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富浦の昔ばなし 第二集

 事業名 <郷土学>富浦に伝わる民話集の編纂と地域再発見
 団体名 NPO富浦エコミューゼ研究会 注目度注目度5


大房岬海軍射的場(たいぶさみさきかいぐんしゃてきじょう)
 明治三十七(めいじさんじゅうしち)〜三十八年(さんじゅうはちねん)(一九〇四〜一九〇五)に、我が国(わがくに)と帝政(ていせい)ロシアが、満州(まんしゅう)と朝鮮(ちょうせん)の制覇(せいは)を争う(あらそう)戦争(せんそう)(日露戦争(にちろせんそう))をしてから、今年(ことし)の平成十七年(へいせいじゅうしちねん)(二〇〇五)は百年(ひゃくねん)になります。
 我が国(わがくに)は、旅順攻囲(りょじゅんこうい)、奉天大会戦(ほうてんだいかいせん)、日本海海戦(にほんかいかいせん)などに勝利(しょうり)し、ロシアと講和(こうわ)を結び(むすび)ましたが、その戦争(せんそう)の中(なか)で、国運(こくうん)を賭けた(かけた)一番(いちばん)の戦い(たたかい)は、日本海海戦(にほんかいかいせん)だと言われて(いわれて)います。明治三十八年(めいじさんじゅうはちねん)(一九〇五)五月二十七(ごがつにじゅうしち)〜二十八日(にじゅうはちにち)にわたり、日本海対馬沖(にほんかいつしまおき)で行われた(おこなわれた)我が国(わがくに)とロシアのバルチック艦隊(かんたい)(バルト海(かい)にあったロシア主力艦隊(しゅりょくかんたい))との海戦(かいせん)のことで、司令長官(しれいちょうかん)・東郷平八郎(とうごうへいはちろう)の率いる(ひきいる)連合艦隊(れんごうかんたい)が、T字戦法(ティーじせんぽう)と呼ぶ(よぶ)作戦(さくせん)でバルチック艦隊(かんたい)を撃滅(げきめつ)し、大勝利(だいしょうり)を得(え)ました。
 我が国(わがくに)の連合艦隊(れんごうかんたい)が大勝利(だいしょうり)をした理由(りゆう)の一つ(ひとつ)に、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)の技術(ぎじゅつ)が相手(あいて)より上回って(うわまわって)いたことを上げねば(あげねば)ならないのですが、それは日頃(ひごろ)、激しい(はげしい)射撃演習(しゃげきえんしゅう)を行って(おこなって)いたからです。
 連合艦隊(れんごうかんたい)が、ロシアの戦争(せんそう)に備え(そなえ)、艦砲射撃(かんぽうしゃげき)の演習(えんしゅう)をどこで行って(おこなって)いたかと言えば(いえば)、実(じつ)は富浦(とみうら)の大房岬(たいぶさみさき)だったのです。明治三十三年(めいじさんじゅうさんねん)(一九〇〇)から岬(みさき)の南面(なんめん)にある断崖二ヵ所(だんがいにかしょ)を標的(ひょうてき)にして、館山湾(たてやまわん)より実弾射撃(じつだんしゃげき)を行った(おこなった)のです。
 当時(とうじ)の艦砲(かんぽう)は、波(なみ)に揺れ動く(ゆれうごく)艦上(かんじょう)から撃つ(うつ)ので命中率(めいちゅうりつ)が悪く(わるく)、百発(ひゃっぱつ)の弾丸(だんがん)のうち命中(めいちゅう)するのは数発(すうはつ)だったとみえ、「一発必中(いっぱつひっちゅう)の弾丸(だんがん)は、百発一中(ひゃっぱついっちゅう)の弾丸(だんがん)より勝る(まさる)。」が、演習(えんしゅう)のスローガンでした。
 
要塞(ようさい)の大房岬(たいぶさみさき)
