八束小学校倒壊(やつかしょうがっこうとうかい)
関東大震災(かんとうだいしんさい)の旧八束村(きゅうやつかむら)一番(いちばん)の被害(ひがい)は、小学校(しょうがっこう)が倒壊(とうかい)し、焼失(しょうしつ)してしまった事(こと)でした。
その時(とき)のありさまを、『安房震災誌(あわしんさいし)』や『安房震概(あわしんがい)』は次(つぎ)のように書いて(かいて)います。
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大正十二年(たいしょうじゅうにねん)(一九二三)の九月一日(くがつついたち)に起きた(おきた)関東大震災(かんとうだいしんさい)は、房州(ぼうしゅう)に住む(すむ)人(ひと)たちにも大きな(おおきな)被害(ひがい)を与え(あたえ)ました。一般民家(いっぱんみんか)の倒壊(とうかい)だけでなく、当時(とうじ)の重要(じゅうよう)な交通機関(こうつうきかん)だった鉄道(てつどう)まで被害(ひがい)を受け(うけ)、富浦(とみうら)や八束(やつか)は陸(りく)の孤島(ことう)になったと、『安房震慨(あわしんがい)』は伝えて(つたえて)います。
(文章(ぶんしょう)を現代文(げんだいぶん)に改めて(あらためて)書き写し(かきうつし)ました。)
関東大震災(かんとうだいしんさい)では、産業(さんぎょう)の上(うえ)でも大きな(おおきな)損害(そんがい)を被り(こうむり)ました。『安房震災誌(あわしんさいし)』は八束(やつか)、富浦(とみうら)両村(りょうそん)の状況(じょうきょう)を、次(つぎ)のように述べて(のべて)います。
この震災誌(しんさいし)の富浦村(とみうらむら)の状況(じょうきょう)を読み(よみ)ますと、広範囲(こうはんい)に起きた(おきた)地震(じしん)から受ける(うける)影響(えいきょう)は、自分(じぶん)の目(め)の前(まえ)の被害(ひがい)だけを見て(みて)、どうこう言える(いえる)ものではない事(こと)を教えて(おしえて)いますね。
文明(ぶんめい)が進めば(すすめば)進む(すすむ)ほど災害(さいがい)の種類(しゅるい)や範囲(はんい)が増し(まし)ます。大地震(おおじしん)の予知(よち)は困難(こんなん)ですが、近い(ちかい)将来(しょうらい)にきっと起り(おこり)ますから、いざという時(とき)には何(なに)をなすべきか、常(つね)に考えて(かんがえて)おく必要(ひつよう)がありますね。
大房岬(たいぶさみさき)の弾丸掘り(だんがんほり)
明治三十三年(めいじさんじゅうさんねん)(一九〇〇)、日本帝国海軍(にっぽんていこくかいぐん)は日露戦争(にちろせんそう)に備えて(そなえて)、大房岬(たいぶさみさき)を艦砲射撃(かんぽうしゃげき)の演習場(えんしゅうじょう)に定め(さだめ)ますと、岬南面(みさきなんめん)の断崖(だんがい)を標的(ひょうてき)にして激しい(はげしい)演習(えんしゅう)を続け(つづけ)ました。
その演習(えんしゅう)に使われた(つかわれた)艦砲(かんぽう)の弾丸(だんがん)が、四発(よんぱつ)、私(わたし)の家(いえ)に残って(のこって)いますので、文化財(ぶんかざい)だと思い(おもい)大事(だいじ)にしていますが、内(うち)の二発(にはつ)は、明治十年(めいじじゅうねん)(一八七七)西郷隆盛(さいごうたかもり)らの反乱(はんらん)によって起きた(おきた)、西南戦争(せいなんせんそう)の頃(ころ)に使われた(つかわれた)大砲(たいほう)のものです。
