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太武佐弁財天洞窟(たいぶさべんざいてんどうくつ)
 大房岬(たいぶさみさき)の鼻(はな)と呼ばれる(よばれる)西端(せいたん)の断崖(だんがい)に、弁財天(べんざいてん)をお祀り(まつり)した大きな(おおきな)洞窟(どうくつ)があります。
 その洞窟(どうくつ)は、およそ二里(にり)(八(はち)キロ)余り(あまり)も離れた(はなれた)那古弁財天(なごべんざいてん)まで、続いて(つづいて)いるという噂話(うわさばなし)がありますが、今(いま)の洞窟(どうくつ)の奥(おく)は、何時(いつ)の頃(ころ)かの地震(じしん)によって大きな(おおきな)岩(いわ)が崩れ落ち(くずれおち)、足(あし)の踏み場(ふみば)も無い(ない)ほど荒れ(あれ)、那古弁財天(なごべんざいてん)どころか、昔(むかし)、弁財天(べんざいてん)の石像(せきぞう)がお祀り(まつり)してあった場所(ばしょ)までも、危険(きけん)で行け(いけ)ません。
 では昔(むかし)の弁財天洞窟(べんざいてんどうくつ)の中(なか)は、どうなっていたのでしょうか。江戸時代(えどじだい)の文政年間(ぶんせいねんかん)(一八一八〜一八二九)に描かれた(えがかれた)、『安房国古蹟併勝景図会(あわのくにこせきあわせしょうけいずえ)』に、「太武佐弁財天洞窟(たいぶさべんざいてんどうくつ)」のありさまが載って(のって)いますので転記(てんき)してみました。
 今(いま)の洞窟内(どうくつない)とは、たいへんな違い(ちがい)だったことが分かり(わかり)ます。
 
 
 著者(ちょしゃ)は安倍玄節(あべげんせつ)。医者(いしゃ)で詩歌(しいか)にも長けて(たけて)いました。江戸末期(えどまっき)から明治(めいじ)に生きた(いきた)長狭郡波太村(ながさごおりなぶとむら)(鴨川市(かもがわし))の人(ひと)です。
 
 
弁天洞窟(べんてんどうくつ)の探検(たんけん)
 大房岬(たいぶさみさき)にある弁天洞窟(べんてんどうくつ)は、那古弁天(なごべんてん)の洞窟(どうくつ)まで続いて(つづいて)いるという伝説(でんせつ)がありますが、皆(みな)さんは信じ(しんじ)ますか。
 実(じつ)は私(わたくし)も、そんな伝説(でんせつ)を信じて(しんじて)いましたから、洞窟(どうくつ)を調べて(しらべて)見よう(みよう)と一度(いちど)だけ奥(おく)まで入った(はいった)事(こと)がありました。昭和三十三年(しょうわさんじゅうさんねん)(一九五八)八月(はちがつ)、私(わたくし)の加入(かにゅう)していた町青年団(まちせいねんだん)のキャンプ大会(たいかい)の時(とき)でしたが、数名(すうめい)の友人(ゆうじん)と懐中電灯(かいちゅうでんとう)の光(ひかり)を頼り(たより)に入り込んだ(はいりこんだ)のです。
 ところが残念(ざんねん)でした。大きな(おおきな)岩(いわ)がごろごろ転がったり(ころがったり)、落とし穴(おとしあな)が幾つ(いくつ)もある険しい(けわしい)所(ところ)を何十(なんじゅう)メートルも苦労(くろう)して進んだ(すすんだ)のに、奥(おく)がゆき止まり(どまり)になっていたからです。つまり、大房岬一番(たいぶさみさきいちばん)のミステリー、那古弁天(なごべんてん)まで続く(つづく)穴(あな)が無い(ない)と分かった(わかった)からです。
 数日後(すうじつご)、瀧淵神社(たきぶちじんじゃ)の神主(かんぬし)・代田(しろた)さんにその話(はなし)をしますと、代田(しろた)さんは笑って(わらって)言い(いい)ました。
 「伝説(でんせつ)とはそんなものです。でも大昔(おおむかし)は洞窟(どうくつ)が那古弁天(なごべんてん)まで本当(ほんとう)に続いて(つづいて)いたのですよ。人(ひと)が入っては(はいっては)危ない(あぶない)と、役行者(えんのぎょうじゃ)が塞いだ(ふさいだ)から行き止まり(ゆきどまり)になったのです。行者(ぎょうじゃ)の置いた(おいた)一番奥(いちばんおく)の岩(いわ)に気付かぬ(きづかぬ)とはうかつでしたね。」
 作り話(つくりばなし)と分かって(わかって)いても、そう言われ(いわれ)ますと、一番奥(いちばんおく)に大きな(おおきな)丸い(まるい)岩(いわ)があったようでもあり、その岩(いわ)の下(した)から、冷たい(つめたい)風(かぜ)が吹き出て(ふきでて)いるようでもあったと、後(あと)で思えて(おもえて)くるから不思議(ふしぎ)ですね。また伝説(でんせつ)を信じて(しんじて)しまいそうです。
 
