自殺(じさつ)の名所(めいしょ)
「○○さんの姿(すがた)が見えない(みえない)ので、もしもの事(こと)(自殺(じさつ))があってはいけないと思い(おもい)、南無谷(なむや)の堰(せき)の様子(ようす)を聞く(きく)と、何(なに)も無い(ない)というので嬉しかった(うれしかった)が、枡ヶ池(ますがいけ)を見に行く(みにいく)と予想(よそう)した通り(とおり)だった。」という意味(いみ)の古い(ふるい)里唄(さとうた)です。
聖山(ひじりやま)(岡本城(おかもとじょう))の枡ヶ池(ますがいけ)は、戦国時代(せんごくじだい)に房総里見氏(ぼうそうさとみし)が大事(だいじ)な飲料水(いんりょうすい)を溜めた(ためた)池(いけ)ですので、昔(むかし)から地元(じもと)の人(ひと)が、それを守ろう(まもろう)としたのでしょう。「池(いけ)を汚す(よごす)と、中(なか)に棲む(すむ)白蛇(はくじゃ)(里見氏(さとみし)のお姫様(ひめさま)の霊魂(れいこん))が人(ひと)を引き摺り込んで(ひきずりこんで)しまう。」と言って(いって)、皆(みな)を近付けない(ちかづけない)ようにしていたのです。
ところが世(よ)の中(なか)は不思議(ふしぎ)なもので、そんな恐ろしい(おそろしい)魔(ま)の池(いけ)なら、そこで自殺(じさつ)をと考える(かんがえる)人(ひと)が出(で)たり、又(また)それを真似(まね)する人(ひと)も出(で)ます。枡ヶ池(ますがいけ)は明治の頃に自殺の名所となってしまったのです。
池(いけ)のそばに、近く(ちかく)のお寺(てら)(光厳寺(こうごんじ)・興禅寺(こうぜんじ)・海禅寺(かいぜんじ)・満蔵寺(まんぞうじ))が共同(きょうどう)で立てた(たてた)。享和三年(きょうわさんねん)(一八〇三)の萬霊塔(ばんれいとう)がありますが、そこには枡ヶ池(ますがいけ)の民話(みんわ)に出て(でて)くる川釣り(かわづり)の好き(すき)だった老人(ろうじん)を筆頭(ひっとう)に、十四名(じゅうよんめい)の戒名(かいみょう)が刻まれて(きざまれて)います。塔(とう)を見て(みて)悲しさ(かなしさ)を感じる(かんじる)のは、大方(おおかた)の戒名(かいみょう)が嫁姑(よめしゅうと)の争い(あらそい)に負けた(まけた)嫁(よめ)さんや、恋(こい)に破れた(やぶれた)若い(わかい)娘(むすめ)さんのものだからでしょう。
大正十二年(たいしょうじゅうにねん)(一九二二)のときのような大地震(おおじしん)が起きた(おきた)場合(ばあい)、本当(ほんとう)に恐ろしい(おそろしい)のは、地面(じめん)が激しく(はげしく)揺れて(ゆれて)建物(たてもの)が崩壊(ほうかい)する事(こと)よりも、その後(ご)に起きる(おきる)恐れ(おそれ)のある、火災(かさい)や津波(つなみ)だと言われて(いわれて)います。
特(とく)に津波(つなみ)は、時速(じそく)二百キロ(にひゃっキロ)ぐらいで押し寄せ(おしよせ)、その波(なみ)が引く(ひく)ときは、木造(もくぞう)の家(いえ)など板切れ(いたきれ)一枚(いちまい)残さず(のこさず)沖(おき)へさらっていきますので、海沿い(うみぞい)に住む(すむ)人(ひと)たちは、津波情報(つなみじょうほう)が入ったら(はいったら)一目散(いちもくさん)に高い(たかい)所(ところ)へ避難(ひなん)した方(ほう)が良い(よい)ですね。
富浦(とみうら)には、今(いま)まで大津波(おおつなみ)が寄せた(よせた)と言う(いう)文書(もんじょ)の記録(きろく)はありませんが、言い伝え(いいつたえ)ではのこっているのです。多田良(たたら)、『迎え(むかえ)の背(せ)』と呼ばれる(よばれる)所(ところ)(字(あざ)・篠瀬(しのせ)。地形(ちけい)は砂丘(さきゅう)の台地(だいち))がありますが、そこは元禄十六年(げんろくじゅうろくねん)(一七〇三)に起きた(おきた)大地震(おおじしん)(震源地(しんげんち)・房州白浜沖(ぼうしゅうしらはまおき))のとき、津波(つなみ)が来る(くる)のを察知(さっち)した岡本(おかもと)の人(ひと)たちが、逃げて来て(にげてきて)登り(のぼり)、助かった(たすかった)所(ところ)だというのです。