弾丸(だんがん)の大きさ(おおきさ)は、それぞれ違って(ちがって)おり、最大(さいだい)は、直径十一(ちょっけいじゅういち)センチ・長さ三十六(さんじゅうろく)センチです。信管(しんかん)は全部(ぜんぶ)弾頭(だんとう)に付いて(ついて)います。
どうして私(わたし)の家(いえ)に、大房岬(たいぶさみさき)の断崖(だんがい)に打ち込まれた(うちこまれた)弾丸(だんがん)があるのか言い(いい)ますと、民話(みんわ)のような話(はなし)になってしまいますが・・・。
江戸時代(えどじだい)から大正(たいしょう)の終わり(おわり)まで、宮本(みやもと)の集落(しゅうらく)に、姓(せい)は岩崎(いわさき)、屋号(やごう)は菅谷(すげやつ)という家(いえ)がありました。私(わたし)の家(いえ)と深い(ふかい)関係(かんけい)のある家(いえ)でしたが、その家(いえ)の人(ひと)たちは、代々(だいだい)口(くち)だけは巧者(こうしゃ)なのに働く(はたらく)のが嫌い(きらい)だったため、家(いえ)をつぶして多田良(ただら)に移った(うつった)のです。しかし住む(すむ)場所(ばしょ)を替えた(かえた)からとて、うまい金儲け(かねもうけ)などできるはずはありませんから、たちまち食べる(たべる)のに困り(こまり)、恐ろしい(おそろしい)事(こと)を始めた(はじめた)のです。
なんと、帝国海軍(ていこくかいぐん)が艦砲射撃(かんぽうしゃげき)の演習(えんしゅう)のため標的(ひょうてき)にした断崖(だんがい)をよじ登り(のぼり)、不発弾(ふはつだん)を見つけると(みつけると)掘り出し(ほりだし)、信管(しんかん)を外して(はずして)炸薬(さくやく)を抜き(ぬき)、骨董品(こっとうひん)として売り出した(うりだした)のです。しかし当時(とうじ)は、そんなものを高く(たかく)買う(かう)人(ひと)はいませんから、商売(しょうばい)になりません。かわいそうだと私(わたし)の家(いえ)で買い取って(かいとって)やりました。その数(かず)は八発(はちはつ)でした。
危険(きけん)なことをしていれば、何(なに)かが起きる(おきる)のは当たり前(あたりまえ)です。皆(みな)が心配(しんぱい)したとおり、菅谷(すげやつ)は、ある日(ひ)、弾丸(だんがん)の信管(しんかん)外し(はずし)に失敗(しっぱい)して、家(いえ)と共(とも)に木端微塵(こっぱみじん)になり吹き飛んで(ふきとんで)しまいました。
話(はなし)のついでに書き加え(かきくわえ)ます。菅谷(すげやつ)(岩崎(いわさき))の先祖(せんぞ)は、戦国時代(せんごくじだい)、里見氏(さとみし)と関係(かんけい)のある商人(しょうにん)として館山(たてやま)に住んで(すんで)いましたが、慶長十九年(けいちょうじゅうくねん)(一六一四)里見氏(さとみし)が伯耆(ほうき)(今の鳥取県(とっとりけん))の倉吉(くらよし)へ国替(くにがえ)になったとき、鶴ヶ谷八幡宮(つるがやはちまんぐう)の神主(かんぬし)だった私(わたし)の家(いえ)を頼って(たよって)、宮本(みやもと)に移り住んだ(うつりすんだ)のです。以来(いらい)、大正(たいしょう)の終わり(おわり)まで三百五十年余り(さんびゃくごじゅうねんあまり)の歴史(れきし)を重ね(かさね)ましたが、代々(だいだい)に渡って(わたって)近隣(きんりん)の地(ち)に分家(ぶんけ)を出さなかった(ださなかった)のか、現在(げんざい)の八束地区内(やつかちくない)に、岩崎姓(いわさきせい)を名乗る(なのる)家(いえ)は一軒(いっけん)もありません。
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