黒船(くろふね)に備えた(そなえた)砲台(ほうだい)
 江戸時代末期(えどじだいまっき)に入り(はいり)ますと、外国(がいこく)の黒船(くろふね)が通商(つうしょう)を求めて(もとめて)盛ん(さかん)に渡来(とらい)するようになったため、鎖国(さこく)を守って(まもって)いた幕府(ばくふ)は、それら黒船(くろふね)の渡来(とらい)をすべて外国(がいこく)の侵略(しんりゃく)と考え(かんがえ)、江戸(えど)の防備計画(ぼうびけいかく)を立て(たて)ました。
 計画(けいかく)を立てた(たてた)のは、国防(こくぼう)の第一人者(だいいちにんしゃ)であった老中松平定信(ろうじゅうまつだいらさだのぶ)で、江戸湾岸(えどわんがん)を視察(しさつ)すると、ただちに砲台(ほうだい)(大砲打ち場(たいほううちば))の構築(こうちく)を開始(かいし)させました。当時(とうじ)の房総(ぼうそう)の地(ち)は、ほとんど天領(てんりょう)、旗本(はたもと)の給地(きゅうち)に分割(ぶんかつ)されていましたので独力(どくりょく)で砲台構築(ほうだいこうちく)をすることができなかったため、奥州白河藩(おうしゅうしらかわはん)十一万石(じゅういちまんごく)のうち三万石(さんまんごく)を、上総二郡(かずさにぐん)、安房二郡(あわにぐん)に領地替え(りょうちがえ)をして事態(じたい)に対処(たいしょ)させました。
 文化七年(ぶんかななねん)(一八一〇)に先ず(まず)洲の崎台場(すのさきだいば)(館山市(たてやまし))白子遠見番所(しらことうみばんしょ)(千倉町(ちくらまち))百首台場(ひゃくしゅだいば)(天羽町(あまはまち)富津遊軍所(ふっつゆうぐんしょ)(富津市(ふっつし))を設け(もうけ)、洲の崎台場(すのさきだいば)近く(ちかく)の波左間陣屋(はざまじんや)に五百人(ごひゃくにん)、百首(ひゃくしゅ)の竹ヶ岡陣屋(たけがおかじんや)に二百人(にひゃくにん)の守備共(しゅびへい)が常駐(じょうちゅう)していたと記録(きろく)が残って(のこって)います。それから十三年間(じゅうさんねんかん)に現在(げんざい)の君津(きみつ)、富津(ふっつ)、鋸南(きょなん)、富山(とみやま)、富浦(とみうら)、館山(たてやま)、白浜(しらはま)、千倉(ちくら)の各海岸(かくかいがん)へ、砲台(ほうだい)や陣屋(じんや)を設け(もうけ)外敵(がいてき)に備えた(そなえた)のです。
 松平定信(まつだいらさだのぶ)は落成(らくせい)した砲台(ほうだい)や陣屋(じんや)を巡視(じゅんし)のため、文化八年(ぶんかはちねん)(一八一一)に富浦(とみうら)を通り(とおり)ましたが、
 