迎え(むかえ)の背(せ)の地名(ちめい)は、災害(さいがい)から逃れよう(のがれよう)とする人(ひと)たちを迎え入れた(むかえいれた)背(せ)という事(こと)で、後(のち)に名付けられた(なづけられた)のですが、そこに登った(のぼった)人(ひと)たちは、目(め)の前(まえ)の岡本(おかもと)の街(まち)に荒れ狂う(あれくるう)大津波(おおつなみ)に肝(きも)を冷し(ひやし)、命(いのち)の助かった(たすかった)事(こと)を喜び(よろこび)あったそうです。
参考(さんこう)のために追記(ついき)しますが、この元禄大地震(げんろくおおじしん)のときには、那古観音(なごかんのん)の山裾(やますそ)にも津波(つなみ)が打ち付け(うちつけ)、街(まち)の民家(みんか)と山頂(さんちょう)から倒潰(とうかい)して転落(てんらく)した観音堂(かんのんどう)が、残らず(のこらず)流失(りゅうしつ)したと言い伝えられて(いいつたえられて)います。震源地(しんげんち)に近い(ちかい)外房沿岸(そとぼうえんがん)の集落(しゅうらく)の被害(ひがい)は甚大(じんだい)で、津波(つなみ)による死者(ししゃ)が五千人(ごせんにん)を超え(こえ)ました。
徳川時代(とくがわじだい)、江戸葛飾(えどかつしか)の大川辺り(おおがわあたり)に、遊観好き(ゆうかんずき)な楓川堂寛雲(ふうせんどうかんうん)という人(ひと)が住んで(すんで)いました。
毎年(まいとし)のように旅(たび)をし、弘化三年(こうかさんねん)(一八四六)の九月(くがつ)には安房(あわ)にも来(き)ましたが、その時(とき)の風物(ふうぶつ)や感想(かんそう)を書いた(かいた)『房廼邦紀行(ふさのくにきこう)』が国会図書館(こっかいとしょかん)に所蔵(しょぞう)されていますので、文中(ぶんちゅう)の富浦地区(とみうらちく)の部分(ぶぶん)を抜き書き(ぬきがき)して見(み)ました。当時(とうじ)の情景(じょうけい)を想像(そうぞう)しつつお読み(よみ)下さい(ください)。
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明治四十一年(めいじよんじゅういちねん)(一九〇八)に発行(はっこう)された、『安房志(あわし)』(著者(ちょしゃ)・斎藤夏之助(さいとうなつのすけ))の中から「大武岬(たいぶさき)」の部分(ぶぶん)を、抜き書き(ぬきがき)しました。安房志(あわし)は、房総(ぼうそう)の郷土史(きょうどし)を研究(けんきゅう)する者(もの)にとって、一度(いちど)、目(め)を通さねば(とおさねば)ならぬ貴重(きちょう)な文献(ぶんけん)ですから、本来(ほんらい)なら原文(げんぶん)のままが良い(よい)のですが、富浦(とみうら)の昔話(むかしばなし)として、小(しょう)・中学生(ちゅうがくせい)に読んで(よんで)貰う(もらう)には無理(むり)ですので、現代語(げんだいご)に直して(なおして)あります。江戸時代(えどじだい)や、大正(たいしょう)・昭和(しょうわ)に書かれた(かかれた)大房(たいぶさ)の話(はなし)と比較(ひかく)し、どんな違い(ちがい)があるかを見付けて(みつけて)下さい(ください)。
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この文章(ぶんしょう)の中(なか)に、『島(しま)があり増間(ますま)という』と書かれて(かかれて)いますが、たいへん興味(きょうみ)を感じ(かんじ)ます。実(じつ)は、増間島(ますまじま)という島名(とうめい)が書物(しょもつ)に出た(でた)のは、この『安房志(あわし)』が初めて(はじめて)だからです。有名(ゆうめい)な増間(ますま)の馬鹿話(ばかばなし)の一つ(ひとつ)、「増間島(ますまじま)の由来(ゆらい)」が出来上がった(できあがった)のは案外(あんがい)新しく(あたらしく)、明治(めいじ)の頃(ころ)かも知れ(しれ)ませんね。
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