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女夫石(めおといし)の三角点(さんかくてん)
 丹生(にゅう)の字(あざ)・立作(たちさく)のNTT無線中継塔(むせんちゅうけいとう)から、居倉(いぐら)の字(あざ)・滝沢(たきざわ)の尾根(おね)を東(ひがし)へ向かって(むかって)五十(ごじゅう)メートルほど進み(すすみ)ますと、花崗岩(かこうがん)で作られた(つくられた)三角点(さんかくてん)の杭(くい)が打ち込まれて(うちこまれて)います。そこは、正式名称(せいしきめいしょう)を『女夫石(めおといし)の三角点(さんかくてん)』と言い(いい)ますが、役所(やくしょ)にしては粋(いき)な名(な)を付けた(つけた)ものですね。
 三角点(さんかくてん)とは、三角測量(さんかくそくりょう)の際(さい)の基準点(きじゅんてん)となっているところで、一等(いっとう)から四等(よんとう)までの等級(とうきゅう)があり、それらを結び(むすび)ますと、全国(ぜんこく)を覆う(おおう)三角網(さんかくもう)となります。富浦町内(とみうらちょうない)には、六ヶ所(ろっかしょ)(多田良(ただら)の大武佐(たいぶさ)。原岡(はらおか)の南床城(みなみとこしろ)。南無谷(なむや)の大塚(おおつか)。深名(ふかな)の堂山(どうやま)。宮本(みやもと)の仲尾沢(なかおざわ)。居倉(いぐら)の滝沢(たきざわ)。)あります。
 話(はなし)を女夫石(めおといし)の三角点(さんかくてん)に戻し(もどし)ますが、どうして、そういう名称(めいしょう)になったかの訳(わけ)は、三角点(さんかくてん)から更に(さらに)二十(にじゅう)メートルほど先(さき)へ進めば(すすめば)わかります。そこには、高さ(たかさ)二(に)メートル内外(ないがい)の女夫石(めおといし)と呼ばれる(よばれる)楕円形(だえんけい)の石(いし)が二個(にこ)と、もう一個(いっこ)の小さな(ちいさな)石(いし)があるのです。女夫石(めおといし)は、やっと人(ひと)が通れる(とおれる)くらいの間隔(かんかく)をおいて並び立ち(ならびたち)、小さな(ちいさな)石(いし)は、子供(こども)のようにぴったりと女夫石(めおといし)に寄り添って(よりそって)います。
 不思議(ふしぎ)なのは、その辺り(あたり)には外(ほか)の岩石(がんせき)が全く(まったく)無い(ない)のに、どうして、そこだけに楕円形(だえんけい)の石(いし)が三個(さんこ)だけあるのかです。山(やま)の神(かみ)が運んで(はこんで)来て(きて)、石組み(いしぐみ)をしたとしか思えない(おもえない)のです。又(また)、考えよう(かんがえよう)によっては、山(やま)の神(かみ)が通る(とおる)道(みち)の門柱(もんちゅう)とも言える(いえる)のです。三角点(さんかくてん)の杭(くい)を打ち込んだ(うちこんだ)役所(やくしょ)の人(ひと)たちも、この女夫石(めおといし)を見て(みて)、感動(かんどう)したのに違い(ちがい)ありませんね。
 
