日本財団 図書館


鉱泉(こうせん)の利用(りよう)を薦める(すすめる)
 平成六年(へいせいろくねん)(一九九四)頃(ころ)に調べた(しらべた)記録(きろく)ですが、千葉県内(ちばけんない)には温泉(おんせん)や鉱泉(こうせん)の源泉(げんせん)が百二ヶ所(ひゃくにかしょ)あると言われ(いわれ)、その内(うち)六十七ヶ所(ろくじゅうななかしょ)に施設(しせつ)があり利用(りよう)されているそうですね。わが町(まち)の近く(ちかく)では、富山町高崎(とみやままちたかさき)の岩婦鉱泉(いわぶこうせん)や小浦(こうら)の弁天鉱泉(べんてんこうせん)があり、館山市正木(たてやましまさき)には横山鉱泉(よこやまこうせん)があり、いずれも商売繁盛(しょうばいはんじょう)と聞き(きき)ます。これは取りも直さず(とりもなおさず)諸病(しょびょう)に効能(こうのう)があるからでしょう。
 楽しい(たのしい)旅行(りょこう)に出かけ(でかけ)、遠く(とおく)の有名温泉(ゆうめいおんせん)にはいるのも大変(たいへん)結構(けっこう)ですが、せっかく地元(じもと)のわが町(まち)でも有名温泉(ゆうめいおんせん)に劣らない(おとらない)効能(こうのう)をもつ鉱泉(こうせん)が、湧き出て(わきでて)いるのですから利用(りよう)しない手(て)はないですね。
 わが町内(ちょうない)で現在(げんざい)鉱泉(こうせん)が湧き出て(わきでて)いる地域(ちいき)は、筆者(ひっしゃ)の知る(しる)かぎりで言い(いい)ますと、南無谷(なむや)、豊岡(とよおか)、福澤(ふくざわ)、深名(ふかな)、宮本(みやもと)、大津(おおつ)、居倉(いぐら)、青木山(あおきやま)などですが、他(ほか)の地域(ちいき)でも深く(ふかく)掘り下げれば(ほりさげれば)湧き出す(わきだす)可能性(かのうせい)があります。泉質(せんしつ)は塩素(えんそ)や硫化水素(りゅうかすいそ)などが中心(ちゅうしん)の硫黄泉(いおうせん)です。温度(おんど)が二十五度以下(にじゅうごどいか)ですので、風呂(ふろ)に使う(つかう)には加熱(かねつ)しなければなりませんが、神経痛(しんけいつう)、筋肉痛(きんにくつう)、痔疾(じしつ)、切り傷(きりきず)、皮膚病(ひふびょう)などに効き(きき)ます。
 昔(むかし)から町内(ちょうない)に伝わる(つたわる)鉱泉(こうせん)を利用(りよう)した話(はなし)は、豊岡(とよおか)で目(め)の病(やまい)に効く(きく)と言って(いって)、星山薬師(ほしやまやくし)の所(ところ)の湯花(ゆばな)(鉱泉(こうせん))を汲み上げ(くみあげ)使った(つかった)ことや、宮本(みやもと)では冷え症(ひえしょう)に良い(よい)からと、不動堂前(ふどうどうまえ)の川(かわ)へ湧き出た(わきでた)湯花(ゆばな)を汲み上げ(くみあげ)、風呂(ふろ)に入れた(いれた)ことが語られて(かたられて)います。いずれの話(はなし)も生活(せいかつ)の知恵(ちえ)として鉱泉(こうせん)の効能(こうのう)を知り(しり)、大自然(だいしぜん)と神仏(しんぶつ)の恵み(めぐみ)に感謝(かんしゃ)して利用(りよう)していたことが分かり(わかり)ます。
 ですが一方(いっぽう)では、飲料水(いんりょうすい)を求めて(もとめて)せっかく井戸(いど)を掘った(ほった)のに、薄黒くて(うすぐろくて)硫黄(いおう)の匂い(におい)のする水(みず)が出て(でて)使いもの(つかいもの)にならず困った(こまった)とか、塩分(えんぶん)が多くて(おおくて)水揚げ(みずあげ)ポンプがすぐ壊れて(こわれて)しまったという話(はなし)が残って(のこって)いますので、鉱泉(こうせん)が敬遠(けいえん)された面(めん)もなかった訳(わけ)ではありません。
 しかし今(いま)は、塩分(えんぶん)に強い(つよい)ポンプが開発(かいはつ)されていますので、もし自分(じぶん)の所有地(しょゆうち)から鉱泉(こうせん)が出る(でる)なら、それを大い(おおい)に利用(りよう)すべきだと思い(おもい)ます。便利(べんり)な水道(すいどう)があり、色々(いろいろ)の種類(しゅるい)の入浴剤(にゅうよくざい)も売って(うって)いますので、わざわざお金(かね)をかけ鉱泉(こうせん)を汲み上げて(くみあげて)使う(つかう)のは、不経済(ふけいざい)だという考え(かんがえ)もあるかと思い(おもい)ますが、本物(ほんもの)の鉱泉(こうせん)に毎日(まいにち)入る(はいる)ことによって、家族中(かぞくじゅう)が健康(けんこう)で働き(はたらき)、長生き(ながいき)できるなら、その方(ほう)がどれだけ有意義(ゆういぎ)か分かり(わかり)ません。
 参考(さんこう)のため、福澤(ふくざわ)の忍足三郎(おしたりさぶろう)さんが富浦小学校長時代(とみうらしょうがっこうちょうじだい)の昭和三十七年(しょうわさんじゅうななねん)(一九六二)、豊岡(とよおか)の満蔵寺(まんぞうじ)の井戸(いど)より研究(けんきゅう)のため採取(さいしゅ)して、千葉県衛生研究所(ちばけんえいせいけんきゅうじょ)に調べ(しらべ)させた鉱泉分析書(こうせんぶんせきしょ)がありますので転載(てんさい)します。これは富浦全域(とみうらぜんいき)から湧き出す(わきだす)鉱泉(こうせん)のものと同じ(おなじ)と考えられ(かんがえられ)ます。
 