伊豆箱根連峰(いずはこねれんぽう)に向かって(むかって)東京湾(とうきょうわん)に突き出た(つきでた)大房岬(たいぶさみさき)は、幕末(ばくまつ)の頃(ころ)から首都防衛(しゅとぼうえい)の基地(きち)となりました。黒船来航(くろふねらいこう)に備えて(そなえて)文化八年(ぶんかはちねん)(一八一一)岬(みさき)の西端(せいたん)に砲台(ほうだい)(お台場(だいば))が築かれ(きずかれ)、上(じょう)・中(ちゅう)・下(げ)の三段(さんだん)に十三門(じゅうさんもん)の大筒(おおづつ)が据えられ(すえられ)ました。
 時(とき)は移り(うつり)、明治三十三年(めいじさんじゅうさんねん)(一九〇〇)海蝕崖(かいしょくがい)の連なる(つらなる)「吹上げ(ふいあげ)」辺り(あたり)が、ロシアとの戦い(たたかい)に備えた(そなえた)海軍(かいぐん)の射的場(しゃてきじょう)となり、更(さら)に軍国主義(ぐんこくしゅぎ)の高まり(たかまり)と共(とも)に、昭和三年(しょうわさんねん)(一九二八)から口径(こうけい)二十糎(にじゅうせんち)・加農砲二門二基(カノンほうにもんにき)を備えた(そなえた)帝国陸軍(ていこくりくぐん)の要塞(ようさい)となり、昭和二十年(しょうわにじゅうねん)(一九四五)の終戦(しゅうせん)まで秘密(ひみつ)のベールで覆われて(おおわれて)いました。
「つわものどのが夢(ゆめ)の跡(あと)」、今(いま)も要塞(ようさい)の跡(あと)には当時(とうじ)の構築物(こうちくぶつ)が残って(のこって)いますので、その説明(せつめい)を、参考(さんこう)になればと書き記し(かきしるし)ました。
○観測所(かんそくじょ)
 観測所(かんそくじょ)は、砲台指揮官(ほうだいしきかん)が、侵入(しんにゅう)する敵艦(てきかん)に対して(たいして)射撃指揮(しゃげきしき)をする所(ところ)です。この砲台観測所(ほうだいかんそくじょ)は旧(きゅう)お台場(だいば)の北側(きたがわ)に地下(ちか)コンクリート造り(づくり)として構築(こうちく)され、観測具室(かんそくぐしつ)、算定具室(さんていぐしつ)、計算室(けいさんしつ)、通信室(つうしんしつ)、司令室(しれいしつ)が設けられ(もうけられ)ました。
○砲塔(ほうとう)
 現在(げんざい)の自然公園運動広場(しぜんこうえんうんどうひろば)の近く(ちかく)に、二基(にき)の砲塔(ほうとう)が設置(せっち)されました。備えた(そなえた)大砲(たいほう)は、大正十一年(たいしょうじゅういちねん)(一九二二)ワシントン軍縮会議(ぐんしゅくかいぎ)によって不要(ふよう)になった巡洋艦(じゅんようかん)「鞍馬(くらま)」(日露戦争(にちろせんそう)で活躍(かつやく))の副砲(ふくほう)、二十糎(にじゅうせんち)・加農砲四門(カノンほうよんもん)です。東京湾(とうきょうわん)に侵入(しんにゅう)する敵艦(てきかん)の撃破(げきは)が目的(もくてき)でした。
○照明所(しょうめいしょ)・掩灯所(えんとうしょ)
 直径(ちょっけい)二(に)メートルの探照灯(たんしょうとう)を二基(にき)備え(そなえ)、第一第二(だいいちだいに)の照明所(しょうめいしょ)に配置(はいち)しました。第一探照灯(だいいちたんしょうとう)は普段(ふだん)は掩灯所(えんとうしょ)に格納(かくのう)し、必要(ひつよう)により台車(だいしゃ)に乗せ(のせ)、レール上(じょう)で運搬(うんぱん)、照明所(しょうめいしょ)に設置(せっち)しました。防空用(ぼうくうよう)として利用(りよう)した第二探照灯(だいにたんしょうとう)は地下壕(ちかごう)に備え(そなえ)、エレベーターで地上(ちじょう)の照明所(しょうめいしょ)に上げ(あげ)ました。探照灯(たんしょうとう)の射程(しゃてい)は九千(きゅうせん)メートルでした。