居倉(いぐら)の神楽石(かぐらいし)
 居倉(いぐら)の字(あざ)・滝沢(たきざわ)の尾根(おね)に、役所(やくしょ)が『女夫石(めおといし)』と呼んで(よんで)いる、楕円形(だえんけい)の石(いし)が大小(だいしょう)三個(さんこ)並んで(ならんで)立って(たって)います。
 人里(ひとざと)から遠く(とおく)離れて(はなれて)いるため、今(いま)は誰(だれ)も近寄り(ちかより)ませんが、神秘的(しんぴてき)な感じ(かんじ)のする石(いし)であり、場所(ばしょ)でもありますから、必ず(かならず)何か(なにか)伝説(でんせつ)が残って(のこって)いる筈(はず)だと、地元(じもと)の居倉(いぐら)の人(ひと)たちに聞き(きき)ますと、驚いた(おどろいた)ことに、誰(だれ)も女夫石(めおといし)という名(な)は知らず(しらず)、全く(まったく)別(べつ)の名(な)で呼んで(よんで)いるのです。
 石(いし)は千年(せんねん)も大昔(おおむかし)から『神楽石(かぐらいし)』と呼び(よび)、天狗(てんぐ)が御幣(ごへい)や神楽鈴(かぐらすず)を振り(ふり)ながら、飛んだり(とんだり)、舞ったり(まったり)した場所(ばしょ)だというのです。更に(さらに)続けて(つづけて)話(はなし)を聞いて(きいて)いますと、天狗(てんぐ)と言う(いう)のは修験者(しゅげんじゃ)で、その修験者(しゅげんじゃ)が加持祈祷(かじきとう)や呪術的(じゅじゅつてき)な行為(こうい)をする、神聖(しんせい)な場所(ばしょ)であったことが分かり(わかり)ました。修験者(しゅげんじゃ)は、青木山(あおきやま)の字(あざ)・鍛冶屋沢(かじやさわ)に住み(すみ)、熊野信仰(くまのしんこう)を広めて(ひろめて)いた穂積氏(ほずみし)を名乗る(なのる)人達(ひとたち)でした。
 ところで、女夫石(めおといし)と名(な)を付けた(つけた)のは誰(だれ)かと言う(いう)ことになりますが、それは尾根(おね)を境(さかい)とした北方(ほっぽう)の山(やま)を所有(しょゆう)する、岩井竹内(いわいたけのうち)の人達(ひとたち)だったのです。
 江戸時代(えどじだい)の話(はなし)ですが、自分(じぶん)の村(むら)の山(やま)に名(な)を付ける(つける)とき、尾根(おね)にある石(いし)を見て(みて)、仲(なか)の良い(よい)女夫(めおと)のようだと思い(おもい)、それに肖ろう(あやかろう)として、石(いし)も山(やま)も女夫石(めおといし)としたのです。そのような訳(わけ)があってか、竹内(たけのうち)では、八束(やつか)の居倉(いぐら)が女夫石(めおといし)を、神楽石(かぐらいし)と呼んで(よんで)いることなど誰(だれ)も知り(しり)ません。
 
北海道(ほっかいどう)に八束小学校(やつかしょうがっこう)
 明治二十九年(めいじにじゅうくねん)(一八九六)に、大望(たいもう)を抱いて(いだいて)北海道(ほっかいどう)へ渡り(わたり)、広大(こうだい)な荒れ野(あれの)を開拓(かいたく)して、村(むら)と学校(がっこう)をつくった人(ひと)が八束(やつか)の青木(あおき)にいました。その人(ひと)は、嘉永二年(かえいにねん)(一八四九)生れ(うまれ)の鈴木義宗(すずきよしむね)さんです。
 義宗(よしむね)さんが入植(にゅしょく)した頃(ころ)は、現在(げんざい)の瀬棚郡今金町八束地区(せたなぐんいまかねまちやつかちく)で、当時(とうじ)は『オチャラッペ(アイヌ語(ご)・川口(かわぐち)で水(みず)が散らばり(ちらばり)落ちる(おちる)川(かわ))』と呼ばれ(よばれ)、大木(たいぼく)や荊刺(いばら)や葦(あし)の繁茂(はんも)する未開地(みかいち)でしたが、そこに利別村鈴木農場(りべつむらすずきのうじょう)を開設(かいせつ)し、道内(どうない)から募集(ぼしゅう)した二十余戸(にじゅうよこ)と、福井県(ふくいけん)から移住(いじゅう)させた三十三戸(さんじゅうさんこ)の農民(のうみん)で、水害(すいがい)や熊(くま)や疾病(しっぺい)に悩まされ(なやまされ)ながら、一千二百八十町歩(いっせんにひゃくはちじゅっちょうぶ)の開拓(かいたく)に当たり(あたり)、『豊かな(ゆたかな)八束野(やつかの)』と呼ばれる(よばれる)八束地区(やつかちく)の礎(いしずえ)を築いた(きずいた)のです。
 義宗(よしむね)さんは教育関係(きょういくかんけい)にも熱心(ねっしん)だった人(ひと)で、入植者(にゅうしょくしゃ)の定住策(ていじゅうさく)は子弟(してい)の教育(きょういく)にあると考え(かんがえ)、明治三十二年(めいじさんじゅうにねん)(一八九九)に簡易教育所(かんいきょういくじょ)を設置(せっち)、五年間(ごねんかん)も経営管理(けいえいかんり)の経費(けいひ)を寄附(きふ)しました。
 その教育所(きょういくじょ)は後(のち)に第四利別尋常小学校(だいよんりべつじんじょうしょうがっこう)〜大茶良部小学校(おちゃらっぺしょうがっこう)となって発展(はってん)、昭和八年(しょうわはちねん)(一九三三)には利別村(りべつむら)が、村名(そんめい)を開拓先駆者(かいたくせんくしゃ)・義宗(よしむね)さんの郷里(きょうり)千葉県安房郡八束村(ちばけんあわぐんやつかむら)の村名(そんめい)をとって、八束(やつか)に改めた(あらためた)ことから学校名(がっこうめい)も八束尋常小学校(やつかじんじょうしょうがっこう)になりました。現在(げんざい)は今金町立八束小学校(いまかねちょうりつやつかしょうがっこう)となっていますが、その学校要覧(がっこうようらん)を見(み)ますと、「創立(そうりつ)は義宗(よしむね)さんが簡易教育所(かんいきょういくじょ)を設置(せっち)した明治三十二年五月十二日(めいじさんじゅうにねんごがつじゅうににち)。通学区域(つうがくくいき)は東西二里(とうざいにり)、南北一里(なんぼくいちり)で、入学児童(にゅうがくじどう)は十九名(じゅうきゅうめい)であった。平成十一年(へいせいじゅういちねん)(一九九九)は開校百周年(かいこうひゃくしゅうねん)。」と記されて(しるされて)います。
 
