日本財団 図書館


愉快(ゆかい)な話(はなし)
江戸時代の宮本の雨乞いの掛軸〈著者蔵〉
八束には青鬼も赤鬼もいた
 
天狗(てんぐ)の鼻(はな)を掴む(つかむ)
 昔(むかし)、八束(やつか)のある家(いえ)へ、隣り(となり)の平群村(へぐりむら)から、おつむ(頭(あたま))が八分目(はちぶんめ)の嫁(よめ)さんが来て(きて)いました。ある日(ひ)、その嫁(よめ)さんの所(ところ)へ、伊予ヶ岳(いよがだけ)に棲む(すむ)天狗(てんぐ)が現れて(あらわれて)言い(いい)ました。
 「儂(わし)は旅(たび)から伊予ヶ岳(いよがだけ)へ帰る(かえる)途中(とちゅう)だが、お前(まえ)が実家(じっか)に行きたい(いきたい)なら連れて(つれて)行く(いく)べえ。儂(わし)の背(せ)に乗れば(のれば)空(そら)を一っ飛び(ひとっとび)だぞ。」
 嫁(よめ)さんが平群(へぐり)の実家(じっか)に行く(いく)時(とき)は、青木山(あおきやま)の長くて(ながくて)淋しい(さびしい)路(みち)を超えて(こえて)行かねば(いかねば)ならないので、大喜び(おおよろこび)で支度(したく)をすると、天狗(てんぐ)の背(せ)に乗り(のり)ました。
 天狗(てんぐ)はさっと空高く(そらたかく)舞い上がり(まいあがり)、平群(へぐり)の方角(ほうがく)へ矢(や)のように飛び始め(とびはじめ)ました。その早い(はやい)事(こと)、早(はやい)い事(こと)。体(からだ)が揺れて(ゆれて)怖く(こわく)なった嫁(よめ)さんは目(め)を瞑った(つむった)まま叫び(さけび)ました。
 「天狗(てんぐ)どん天狗(てんぐ)どん、おっかねえよ。どうしたらいいっぺ。」
 天狗(てんぐ)は言い(いい)ました。
 「儂(わし)の鼻(はな)に掴まって(つかまって)いろ。」
 嫁(よめ)さんは夢中(むちゅう)で天狗(てんぐ)の鼻(はな)に掴まり(つかまり)ました。やがて天狗(てんぐ)の体(からだ)がぐらりと揺れ(ゆれ)、地面(じめん)に降りた(おりた)のですが、怖くて(こわくて)鼻(はな)から手(て)を離せ(はなせ)ません。
 「おい、何時(いつ)まで儂(わし)の鼻(はな)を掴んで(つかんで)いるんだ。離して(はなして)くれ。」
 天狗(てんぐ)の声(こえ)に、嫁(よめ)さんが、はっと我(われ)に返り(かえり)ますと、何(なん)と、家(いえ)の布団(ふとん)の中(なか)で、旦那(だんな)の真ん中(まんなか)の足(あし)を、ぎゅうっと掴んで(つかんで)いたのです。
 
 
八束村長(やつかそんちょう)と同じ(おなじ)
 昭和(しょうわ)の初め(はじめ)、八束(やつか)の福澤(ふくざわ)から岩井(いわい)の高崎(たかさき)へ分家(ぶんけ)をした人(ひと)がいました。
 明治生まれ(めいじうまれ)で、名(な)を亀次郎(かめじろう)さんと言い(いい)ましたが、貧しい(まずしい)小作農(こさくのう)でしたので、形振り(なりふり)かまわず何時(いつ)も裸(はだか)で働き(はたらき)ました。
「寒く(さむく)ねえか。」
と誰(だれ)かが言えば(いえば)、
「裸(はだか)も稼ぎ(かせぎ)の内(うち)だよ、着物(きもの)を買わねば(かわねば)、それだけ銭(ぜに)が溜る(たまる)からね。」
と答えた(こたえた)のです。
 亀次郎(かめじろう)さんは、馬車屋(ばしゃや)もしていましたので、集落中(しゅうらくじゅう)の誰(だれ)も『馬車亀(ばしゃかめ)さん』と呼び(よび)、呆れ果てて(あきれはてて)いましたが・・・。そんな亀次郎(かめじろう)さんの暮らし(くらし)の上(うえ)に幸運(こううん)が訪れ(おとずれ)ました。戦後(せんご)の農地改革(のうちかいかく)です。その農地改革(のうちかいかく)で一人前(いちにんまえ)の自作農(じさくのう)になれたからです。
 長く(ながく)真面目(まじめ)に一所懸命(いっしょけんめい)働いて(はたらいて)いれば、どんな者(もの)でも何時(いつ)か財(ざい)を成す(なす)事(こと)が出来(でき)、加えて(くわえて)人望(じんぼう)も高まる(たかまる)ものです。昭和三十年代(しょうわさんじゅうねんだい)(一九五五〜一九六六)に、亀次郎(かめじろう)さんは高崎(たかさき)の区長(くちょう)になりました。
 その時(とき)、亀次郎(かめじろう)さんが発した(はっした)次(つぎ)の言葉(ことば)が高崎中(たかさきじゅう)で評判(ひょうばん)になり、今(いま)も語り継がれて(かたりつがれて)います。
 「皆(みな)さんのお力(ちから)で高崎区長(たかさきくちょう)になりました。私(わたし)が生まれた(うまれた)八束(やつか)は、区(く)が八つ(やっつ)もありますが、戸数(こすう)は全部(ぜんぶ)で三百六十余り(さんびゃくろくじゅうあまり)です。高崎(たかさき)も戸数(こすう)は同じ(おなじ)です。ですから私(わたし)は、昔(むかし)の八束村長(やつかそんちょう)になったと同じ(おなじ)様(よう)なものです。有が難う(ありがとう)ございました。」
 
TAの荷印(にじるし)
 明治(めいじ)の頃(ころ)、青木(あおき)に慶応二年(けいおうにねん)(一八六六)生まれの白井新太郎(しろいしんたろう)さんという人(ひと)がおりました。
 英語(えいご)ができ頭(あたま)も良かった(よかった)ので、多田良小学校(ただらしょうがっこう)の先生(せんせい)をしていましたが、二十七歳(にじゅうななさい)の時(とき)、武半家(たけばけ)(屋号(やごう)・岩峰(いわぶ))に婿入り(むこいり)しますと農業(のうぎょう)にも精(せい)を出し(だし)、東京(とうきょう)の青果市場(せいかいちば)に蚕豆(そらまめ)をたくさん出荷(しゅっか)したそうです。
 蚕豆(そらまめ)はその頃(ころ)、畑(はたけ)の隅(すみ)へ自家消費(じかしょうひ)に植える(うえる)だけでしたが、新太郎(しんたろう)さんは静岡県(しずおかけん)の農家(のうか)が水田裏作(すいでんうらさく)の蚕豆(そらまめ)を市場(いちば)に出荷(しゅっか)、利益(りえき)を上げて(あげて)いるのを知って(しって)いましたから、それを真似て(まねて)水田(すいでん)に植え(うえ)(房州(ぼうしゅう)で蚕豆(そらまめ)が大栽培(だいさいばい)される魁(さきがけ)となった)大量生産(たいりょうせいさん)し、お金儲け(かねもうけ)をしたのです。
 面白い(おもしろい)話(はなし)が残って(のこって)います。市場(いちば)に物品(ぶっぴん)を出荷(しゅっか)する時(とき)、荷主(にぬし)は荷印(にじるし)を付け(つけ)ますが、昔(むかし)の荷印(にじるし)は、屋号(やごう)か苗字名前(みょうじなまえ)などの頭文字(かしらもじ)を使って(つかって)作り(つくり)ましたので、新太郎(しんたろう)さんは武半(たけば)の「た」の字(じ)をローマ字で「TA」と書き(かき)荷印(にじるし)にしました。ところがその頃(ころ)は、どこの市場(いちば)の荷受け人(にうけにん)や競り人(せりにん)も英語(えいご)を知り(しり)ませんから。何(なん)と読む(よむ)のか分かり(わかり)ません。
 ある市場(いちば)の社長(しゃちょう)が考えた(かんがえた)そうです。「TA」は百姓(ひゃくしょう)が作った(つくった)荷印(にじるし)だから、「T」はごうろこし(土(つち)の固まり(かたまり)を小さく(ちいさく)砕く(くだく)道具(どうぐ))、「A」は稲叢(いなむら)(刈った(かった)稲(いね)を積み重ねた(つみかさねた)もの)の形(かたち)を現わした(あらわした)ものだろう・・・と。
 
 
ごじゃさん
 多田良(たたら)に「ごじゃ」と呼ぶ(よぶ)屋号(やごう)の家(いえ)があります。苗字(みょうじ)は高山(たかやま)さんと言い(いい)ますが、屋号(やごう)の由来(ゆらい)は、昔(むかし)、多田良(たたら)にあった御座船(ござふね)の船頭(せんどう)であったことから来て(きて)おり、御座(ござ)が訛って(なまって)ごじゃになったのです。
 江戸時代(えどじだい)の話ですが、殿様(とのさま)が多田良(たたら)の村(むら)にお出で(いで)になる時(とき)は、何時(いつ)も大きな(おおきな)船(ふね)でしたので、その時(とき)は、村(むら)が用意(ようい)していた御座船(ござふね)で、沖(おき)から殿様(とのさま)を砂浜(すなはま)までお連れ(つれ)したというのです。その御座船(ござふね)の船頭(せんどう)を代々(だいだい)勤めて(つとめて)いたのが、今(いま)のごじゃさんの家(いえ)だったのですが、お蔭(かげ)で殿様(とのさま)から、苗字帯刀(みょうじたいとう)を許されて(ゆるされて)いました。
 話(はなし)は明治(めいじ)の世(よ)に移り(うつり)ますが、ごじゃさんの家(いえ)の人(ひと)の事(こと)が面白く(おもしろく)語り伝えられて(かたりつたえらえて)います。
 北条郡役所(ほうじょうぐんやくしょ)に、戸長(こちょう)の仲島佐次兵衛(なかじまさじべえ)さんが、村(むら)の用件(ようけん)で出向く(でむく)時(とき)には、海路(かいろ)の方(ほう)が楽(らく)なので、必ず(かならず)、ごじゃさんが船頭(せんどう)を頼まれ(たのまれ)、付いて(ついて)行き(いき)ましたが、その時(とき)は、我が家(わがや)は昔(むかし)から帯刀(たいとう)を許されて(ゆるされて)いたからと、何時(いつ)も腰(こし)に刀(かたな)をさして行った(いった)のです。
 それを見て(みて)困った(こまった)のは郡役所(ぐんやくしょ)の役人(やくにん)でした。国(くに)が廃刀令(はいとうれい)を出して(だして)、軍人(ぐんじん)と警官(けいかん)以外(いがい)は帯刀(たいとう)を禁止(きんし)していたからです。役人(やくにん)は、ごじゃさんが来る(くる)度(たび)に厳しく(きびしく)注意(ちゅうい)しましたが、ごじゃさんは、知らん顔(しらんかお)で改め(あらため)ようとはしません。呆れた(あきれた)役人(やくにん)は仕方(しかた)なく、代り(かわり)に戸長(こちょう)の仲島佐次兵衛(なかじまさじべえ)さんを叱り(しかり)ました。
 


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION