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富浦の昔ばなし 第二集

 事業名 <郷土学>富浦に伝わる民話集の編纂と地域再発見
 団体名 NPO富浦エコミューゼ研究会 注目度注目度5


地名(ちめい)や古跡(こせき)の話(はなし)
大武佐不動(安房国古蹟併勝景図会)
 
和鉄(わてつ)の製錬所(せいれんじょ)
 多田良(ただら)という地名(ちめい)は、砂鉄(さてつ)を原料(げんりょう)とした和鉄(てつ)(玉鋼(たまはがね))の製錬(せいれん)に用いる(もちいる)、踏鞴(たたら)(大型(おおがた)の足踏み(あしふみ)送風機(そうふうき)・ふいご)に由来(ゆらい)します。
 平安時代(へいあんじだい)まで多田良荘(ただらのしょう)と呼ばれた(よばれた)富浦(とみうら)の地域(ちいき)に、古代(こだい)の製錬所(せいれんじょ)が存在(そんざい)したかどうかは定か(さだか)ではありませんが、存在(そんざい)を前提(ぜんてい)にした方(ほう)がロマンを感じ(かんじ)ますので、そう話(はなし)を進め(すすめ)ます。
 と、言い(いい)ましても、今(いま)の多田良地区(ただらちく)に存在(そんざい)したのではありません。製錬(せいれん)に使う(つかう)大量(たいりょう)の木炭(もくたん)を作る(つくる)広い(ひろい)山(やま)が無い(ない)からです。そこで、金(かね)と言う(いう)地名(ちめい)の付いた(ついた)地域(ちいき)を調べて(しらべて)みますと、福澤(ふくざわ)の金尾谷(かなおや)が、その所在地(しょざいち)として浮かび上がる(うかびあがる)のです。
 幾つか(いくつか)の理由(りゆう)を上げて(あげて)みました。
○古代(こだい)の製錬所(せいれいんじょ)は風当たり(かぜあたり)の強い(つよい)傾斜地(けいしゃち)にありました。金尾谷(かなおや)は、ふいごの吹き出し口(ふきだしぐち)のように風(かぜ)の早い(はやい)所(ところ)です。
○精錬用(せいれんよう)の炉(ろ)を築く(きずく)のに最適(さいてき)の粘土(ねんど)があります。日本瓦(にほんがわら)の製造(せいぞう)にも適し(てきし)ますので、昭和中期(しょうわちゅうき)まで採取(さいしゅ)されていました。
○鉱滓(こうさい)(砂鉄(さてつ)を溶錬(ようれん)する時(とき)に出る(でる)非金属性(ひきんぞくせい)の滓(かす))の塊(かたまり)が混じる(まじる)土地(とち)があり、耕やす(たがやす)時(とき)、鍬(くわ)を傷めて(いためて)困る(こまる)と言う(いう)話(はなし)があります。
○砂鉄(さてつ)を採取(さいしゅ)した所(ところ)を「カンナ」と言い(いい)ました。そこは今(いま)の館山市川名(たてやましかわな)と思われ(おもわれ)ます。風(かぜ)の神(かみ)・金気神社(きんきじんじゃ)では、昔(むかし)、祭礼(さいれい)の時(とき)、川名(かわな)へ御輿(みこし)の渡御(とぎょ)を行い(おこない)ました。
○製錬(せいれん)に従事(じゅうじ)する人(ひと)の住む(すむ)集落(しゅうらく)を「スギ」と言い(いい)ました。そこは今(いま)の福澤(ふくざわ)の字(あざ)・杉原(すぎはら)です。
 
朱塗り(しゅぬり)の土器(どき)
 農地(のうち)の基盤整備(きばんせいび)を行う(おこなう)予定地(よていち)では、必ず(かならず)事前(じぜん)に、埋蔵文化財(まいぞうぶんかざい)があるかどうか発掘調査(はっくつちょうさ)をします。
 平成十二年(へいせいじゅうにねん)(二〇〇〇)の十一(じゅういち)〜十二月(じゅにがつ)、その調査(ちょうさ)が財団法人(ざいだんほうじん)・総南文化(そうなんぶんか)センター(茂原市(もばらし))によって、宮本城跡(みやもとじょうせき)の西側斜面(にしがわしゃめん)に広がる(ひろがる)、大津(おおつ)の字(あざ)「蛭田(ひるた)・臺(だい)」の地域(ちいき)で行われ(おこなわれ)ましたが、その時(とき)、水田(すいでん)の底(そこ)(約(やく)三〇〜一七〇センチ)から誰(だれ)も想像(そうぞう)していなかった縄文時代(じょうもんじだい)の黒曜石(こくようせき)の剥片一個(はくへんいっこ)と、弥生土器(やよいどき)、土師器(はじき)(古墳(こふん)〜奈良(なら)〜平安時代(へいあんじだい))、須恵器(すえき)、灰柚陶器(かいゆうとうき)の破片(はへん)が数多く(かずおおく)出土(しゅつど)したのです。
 発掘調査(はっくつちょうさ)が小規模(しょうきぼ)のため、当時(とうじ)の人達(ひとたち)の住居跡(じゅうきょあと)の発見(はっけん)は無かった(なかった)のですが、その辺り(あたり)には凡そ(およそ)五千年前(ごせんねんまえ)から江戸時代(えどじだい)に渡り(わたり)、人(ひと)の集落(しゅうらく)と暮らし(くらし)のあった事(こと)が分かり(わかり)ました。
 出土品(しゅつどひん)を見て(みて)特(とく)に興味(きょうみ)を引かれた(ひかれた)のは、土師器(はじき)(甕(かめ)、食器(しょっき))の表面(ひょうめん)に朱(しゅ)が塗って(ぬって)ある事(こと)でした。太古(たいこ)の昔(むかし)、隣地(りくち)の手取(てどり)や丹生(にゅう)は朱(しゅ)の産地(さんち)でしたので、もし出土(しゅつど)した土師器(はじき)に塗られた(ぬられた)朱(しゅ)が、その朱(しゅ)であったとしたら、富浦(とみうら)の古代史(こだいし)を繙く(ひもとく)上(うえ)で大変(たいへん)な発見(はっけん)になります。
 
 
色違い(いろちがい)の土器(どき)
 平成十二年(へいせいじゅうにねん)(二〇〇〇)に、農地(のうち)の基盤整備(きばんせいび)に伴う(ともなう)埋蔵文化財(まいぞうぶんかざい)の調査(ちょうさ)が大津(おおつ)の字(あざ)・臺(だい)で行われ(おこなわれ)、多量(たりょう)の土器(どき)が発見(はっけん)されましたが、続いて(つづいて)調査(ちょうさ)した深名(ふかな)の字(あざ)・岩崎(いわさき)でも古代(こだい)の人(ひと)の集落跡(しゅうらくあと)が発見(はっけん)され、「大坪遺跡(おおつぼいせき)」と名付けられ(なづけられ)ました。
 遺跡(いせき)は、蛇行(だこう)する岡本川(おかもとがわ)によって東西(とうざい)に削られ(けずられ)、舌状(ぜつじょう)に残った(のこった)段丘(だんきゅう)(標高(ひょうこう)二十(にじゅう)〜三十(さんじゅう)メートル)の上(うえ)にありました。古墳時代(こふんじだい)の竪穴住居跡一棟(たてあなじゅうきょあとひとむね)、奈良(なら)・平安時代(へいあんじだい)の掘立柱建物跡三棟(ほったてばしらたてものあとさんむね)と、幅(はば)二(に)メートル深さ(ふかさ)八十センチ(はちじゅっセンチ)の遺跡(いせき)が二条(にじょう)発見(はっけん)され、弥生土器(やよいどき)、古墳(こふん)〜平安時代(へいあんじだい)の土師器(はじき)、須恵器(すえき)、中世(ちゅうせい)の陶磁器(とうじき)などの遺物(いぶつ)が出土(しゅつど)したのです。中(なか)には祭器(さいき)にしたと思われる(おもわれる)芸術品(げいじゅつひん)のようなものが含まれて(ふくまれて)いました。
 いずれの土器(どき)も、大津(おおつ)から出土(しゅつど)したものと年代(ねんだい)は変らない(かわらない)ようですが、不思議(ふしぎ)なのは大津(おおつ)の土師器(はじき)には朱(しゅ)が塗って(ぬって)あるのに、大坪遺跡(おおつぼいせき)のは、それが無く(なく)、黒漆(くろうるし)が塗って(ぬって)あるという事(こと)なのです。双方(そうほう)の遺跡(いせき)(集落跡(しゅうらくあと))は、お互い(たがい)に見える(みえる)所(ところ)にあり、距離(きょり)も僅か(わずか)数(すう)キロなのに、なぜそんな違い(ちがい)があったのでしょうか。集落(しゅうらく)の間(あいだ)に交流(こうりゅう)が無かった(なかった)のか、風習(ふうしゅう)に違い(ちがい)があったのか謎(なぞ)が解け(とけ)ません。
 
