのものだったとも、考えられる(かんがえられる)のです。代々(だいだい)の城主(じょうしゅ)名は不明(ふめい)ですが、『安房志(あわし)』には、天正十八年(てんしょうじゅうはちねん)(一五九〇)の頃(ころ)の城主(じょうしゅ)は、安西肥後守光勝(あんざいひごのかみみつかつ)と書かれて(かかれて)います。
 なお、二位山(にいやま)の北側(きたがわ)には大半津(だいはんづ)とか駒磯(こまいそ)と呼ぶ(よぶ)字(あざ)の所(ところ)があります。興味(きょうみ)をそそる地名(ちめい)ですね。船形城(ふなかたじょう)が築かれた(きずかれた)のは何時(いつ)の頃(ころ)か定か(さだか)ではありませんが、昔(むかし)は海面(かいめん)が今(いま)より高く(たかく)、岡本川(おかもとがわ)より、大津(おおつ)・宮本(みやもと)・福澤方面(ふくざわほうめん)まで海水(かいすい)が入り込んで(はいりこんで)いましたので、そこは、船形城(ふなかたじょう)の兵達(へいたち)が、船(ふね)を引き入れた(ひきいれた)津(つ)(湊(みなと))や、荷物(にもつ)を運んだり(はこんだり)、兵(へい)が乗ったり(のったり)する馬(うま)を繋ぐ(つなぐ)磯(いそ)だったのかも知れ(しれ)ませんね。
 
 
大房(たいぶさ)の竜(りゅう)の口(くち)
 大房不動尊(たいぶさふどうそん)の境内(けいだい)に、大昔(おおむかし)から大きな(おおきな)石造り(いしづくり)の竜(りゅう)の口(くち)がありました。明治三十三年(めいじさんじゅうさんねん)(一九〇〇)、帝国海軍(ていこくかいぐん)が岬(みさき)を射的場(しゃてきじょう)としたため、堂舎(どうしゃ)と共(とも)に野房(のぼう)へ移り(うつり)ましたが、その竜(りゅう)の口(くち)は、滝(たき)の水(みず)を休み(やすみ)なくほとばしっていたため、境内一番(けいだいいちばん)の名物(めいぶつ)だったそうです。
 新しい(あたらしい)竜(りゅう)の口(くち)を造って(つくって)昔(むかし)の位置(いち)に復元(ふくげん)したのは平成七年(へいせいしちねん)(一九九五)ですが、町内(ちょうない)でもまだ知らない(しらない)人(ひと)がいるようですね。不動尊(ふどうそん)の境内跡(けいだいあと)は、自然公園(しぜんこうえん)の広い(ひろい)芝生(しばふ)と連なり(つらなり)、訪れる(おとずれる)のにはたいへん楽(らく)ですから、皆(みな)さんも一度(いちど)出掛けて(でかけて)、新しく(あたらしく)据えられた(すえられた)竜(りゅう)の口(くち)を眺めて(ながめて)見(み)ませんか。竜(りゅう)の口(くち)の傍ら(かたわら)には、不動滝(ふどうたき)の落ちて(おちて)いる断崖(だんがい)や行者(ぎょうじゃ)の窟(いわや)と呼ばれる(よばれる)場所(ばしょ)が残って(のこって)いますので、昔年(せきねん)の情景(じょうけい)を思い浮かべる(おもいうかべる)事(こと)ができます。
 なを、知る(しる)人(ひと)は少なく(すくなく)なっていると思い(おもい)ますが、昔(むかし)の竜(りゅう)の口(くち)には、宝珠(ほうしゅ)を握った(にぎった)厳めしい(いかめしい)手(て)が付いて(ついて)いたのです。その竜(りゅう)の手(て)も、本体(ほんたい)の竜(りゅう)の口(くち)と共(とも)に大房(たいぶさ)から移され(うつされ)ましたが、別けられて(わけられて)、瀧淵神社(たきぶちじんじゃ)の宮司(ぐうじ)・代田家(しろたけ)に所蔵(しょぞう)されています。興味(きょうみ)のある人(ひと)は代田家(しろたけ)を尋ね(たずね)、見せて(みせて)貰う(もらう)とよいですね。その竜(りゅう)の宝珠(ほうしゅ)を見た(みた)人(ひと)は、きっと幸運(こううん)を与えられる(あたえられる)筈(はず)です。
 
 
弁天前(べんてんめえ)
大房(たいぶさ)の鼻(はな)に、弁財天(べんざいてん)の石宮(いしみや)を祀った(まつった)洞窟(どうくつ)があります。そのため多田良(ただら)の人(ひと)たちは、洞窟(どうくつ)の前(まえ)の海(うみ)を、「弁天前(べんてんめえ)」と呼ぶ(よぶ)訳(わけ)ですが・・・。実(じつ)は、多田良(ただら)の人(ひと)たちの口(くち)から発する(はっする)、その言葉(ことば)の響き(ひびき)の中(なか)には、恐ろしさ(おそろしさ)や、薄気味悪さ(うすきみわるさ)が秘められて(ひめられて)いるのです。何故(なぜ)でしょう。
 弁天前(べんてんめえ)の海(うみ)となんの係わり(かかわり)の無い(ない)私(わたし)たちが、上(うえ)の展望台(てんぼうだい)から眺め(ながめ)ますと、すばらしい景観(けいかん)であり、魚介類(ぎょかいるい)の宝庫(ほうこ)であり、しかも楽しい(たのしい)民話(みんわ)の舞台(ぶたい)であるとも感じる(かんじる)のですが、多田良(ただら)に住む(すむ)人(ひと)たちは、弁天前(べんてんめえ)は、特別(とくべつ)に激しい(はげしい)潮(しお)の流れ(ながれ)のところがあったり、隠れ岩礁(かくれがんしょう)がたくさんある、恐ろしい(おそろしい)魔(ま)の海(うみ)だからです。
 大房(たいぶさ)の海(うみ)を知り(しり)ぬいている地元(じもと)の漁師(りょうし)は近寄り(ちかより)ませんから、何(なに)も起らない(おこらない)のですが、昔(むかし)は、通りかかった(とおりかかった)他村(たそん)の船(ふね)が、よく難破(なんぱ)したのです。又(また)、サザエやアワビがたくさんあるからと、海底(かいてい)の岩棚(いわだな)に潜った(もぐった)人(ひと)が、打ち寄せる(うちよせる)波(なみ)の力(ちから)で脱出(だっしゅつ)できぬことも起きる(おきる)のです。
 そんな恐ろしい(おそろしい)海(うみ)が目(め)の前(まえ)にある洞窟(どうくつ)ですから、千三百年(せんさんびゃくねん)も前(まえ)に、伊豆(いず)の大島(おおしま)から飛んで来た(とんできた)役小角(えんのおづぬ)が、旅(たび)の船(ふね)や漁船(ぎょせん)を難(なん)から救おう(すくおう)と、弁財天(べんざいてん)を祀った(まつった)のかも知れ(しれ)ませんね。
 


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