(拡大画面:64KB)
 
多寿花(だしのはな)
 江戸(えど)から明治(めいじ)・大正(たいしょう)の時代(じだい)にかけて、富浦(とみうら)の代表的(だいひょうてき)な物産(ぶっさん)に、「多寿花(だしのはな)」と呼ぶ(よぶ)醤油(しょうゆ)がありました。その醤油(しょうゆ)の醸造販売(じょうぞうはんばい)を行った(おこなった)人(ひと)は、汐入(しおいり)に住んで(すんで)いた川名宗兵衛(かわなそうべえ)で、嘉永年間(かえいねんかん)(一八四八〜一八五三)に、汐入川上流(しおいりがわじょうりゅう)の地(ち)から、原料(げんりょう)や製品(せいひん)の搬入積送(はんにゅうせきそう)に便利(べんり)な汐入川(しおいりがわ)の川口(かわぐち)に店舗(てんぽ)を移し(うつし)ますと、大規模(だいきぼ)に醸造(じょうぞう)を開始(かいし)したのです。
 そして、醸造(じょうぞう)した醤油(しょうゆ)「多寿花(だしのはな)」は自ら(みずから)販売(はんばい)しようと努力(どりょく)して、勝山(かつやま)や岩井(いわい)など近隣(きんりん)の村々(むらむら)に販路(はんろ)を確保(かくほ)。明治五年(めいじごねん)(一八七二)には、年間(ねんかん)百五十石(ひゃくごじゅっこく)醸造(じょうぞう)し、冥加金(みょうがきん)(役所(やくしょ)が営業所(えいぎょうしょ)に対して(たいして)課税(かぜい)した金銭(きんせん))四両二分(よんりょうにぶ)を上納(じょうのう)するほどになりました。
 更(さら)に川名家(かわなけ)は、明治十二年(めいじじゅうにねん)(一八七九)頃(ころ)には、自家用運搬船(じかよううんぱんせん)・八幡丸(はちまんまる)を所有(しょゆう)して、販路(はんろ)を三崎(みさき)、伊豆(いず)、大島(おおしま)にまで拡張(かくちょう)し、このほか、東京(とうきょう)と大島間(おおしまかん)で薪(まき)や木炭(もくたん)などの燃料(ねんりょう)の運搬(うんぱん)も行い(おこない)ましたから、大い(おおい)に盛況(せいきょう)をきわめたのですが・・・。
 しかし、川名家(かわなけ)にとっては、大正七年(たいしょうしちねん)(一九一八)頃(ころ)に、原岡字亀井(はらおかあざかめい)にあった日本(にほん)コナミルク株式会社(かぶしきがいしゃ)を買収(ばいしゅう)して営業(えいぎょう)を始めた(はじめた)のが運命(うんめい)の分れ路(わかれみち)だったようです。大正十二年(たいしょうじゅうにねん)(一九二三)の関東大震災(かんとうだいしんさい)によって工場(こうじょう)が破壊(はかい)され、更(さら)に経済不況(けいざいふきょう)の余波(よは)を受け(うけ)、企業(きぎょう)すべてを閉鎖(へいさ)する事(こと)になったからです。
 栄枯盛衰(えいこせいすい)は世(よ)の常(つね)。汐入川(しおいりがわ)の川口(かわぐち)に、大規模(だいきぼ)な石垣(いしがき)を積んだ(つんだ)屋敷跡(やしきあと)がありますが、その場所(ばしょ)が「多寿花(だしのはな)」の跡(あと)です。
 
枡が池(ますがいけ)
 大正六年(たいしょうろくねん)(一九一七)に、深名出身(ふかなしゅっしん)の羽山常太郎(はやまつねたろう)さんが発行(はっこう)した『安房(あわ)の傳説(でんせつ)』に、枡が池(ますがいけ)の話(はなし)が載って(のって)いますので、原文(げんぶん)のまま転記(てんき)しました。
 
 
 この文(ぶん)を読んで(よんで)気付き(きづき)ますのは、当時(とうじ)、東京(とうきょう)からの交通手段(こうつうしゅだん)だった蒸気船(じょうきせん)の上(うえ)から岡本城跡(おかもとじょうあと)を眺め(ながめ)、枡が池(ますがいけ)の様子(ようす)を想像(そうぞう)させる形(かたち)の説明(せつめい)をしている事(こと)と、枡が池(ますがいけ)は、戦国大名里見氏(せんごくだいみょうさとみし)の具足倉(ぐそくぐら)の遺跡(いせき)であろうと言って(いって)いる事(こと)です。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION