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富浦の昔ばなし 第二集

 事業名 <郷土学>富浦に伝わる民話集の編纂と地域再発見
 団体名 NPO富浦エコミューゼ研究会 注目度注目度5


戦時生活実践要綱(せんじせいかつじっせんようこう)
 昭和十二年(しょうわじゅうにねん)(一九三七)七月(しちがつ)に、我が国(わがくに)と中国(ちゅうごく)との間(あいだ)に戦争(せんそう)(支那事変(しなじへん))が起き(おき)ましたが、それはやがて、大東亜戦争(だいとうあせんそう)という泥沼(どろぬま)へ足(あし)を踏み入れる(ふみいれる)第一歩(だいいっぽ)でした。
 昭和十五年(しょうわじゅうごねん)(一九四〇)、我が国(わがくに)は紀元二千六百年(きげんにせんろっぴゃくねん)を盛大(せいだい)に祝い(いわい)ますと、日独伊(にちどくい)の三国同盟(さんごくどうめい)を結び(むすび)、米英(べいえい)などと戦う(たたかう)ための軍備拡張(ぐんびかくちょう)を始めた(はじめた)のです。そして、新体制(しんたいせい)と称し(しょうし)、大政翼賛会(たいせいよくさんかい)という国民統制組織(こくみんとうせいそしき)を作り(つくり)ますと、耐乏生活(たいぼうせいかつ)を強制(きょうせい)しました。
 旧(きゅう)・富浦町(とみうらまち)でも国(くに)の方針(ほうしん)に従い(したがい)、昭和十五年(しょうわじゅうごねん)(一九四〇)九月一日(くがつついたち)に、町民総動員大会(ちょうみんそうどういんたいかい)を開き(ひらき)、戦時生活実践要綱(せんじせいかつじっせんようこう)を決議(けつぎ)したのです。
 その時(とき)の文書(ぶんしょ)が豊岡(とよおか)の岡本崇(おかもとみつる)さんの家(いえ)に保存(ほぞん)されていましたので書き写し(かきうつし)ました。一読(いちどく)しますと、戦争時代(せんそうじだい)を知らない(しらない)人(ひと)でも、当時(とうじ)がどのような時代(じだい)だったか分かり(わかり)ます。
 
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兵隊送り(へいたいおくり)
 我が国(わがくに)には、太平洋戦争(たいへいようせんそう)が終る(おわる)まで、国民(こくみん)に兵役(へいえき)の義務(ぎむ)を強制的(きょうせいてき)に負わせる(おわせる)制度(せいど)がありましたので、男子(だんし)は満二十歳(まんにじゅっさい)になりますと徴兵検査(ちょうへいけんさ)を受け(うけ)、合格(ごうかく)した者(もの)はいつか軍隊(ぐんたい)に入る(はいる)ことになりました。
 昭和十六年(しょうわじゅうろくねん)(一九四一)十二月八日(じゅうにがつようか)に太平洋戦争(たいへいようせんそう)が起き(おき)ますと、我が国(わがくに)の軍隊(ぐんたい)は、それまで進出(しんしゅつ)していた中国大陸(ちゅうごくたいりく)のほかに、東南(とうなん)アジアへ向かって(むかって)進軍(しんぐん)を始め(はじめ)ましたので、富浦町(とみうらまち)や八束村(やつかむら)からも、赤紙(あかがみ)に書かれた(かかれた)召集令状(しょうしゅうれいじょう)を受けた(うけた)青壮年(せいそうねん)が、大勢(おおぜい)、陸(りく)・海軍(かいぐん)に入営(にゅうえい)し、戦地(せんち)に向かい(むかい)ました。
 国(くに)を挙げて(あげて)の戦争(せんそう)に出征(しゅっせい)するのですから、どこの町(まち)や村(むら)も総出(そうで)で召集(しょうしゅう)された兵士(へいし)を駅(えき)まで送り(おくり)、戦地(せんち)で立派(りっぱ)な働き(はたらき)ができるよう励ました(はげました)のです。その事(こと)を兵隊送り(へいたいおくり)と言い(いい)ました。
 富浦町(とみうらまち)でも八束村(やつかむら)でも、我が国(わがくに)の敗戦(はいせん)が近づいた(ちかづいた)昭和十八年(しょうわじゅうはちねん)(一九四三)頃(ごろ)になりますと、戦地(せんち)の兵士(へいし)の数(かず)が不足(ふそく)してきたため、召集(しょうしゅう)される兵士(へいし)が多く(おおく)なってきました。召集令状(しょうしゅうれいじょう)を受けた(うけた)兵士(へいし)たちは、武運長久(ぶうんちょうきゅう)と書かれた(かかれた)襷(たすき)を掛け(かけ)、陸軍(りくぐん)は奉公袋(ほうこうぶくろ)、海軍(かいぐん)は応召袋(おうしょうぶくろ)を手(て)に下げ(さげ)持ち(もち)、入営(にゅうえい)の日(ひ)に、国民学校(こくみんがっこう)の校庭(こうてい)集まった(あつまった)全校生徒(ぜんこうせいと)、青年団(せいねんだん)、国防婦人会(こくぼうふじんかい)、在郷軍人(ざいごうぐんじん)(元軍人(もとぐんじん))会(かい)の人(ひと)たちに、朝礼台(ちょうれいだい)から、
 「入営(にゅうえい)の暁(あかつき)には天皇陛下(てんのうへいか)のため一命(いちめい)を捧げ(ささげ)、祖国(そこく)を護り(まもり)ます。只今(ただいま)より行き(いき)ます。」
と、生きては(いきては)還らぬ(かえらぬ)決意(けつい)の挨拶(あいさつ)をして駅(えき)へ向かい(むかい)ました。
 校庭(こうてい)に集まった(あつまった)人(ひと)たちは、みんな駅(えき)まで歩いて(あるいて)送って(おくって)行き(いき)ました。そして出征兵士(しゅっせいへいし)が列車(れっしゃ)に乗り(のり)、その姿(すがた)が見えなく(みえなく)なるまで、全員(ぜんいん)声(こえ)を合せ(あわせ)、
 
 
と、軍歌(ぐんか)を歌って(うたって)見送った(みおくった)のです。駅(えき)に近い(ちかい)富浦国民学校(とみうらこくみんがっこう)は生徒数(せいとすう)が多かった(おおかった)ので、運んで(はこんで)きた大太鼓(おおだいこ)を叩き(たたき)、出征兵士(しゅっせいへいし)を励まし(はげまし)ました。見送られる(みおくられる)兵士(へいし)も名残(なごり)を惜しみ(おしみ)、過ぎ行く(すぎゆく)列車(れっしゃ)の窓(まど)から日の丸(ひのまる)の旗(はた)をいつまでも振って(ふって)いました。
 しかし戦争(せんそう)とは悲しい(かなしい)ものです。武運長久(ぶうんちょうきゅう)を願って(ねがって)送り出した(おくりだした)兵士(へいし)たちですが、戦死者(せんししゃ)が続出(ぞくしゅつ)、富浦町(とみうらまち)も八束村(やつかむら)も小さな(ちいさな)白木(しらき)の箱(はこ)に入り(はいり)還って(かえって)くる兵士(へいし)が後(あと)を断ち(たち)ませんでした。
 


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