○発電所(はつでんしょ)
 南繋船場(みなみけいせんば)に下る(くだる)途中(とちゅう)の、谷間(たにま)の地下(ちか)に作られた(つくられた)発電所(はつでんしょ)は、探照灯用(たんしょうとうよう)のもので、五十馬力(ごじゅうばりき)、二十七(にじゅうなな)キロワットのディーゼル発電機(はつでんき)が、二基(にき)設置(せっち)されました。砲塔後方(ほうとうこうほう)の地下(ちか)の小発電所(しょうはつでんしょ)は、砲塔(ほうとう)、弾薬庫(だんやくこ)、砲側庫(ほうそくこ)、観測所(かんそくじょ)などの電源用(でんげんよう)に作られ(つくられ)ました。
○魚雷射堡(ぎょらいしゃほ)
 終戦直前(しゅうせんちょくぜん)に帝国海軍(ていこくかいぐん)が構築(こうちく)した魚雷発射基地(ぎょらいはっしゃきち)です。南繋船場(みなみけいせんば)近く(ちかく)に作った(つくった)洞窟内(どうくつない)に、魚雷(ぎょらい)数発(すうはつ)を、一発(いっぱつ)ずつ台車(だいしゃ)に乗せて(のせて)格納(かくのう)しておき、敵艦(てきかん)が現れる(あらわれる)と、水中(すいちゅう)まで敷かれた(しかれた)レール上(じょう)を台車(だいしゃ)に載せた(のせた)まま押し出し(おしだし)、遂次(ちくじ)発射(はっしゃ)するものでした。昭和十九年(しょうわじゅうくねん)(一九四四)末期(まっき)より水上特攻艇(すいじょうとっこうてい)「震洋(しんよう)」が格納(かくのう)されました。
 
大房(たいぶさ)の石切り場(いしきりば)
 大正(たいしょう)から昭和(しょうわ)の初め(はじめ)まで、住宅(じゅうたく)の外囲い(そとがいこい)や土台(どだい)に使った(つかった)石材(せきざい)を、切り出した(きりだした)跡(あと)が大房(たいぶさ)にあります。
 増間島(ますまじま)から少し(すこし)離れた(はなれた)北方(ほっぽう)の断崖(だんがい)にあるのですが、およそ七十(ななじゅう)メートルもの高さ(たかさ)から、垂直(すいちょく)に切り取った(きりとった)壁(かべ)の景(けい)は壮観(そうかん)です。波打際(なみうちぎわ)の岩(いわ)に立って(たって)見上げ(みあげ)ますと、当時(とうじ)の石切り(いしきり)工夫(こうふ)たちが、どのような技術(ぎじゅつ)と知恵(ちえ)をもって石(いし)を切り出し(きりだし)、その重い(おもい)石(いし)を、絶壁(ぜっぺき)から運び下ろして(はこびおろして)運搬船(うんぱんせん)に積み込んだ(つみこんだ)のか、考え(かんがえ)させられ、暫く(しばらく)そこから、去る(さる)事(こと)ができなくなります。
 切り出した(きりだした)石(いし)が何(なに)に使われた(つかわれた)のか、豊岡(とよおか)にひとつの話(はなし)が語り伝え(かたりつたえ)られています。
 大正(たいしょう)の終わり頃(おわりごろ)まで、『多寿花(だしのはな)』と呼ぶ(よぶ)、醤油(しょうゆ)の醸造販売(じょうぞうはんばい)をした豪商(ごうしょう)が存在(そんざい)したのですが、その屋敷(やしき)の外囲い(そとがこい)の石垣(いしがき)は、すべて大房(たいぶさ)で切り出した(きりだした)石(いし)だというのです。今(いま)も、その屋敷跡(やしきあと)と石垣(いしがき)は汐入川(しおいりがわ)の河口(かこう)に残って(のこって)いますが、立派(りっぱ)な石垣(いしがき)だと思わぬ(おもわぬ)人(ひと)はおりませんね。
 当時(とうじ)、多寿花(だしのはな)は大層(たいそう)な力(ちから)を持って(もって)いましたから、大房(たいぶさ)の石(いし)を運んで(はこんで)くるのに使った(つかった)地元(じもと)の人(ひと)たちの賃金(ちんぎん)や、船代(ふなだい)は無し(なし)で、苦(く)は無かった(なかった)のですが、使われた(つかわれた)人(ひと)たちの方(ほう)は大変(たいへん)だったそうです。長く(ながく)切った(きった)石(いし)を運ぶ(はこぶ)時(とき)は、船中(せんちゅう)に直接(ちょくせつ)積み込め(つみこめ)ないので、二艘(にそう)の船(ふね)を並べ(ならべ)、お互い(たがい)の船縁(ふなべり)(舷(げん))へ橋(はし)を架ける(かける)ような形(かたち)に積み込んだ(つみこんだ)ため、波(なみ)が立って(たって)きますと、船同士(ふねどうし)のバランスを取る(とる)のが難しく(むつかしく)、命懸け(いのちがけ)で作業(さぎょう)にあたったというのです。
 
猪瀬島(いのせじま)
 南無谷(なむや)の沖(おき)に、「猪瀬(いのせ)」と呼ぶ(よぶ)小さな(ちいさな)島(しま)が浮んで(うかんで)います。岡本(おかもと)の浜(はま)からもよく見え(みえ)ますので、町(まち)の人(ひと)なら知らぬ(しらぬ)者(もの)は無い(ない)筈(はず)ですが、富浦(とみうら)の海(うみ)の中(なか)では一番(いちばん)陸地(りくち)から離れた(はなれた)島(しま)です。
 船(ふね)で近付いて(ちかづいて)見(み)ますと、先ず(まず)、島(しま)の呼び名(よびな)の如く(ごとく)、猪(いのしし)の姿(すがた)にそっくりですから驚き(おどろき)ます。島(しま)は大小(だいしょう)二つ(ふたつ)に別れ(わかれ)、大きい(おおきい)方(ほう)が、毛(け)を逆立てた(さかだてた)猪(いのしし)の胴体(どうたい)に見え(みえ)、小さい(ちいさい)方(ほう)は、猪(いのしし)の頭(あたま)から鼻先(はなさき)の部分(ぶぶん)にかけての姿(すがた)に見える(みえる)のです。大自然(だいしぜん)のなせる業(わざ)とは言い(いい)ながら、感心(かんしん)させられます。
 猪瀬(いのせ)の呼び名(よびな)が付いた(ついた)のは何時(いつ)の頃(ころ)か定か(さだか)ではありませんが、案外(あんがい)新しく(あたらしく)江戸時代(えどじだい)の元禄十六年(げんろくじゅうろくねん)(一七〇三)の大地震(おおじしん)以降(いこう)かもしれません。猪瀬(いのせ)は、その頃(ころ)まで干潮(かんちょう)の時(とき)だけ海面(かいめん)に姿(すがた)を現す(あらわす)岩礁(がんしょう)だったからです。海中(かいちゅう)にかくれている岩礁(がんしょう)が猪(いのしし)の姿(すがた)をしているとは、誰(だれ)にも分かり(わかり)はしませんね。
 猪瀬(いのせ)が今(いま)と同じ(おなじ)大きさ(おおきさ)の島(しま)になったのは、大正十二年(たいしょうじゅうにねん)(一九二三)の関東大震災(かんとうだいしんさい)によってです。なぜというなら、元禄(げんろく)と大正(たいしょう)の大地震(おおじしん)を合せ(あわせ)ますと、富浦(とみうら)の陸地(りくち)と島(しま)は、総て(すべて)五(ご)メートルも隆起(りゅうき)したからです。
 


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