 
黒曜石(こくようせき)の矢尻(やじり)
 縄文時代(じょうもんじだい)の人(ひと)が使った(つかった)代表的(だいひょうてき)な道具(どうぐ)と言えば(いえば)、神秘的(しんぴてき)な色(いろ)をしている黒曜石(こくようせき)(火成岩(かせいがん)の一種(いっしゅ))製(せい)の矢尻(やじり)ですね。
 矢尻(やじり)は狩猟(しゅりょう)に用いた(もちいた)もので、町内全域(ちょうないぜんいき)から出土(しゅつど)しますが、特(とく)に大量(たいりょう)に出土(しゅつど)したのは、昭和六十年(しょうわろくじゅうねん)(一九八五)に発掘調査(はっくつちょうさ)した深名(ふかな)の瀬畠遺跡(せばたけいせき)でした。その黒曜石(こくようせき)の矢尻(やじり)の数(かず)は、未成品(みせいひん)を含めて(ふくめて)二百五十個余り(にひゃくごじゅっこあまり)もあり、おびただしい破片(はへん)もいっしょに出土(しゅつど)しましたので、瀬畠遺跡(せばたけいせき)は矢尻(やじり)の製作所(せいさくじょ)だったのだろうと、文化財(ぶんかざい)の関係者(かんけいしゃ)の間(あいだ)で話題(わだい)になりました。
 ところで黒曜石(こくようせき)の事(こと)ですが、誰(だれ)も知って(しって)いるように、房総(ぼうそう)には無く(なく)、比較的(ひかくてき)に近い(ちかい)所(ところ)では、伊豆(いず)の神津島(こうづしま)と信州(しんしゅう)の八ヶ岳(やつがたけ)にしかありませんね。ですから富浦(とみうら)から出土(しゅつど)する黒曜石(こくようせき)の矢尻(やじり)は、そのどちらかの物(もの)が運ばれて(はこばれて)来た(きた)事(こと)になります。七千(ななせん)〜三千年(さんぜんねん)も前(まえ)に、どのような流通機構(りゅうつうきこう)があったか何(なに)も分かり(わかり)ませんが、神津島(こうづしま)からであれば、運搬(うんぱん)は丸木舟(まるきぶね)によらねばならず命懸け(いのちがけ)です。八ヶ岳(やつがたけ)なら、気(き)の遠く(とおく)なるような距離(きょり)と日数(にっすう)を歩かねば(あるかねば)なりません。
 それにしても、貴重品(きちょうひん)だった黒曜石(こくようせき)を、どんな品物(しなもの)と交換(こうかん)したのでしょうか。もしかすると、集落(しゅうらく)の若くて(わかくて)愛らしい(あいらしい)娘(むすめ)だったかも知れません(しれません)ね。
 
 
翡翠(ひすい)の大珠(たいしゅ)
 昭和六十年(しょうわろくじゅうねん)(一九八五)に、縄文時代(じょうもんじだい)の瀬畑遺跡(せばたけいせき)の発掘調査(はっくつちょうさ)をしたときの話(はなし)です。
 四十軒(よんじゅっけん)ほどの竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)と、たくさんの土器(どき)、石斧(せきふ)、石鏃(せきぞく)、石棒(せきぼう)などが発見(はっけん)されたのですが、発掘(はっくつ)に関係(かんけい)した人(ひと)たちが最も(もっとも)驚き(おどろき)の声(こえ)を上げた(あげた)のは、大珠(たいしゅ)(ペンダント)が一個(いっこ)発見(はっけん)されたときでした。
 大珠(たいしゅ)は、縦四十五(たてよんじゅうご)ミリ・横二十五(よこにじゅうご)ミリ・厚さ十(あつさじゅう)ミリの小さな(ちいさな)楕円形(だえんけい)ものでしたが、それが、神秘的(しんぴてき)な緑色(みどりいろ)の翡翠(ひすい)だったからです。
 翡翠(ひすい)は、当時(とうじ)たいへん貴重(きちょう)な宝石(ほうせき)でしたので、まさか瀬畑遺跡(せばたけいせき)から発見(はっけん)されるとは夢(ゆめ)にも思って(おもって)いなかったので驚いた(おどろいた)訳(わけ)ですが、その翡翠大珠(ひすいたいしゅ)は、きっと集落(しゅうらく)の中(なか)で特別(とくべつ)な地位(ちい)のある人物(じんぶつ)が、身(み)につけたものだったのでしょうね。
 翡翠(ひすい)の産地(さんち)は限られて(かぎられて)おり、日本(にっぽん)では新潟県糸魚川市(にいがたけんいといがわし)だけで、世界(せかい)でも六ヶ所(ろっかしょ)しかないのです。それだけに貴重(きちょう)な宝石(ほうせき)となる訳(わけ)ですが、遠い(とおい)新潟(にいがた)から富浦(とみうら)まで、どのようにして運んで(はこんで)来た(きた)のでしょうか。
 硬い(かたい)翡翠大珠(ひすいたいしゅ)に、ひもを通す(とおす)小さな(ちいさな)穴(あな)はどんな方法(ほうほう)で開けた(あけた)のか、その大珠(たいしゅ)は権力者(けんりょくしゃ)がどんなとき身(み)につけたのか、單に(たんに)装飾(そうしょく)のためだったのか祭祀(さいし)のときの呪術(じゅうじゅつ)に使う(つかう)道具(どうぐ)だったのか、興味(きょうみ)が湧き(わき)ますね。


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