 
と、なげきつつ、
 
 
と、日記(にっき)に書いて(かいて)います。
 幕府(ばくふ)は文政六年(ぶんせいろくねん)(一八二三)国防(こくぼう)に熱心(ねっしん)だった定信(さだのぶ)を、伊勢桑名(いせくわな)に転封(てんぽう)し房総警備(ぼうそうけいび)の責任者(せきにんしゃ)を免じ(めんじ)ましたが、江戸湾岸(えどわんがん)の防備(ぼうび)は怠る(おこたる)ことなく、弘化四年(こうかよねん)(一八四七)からは会津藩(あいずはん)と武蔵忍藩(むさしおしはん)に房総沿岸(ぼうそうえんがん)の警備(けいび)を担当(たんとう)させ、嘉永六年(かえいろくねん)(一八五三)ペリーが来航(らいこう)するや、さらに備前岡山藩(びぜんおかやまはん)、筑後柳川藩(ちくごやながわはん)も加えて(くわえて)海防(かいぼう)の強化(きょうか)を図り(はかり)ました。
 伊豆(いず)、相模(さがみ)の連峰(れんぽう)にさしむかって江戸湾(えどわん)に突き出る(つきでる)大房岬(たいぶさみさき)は、首都防備上(しゅとぼうびじょう)、咽喉(いんこう)の地(ち)もいうべき要所(ようしょ)ですから、はやばや砲台(ほうだい)が築かれ(きずかれ)ました。文化五年(ぶんかごねん)(一八〇八)とか文化八年(ぶんかはちねん)(一八一一)の説(せつ)があり、北條陣屋(ほうじょうじんや)を根拠(こんきょ)にした松平内蔵頭(まつだいらくらのかみ)によって守られ(まもられ)ました。
 嘉永三年(かえいさんねん)(一八五〇)江戸近海(えどきんかい)の海防施設(かいぼうしせつ)を巡視(じゅんし)した石川政平(いしかわまさひら)が、報告書(ほうこくしょ)に添えて(そえて)幕府(ばくふ)へ提出(ていしゅつ)した『近海見分之図(きんかいみわけのず)』を見(み)ますと、大房(たいぶさ)には上段三門(じょうだんさんもん)、中段五門(ちゅうだんごもん)、下段五門(かだんごもん)の大砲(たいほう)が描かれて(えがかれて)います。工事(こうじ)は江戸(えど)から来た(きた)二百人(にひゃくにん)の人夫(にんぷ)により進められ(すすめられ)、資材(しざい)は西浜堂坂(にしばまどうざか)から運び上げた(はこびあげた)そうです。
 大房(たいぶさ)にどのような大砲(たいほう)が備えられた(そなえられた)か定か(さだか)ではありませんが、五百匁玉(ごひゃくもんめだま)、一貫目玉(いっかんめだま)、二貫目玉(にかんめだま)のいずれかの弾丸(だんがん)を使う(つかう)ものだったのです。近海見分之図(きんかいみわけのず)から想像(そうぞう)しますと、五百匁玉(ごひゃくもんめだま)(筒(つつ)の長さ(ながさ)が五尺(ごしゃく))のものか、一貫目玉(いっかんめだま)のもののように考えられ(かんがえられ)ます。もし最大(さいだい)の二貫目玉(にかんめだま)の大砲(たいほう)だったとしたら、筒(つつ)の長さ(ながさ)は壱丈壱尺(いちじょういっしゃく)(約(やく)三.三メートル(さんてんさんメートル)、重さ(おもさ)六百貫(ろっぴゃくかん)(約二千六百(やくにせんろっぴゃく)キロ)弾丸(だんがん)の届いた(とどいた)距離(きょり)は約四十九町(やくよんじゅうきゅうちょう)(約八百七十(やくはっぴゃくななじゅう)メートル)のものでした。ちなみに、その頃(ころ)の海防書(かいぼうしょ)によりますと、洲の崎(すのさき)から三浦(みら)の城ヶ島(じょうがしま)との間(あいだ)は七里(ななり)とありますから、もし大房(たいぶさ)の先端(せんたん)から江戸湾(えどわん)に侵入(しんにゅう)しようとする黒船(くろふね)に砲撃(ほうげき)を加えた(くわえた)としても結果(けっか)は火(ひ)を見る(みる)より明らか(あきらか)でした。
 大砲(たいほう)を黒船(くろふね)めがけて発射(はっしゃ)したことはなかったのですが、見張り(みはり)は厳重(げんじゅう)で、嘉永六年(かえいろくねん)(一八五三)から安政五年(あんせいごねん)(一八五八)まで幕府(ばくふ)へ届けられた(とどけられた)各藩(かくはん)の房総外艦警備文書(ぼうそうがいかんけいびぶんしょ)の中(なか)に、大房(たいぶさ)から出された(だされた)ものが多く(おおく)含まれて(ふくまれて)います。
「○月(がつ)○日(にち)、異国船(いこくせん)が出帆(しゅっぱん)するのが大房(たいぶさ)から見えた(みえた)。○刻(こく)○方面(ほうめん)に走って(はしって)行った(いった)が、雨(あめ)のため帆形(ほがた)は不明(ふめい)だった。」
というような書状(しょじょう)です。
 このように黒船渡来(くろふねとらい)に備え(そなえ)房総沿岸(ぼうそうえんがん)へ急造(きゅぞう)した海防施設(かいぼうしせつ)も、安政五年(あんせいごねん)(一八五八)に欧米諸国(おうべいしょこく)と通商条約(つうしょうじょうやく)が成立(せいりつ)し、海防(かいぼう)の必要度(ひつようど)が減じた(げんじた)関係(かんけい)から、富津砲台(ふっつほうだい)を除き(のぞき)全部撤廃(ぜんぶてっぱい)されました。


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