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山椒(さんしょう)の味噌汁(みそしる)
 子供(こども)の頃(ころ)、家(いえ)の仕事(しごと)を手伝わなかったり(てつだわなかったり)、悪さ(わるさ)をしますと、
「飯(めし)を食わせない(くわせない)ぞ。」
と叱られた(しかられた)お年寄り(としより)がたくさんいます。
 今(いま)は飽食(ほうしょく)の世(よ)ですから考えられない(かんがえられない)話(はなし)ですが、昭和(しょうわ)の初め(はじめ)までは貧しい(まずしい)家(いえ)が幾軒(いくけん)もあり、三度(さんど)のご飯(ごはん)を、毎日(まいにち)腹(はら)いっぱい食べて(たべて)いなかったので、その上(うえ)に、悪さ(わるさ)をしたからと言って(いって)、何(なに)も食わせて(くわせて)貰えない(もらえない)のは、子供心(こどもごころ)にも悲しかった(かなしかった)というのです。
 その頃(ころ)の話(はなし)として聞かされた(きかされた)のですが・・・。
 ある貧しい(まずしい)農家(のうか)の姑(しゅうと)が嫁(よめ)に言い(いい)ました。
「此の頃(このごろ)、味噌汁(みそしる)に何(なに)も入って(はいって)いないがどうしたの。菜っ葉(なっぱ)ぐらい入れ(いれ)なさいよ。」
 嫁(よめ)は答え(こたえ)ました。
「菜っ葉(なっぱ)はみんな売って(うって)しまったんですよ。その代り(かわり)、山椒(さんしょう)が入って(はいって)いますよ。」
 姑(しゅうと)は、にやにや笑い(わらい)ながら嫁(よめ)に詫び(わび)ました。
「そうだったね、うっかりしていたよ。悪い(わるい)ことを言って(いって)すまなかったね。」
 昔(むかし)の農家(のうか)の味噌汁(みそしる)は、自家製(じかせい)の味噌(みそ)を擂り鉢(すりばち)で擂って(すって)作り(つくり)ましたが、擂り粉木(すりこぎ)は大方(おおかた)が、香り(かおり)が良く(よく)、しかも毒消し(どくけし)になるという山椒(さんしょう)の木(き)でしたので、ほんのちょっぴりですが、味噌汁(みそしる)の中(なか)へ山椒(さんしょう)が間違い(まちがい)なく入る(はいる)事(こと)になりますね。
 貧しい(まずしい)家(いえ)の話(はなし)ですが、姑(しゅうと)と嫁(よめ)の会話(かいわ)に陽気(ようき)さがあるため、聞いて(きいて)いて救われ(すくわれ)ます。
 