八束愛林会(やつかあいりんかい)
 都会(とかい)からたくさんの人(ひと)が、富浦町(とみうらまち)へ枇杷狩り(びわがり)や花摘み(はなつみ)などの観光(かんこう)に来(き)ますが、それらの人(ひと)たちは、みんな、美しい(うつくしい)緑(みどり)の樹木(じゅもく)におおわれた山並み(やまなみ)を見て(みて)、「心(こころ)の安らぐ(やすらぐ)、すばらしい環境(かんきょう)の所(ところ)だ。」と言い(いい)ます。
 八束地区(やつかちく)には、それらの美しい(うつくしい)森林(しんりん)と山(やま)を守り育て(まもりそだて)、そこに住む(すむ)人(ひと)たちの文化(ぶんか)と経済(けいざい)の向上(こうじょう)を目指す(めざす)、財団法人(ざいだんほうじん)・八束愛林会(やつかあいりんかい)という団体(だんたい)があります。愛林会(あいりんかい)の設立(せつりつ)されたのは昭和三十七年(しょうわさんじゅうしちねん)(一九六二)ですが、その始まり(はじまり)は、今(いま)の富浦町(とみうらまち)が誕生(たんじょう)した昭和三十年(しょうわさんじゅうねん)(一九五五)に、旧八束村有(きゅうやつかそんゆう)の学校林(がっこうりん)を主(しゅ)とした山林(さんりん)約四十(やくよんじゅう)ヘクタールを管理(かんり)するため、八束地区(やつかちく)に設定(せってい)した財産区(ざいさんく)からです。
 やがて、その財産区(ざいさんく)が管理運営(かんりうんえい)を合理化(ごうりか)するため、農林省(のうりんしょう)の認可(にんか)を得て(えて)組織(そしき)を財団法人(ざいだんほうじん)に変えた(かえた)のですが、その時(とき)の設立趣意書(せつりつしゅいしょ)を読み(よみ)ますと、先人(せんじん)たちが郷土八束地区(きょうどやつかちく)の発展(はってん)を熱心(ねっしん)に考えて(かんがえて)いた事(こと)が分かり(わかり)ます。
 
 
 農林省(のうりんしょう)より、日本第一号(にっぽんだいいちごう)の財団法人(ざいだんほうじん)の認可(にんか)を受けた(うけた)八束愛林会(やつかあいりんかい)の活動(かつどう)はめざましく、戦後(せんご)の経済成長(けいざいせいちょう)の波(なみ)に乗り(のり)、山林(さんりん)の木材(もくざい)が高価(こうか)でしたので、その収益(しゅうえき)で、八束(やつか)の全地区(ぜんちく)に公会堂(こうかいどう)や公民館(こうみんかん)を兼ねた(かねた)小学校講堂(しょうがっこうこうどう)を建てたり(たてたり)、全戸(ぜんこ)に電話(でんわ)を設置(せっち)するなどの大事業(だいじぎょう)を展開(てんかい)し、八束地区住民(やつかちくじゅうみん)の生活向上(せいかつこうじょう)に寄与(きよ)しました。
 


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