金貸し(かねかし)の証文(しょうもん)
 江戸時代(えどじだい)から明治(めいじ)の頃(ころ)までの、お金儲け(かねもうけ)一番(いちばん)の方法(ほうほう)は、人(ひと)にお金(かね)を貸す(かす)ことだったそうですね。ですから当時(とうじ)は、八束(やつか)のような純農村地帯(じゅんのうそんちたい)にも、金貸し(かねかし)をして財(ざい)を成した(なした)という家(いえ)の話(はなし)がたくさん残って(のこって)います。
 今(いま)のような銀行(ぎんこう)は無い(ない)昔(むかし)のことですから、お金(かね)の貸し借り(かしかり)は驚く(おどろく)ような条件(じょうけん)で行われました。利息(りそく)は十日(とおか)で一割(いちわり)。担保(たんぽ)は農村(のうそん)の場合(ばあい)、借りる(かりる)お金(かね)の何百倍(なんびゃくばい)も価値(かち)のある山林(さんりん)や田畑(たはた)を当てる(あてる)のが普通(ふつう)でした。そして約束(やくそく)の返済期限(へんさいきげん)が切れれば(きれれば)、担保物(たんぽぶつ)は質流れ(しちながれ)のような形(かたち)で、貸し主(かしぬし)の所有(しょゆう)になってしまいました。
 ひどい金貸し(かねかし)の話(はなし)が残って(のこって)います。ある大百姓(おおびゃくしょう)の家(いえ)へ、漢字(かんじ)の読み書き(よみかき)ができないある小作百姓(こさくびゃくしょう)が銭(ぜに)を百文(ひゃくもん)借り(かり)に行った(いった)そうです。
 大百姓(おおびゃくしょう)は親切(しんせつ)そうに、
 「利息(りそく)はいらない。返済(へんさい)は何時(いつ)でもかまわないよ。」
と言い(いい)ながら、
 『ゼニハ百(ひゃく)モンカシツケソウロウ』(銭(ぜに)は百文貸付候(ひゃくもんかしつけそうろう))
と、あらまし仮名書き(かながき)にした証文(しょうもん)を作り(つくり)、百文(ひゃくもん)貸して(かして)くれました。
 ところが、後(のち)に小作百姓(こさくびゃくしょう)が返さねば(かえさねば)ならなくなった銭(ぜに)は八百文(はっぴゃくもん)だったのです。
 理不尽(りふじん)にも、大百姓(おおびゃくしょう)が、証文(しょうもん)に書かれた(かかれた)仮名文字(かなもじ)の「ハ(は)」を「八(はち)」と読む(よむ)のだと言い出した(いいだした)からです。
 
 
名刀(めいとう)の書き付け(かきつけ)
 明治(めいじ)より以前(いぜん)から続いた(つづいた)家(いえ)には、武家(ぶけ)か百姓(ひゃくしょう)だったかを問わず(とわず)、先祖(せんぞ)の用いた(もちいた)刀(かたな)が今(いま)も残って(のこって)いる事(こと)が多い(おおい)ですね。それらの刀(かたな)の謂(いわれ)は、ほとんど口伝え(くちづたえ)になっていますが、珍しく(めずらしく)豊岡(とよおか)の屋号(やごう)・四郎兵衛(しろうべえ)さんに、書き付け(かきつけ)が残って(のこって)いますので公開(こうかい)して貰い(もらい)ました。
 
 
 書き付け(かきつけ)の内容(ないよう)を説明(せつめい)します。正廣(まさひろ)とは備後(びんご)(広島県(ひろしまけん))三原派(みはらは)の刀工(とうこう)で、その刀(かたな)は室町時代(むろまちじだい)に三原物(みはらもの)と呼ばれ(よばれ)ました。村正(むらまさ)は、鎌倉後期(かまくらこうき)の刀工正宗(とうこうまさむね)の弟子(でし)となり、後(のち)に伊勢桑名(いせくわな)(三重県(みえけん))に住んだ(すんだ)刀工(とうこう)です。
 「正廣(まさひろ)・村正(むらまさ)の名刀(めいとう)は岡本家(おかもとけ)の家宝(かほう)であり、里見公(さとみこう)の子弟(してい)で、七千石(ななせんごく)を有した(ゆうした)先祖(せんぞ)の四郎兵衛(しろべえ)が用いた(もちいた)有名(ゆうめい)な刀(かたな)であるから、当家(とうけ)の相続人(そうぞくにん)は大切(たいせつ)にしなさい。」と、謂(いわれ)のある家伝(かでん)の宝刀(ほうとう)を、子子孫孫(ししそんそん)まで伝えよう(つたえよう)とする願い(ねがい)が、強く(つよく)込められた(こめられた)書き付け(かきつけ)ですね。
 なお、書き付け(かきつけ)にある先祖(せんぞ)の岡本四郎兵衛(おかもとしろべえ)は、三芳村(みよしむら)にある「滝田(たきた)の青墓(あおはか)」に名(な)が刻まれて(きざまれて)いる岡本四郎兵衛頼重(おかもとしろべえよりしげ)と同じ(おなじ)人物(じんぶつ)です。戦国時代(せんごくじだい)の元亀元年(げんきがんねん)(一五七〇)頃(ころ)、里見義弘(さとみよしひろ)に岡本城(おかもとじょう)を譲り渡して(ゆずりわたして)千代(せんだい)(三芳村(みよしむら))に移った(うつった)、岡本髄縁斎(おかもとずいえんさい)の孫(まご)に当り(あたり)ます。
 亡くなった(なくなった)四郎兵衛(しろべえ)の過去帳(かこちょう)は、豊岡(とよおか)の万蔵寺(まんぞうじ)と四郎兵衛家(しろべえけ)にあり、頼空道重信士(らいくうどうじゅうしんし)・慶長十六年(けいちょうじゅうろくねん)(一六一一)六月十三日寂(ろくがつじゅうさんにちじゃく)、と書かれて(かかれて)います。
 
 
江戸時代(えどじだい)の柄鏡(えかがみ)
 一般(いっぱん)の人達(ひとたち)の日常(にちじょう)使う(つかう)生活用具(せいかつようぐ)を、民具(みんぐ)と言い(いい)ますが、江戸時代(えどじだい)から明治(めいじ)にかけて作られた(つくられた)古い(ふるい)民具(みんぐ)には、飾って(かざって)おきたいような芸術的(げいじゅつてき)な物(もの)が沢山(たくさん)ありますね。そのような民具(みんぐ)をみますと、当時(とうじ)それを使って(つかって)いた人達(ひとたち)の暮らし(くらし)ぶりなどが思い起され(おもいおこされ)、心(こころ)に安らぎ(やすらぎ)を覚え(おぼえ)ますから不思議(ふしぎ)です。
 宮本(みやもと)の白石正(しらいしただし)さんの家(いえ)には、江戸時代(えどじだい)に使った(つかった)直径(ちょっけい)十センチ(じゅっセンチ)ほどの青銅(せいどう)の柄鏡(えかがみ)があります。百年以上(ひゃくねんいじょう)も鏡(かがみ)としての手入れ(ていれ)をしてありませんので、表面(ひょうめん)が薄青く(うすあおく)曇り(くもり)、物(もの)を映す(うつす)事(こと)は出来ません(できません)が、裏面(うらめん)には、鶴(つる)・亀(かめ)・松(まつ)・竹(たけ)・菊花(きくか)の飾り模様(かざりもよう)がある芸術品(げいじゅつひん)です。白石家(しらいしけ)に伝わる(つたわる)話(はなし)によりますと、その柄鏡(えかがみ)は、先祖(せんぞ)に当たる(あたる)清兵衛(せいべえ)さんが、宝暦(ほうれき)(一七五一〜一七六三)の頃(ころ)、現在(げんざい)の土地(とち)に一戸(いっこ)を構えて(かまえて)独立(どくりつ)した時(とき)、宮本村(みやもとむら)の名主(なぬし)から、刀(かたな)といっしょに贈られた(おくられた)ものなのです。そのような謂(いわれ)から、白石家(しらいしけ)では、明治(めいじ)の頃(ころ)まで代々(だいだい)の人(ひと)が、物(もの)を映す(うつす)道具(どうぐ)としてだけでなく、家(いえ)の魂(たましい)だと思って(おもって)大切(たいせつ)に使って(つかって)いたというのです。
 話(はなし)のついでですから、江戸時代(えどじだい)の青銅(せいどう)の柄鏡(えかがみ)の手入れ方法(ていれほうほう)を言います。青銅(せいどう)の鏡(かがみ)はガラス製(せい)と違い(ちがい)、長く(ながく)使って(つかって)いますと自然(しぜん)に表面(ひょうめん)が曇り(くもり)、映り(うつり)が悪く(わるく)なって来ます(きます)ので、一般家庭(いっぱんかてい)では、年(ねん)に一回(いっかい)石榴(ざくろ)の果汁(かじゅう)で磨き(みがき)ました。柘榴(ざくろ)の強い(つよい)酸(さん)で、鏡(かがみ)の曇り(くもり)を消した(けした)のです。
 


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