昔(むかし)の暮らし(くらし)いろいろ
〈原岡・紺屋歴史資料館蔵〉
亦右衛門は万祝をたくさん作った |
むかし、漁師(りょうし)の家(いえ)には万祝(まいわい)という祝い着(いわいぎ)がありました。船主(ふなぬし)が、大漁(たいりょう)だった年(とし)の暮れ(くれ)に漁師(りょうし)へ配り(くばり)、信仰(しんこう)する神社仏閣(じんじゃぶっかく)のお参り(まいり)や、正月(しょうがつ)の顔合わせ(かおあわせ)の時(とき)、着せた(きせた)ものです。
万祝(まいわい)を着る(きる)風習(ふうしゅう)のあった地域(ちいき)は、宮城県気仙沼(みやぎけんけせんぬま)から東京都(とうきょうと)の八丈(はちじょう)・大島(おおしま)など太平洋岸(たいへいようがん)の内(うち)ですが、その発祥地(はっしょうち)は房総半島(ぼうそうはんとう)ですので、昭和(しょうわ)(一九二六〜一九八九)の初め頃(はじめころ)までは、房総(ぼうそう)だけでも五十軒以上(ごじゅっけんいじょう)の、万祝(まいわい)を染めた(そめた)紺屋(こうや)があったそうです。
富浦(とみうら)の岡本(おかもと)で、江戸時代(えどじだい)(一六〇三〜一八六七)から八代(はちだい)続いた(つづいた)『紺屋亦右衛門(こうやまたうえもん)』も、その一軒(いっけん)です。
現在(げんざい)の当主(とうしゅ)・小林栄一(こばやしえいいち)さんの話(はなし)によりますと、銚子(ちょうし)から勝浦地方(かつうらちほう)で作った(つくった)万祝(まいわい)は「波(なみ)に千鳥(ちどり)」。八丈(はちじょう)は「飛び魚(とびうお)」などの簡単(かんたん)な図柄(ずがら)でしたが、亦右衛門(またうえもん)の作った(つくった)ものは、芸術性(げいじゅつせい)豊かな(ゆたかな)「恵比寿大黒(えびすだいこく)」「三番叟(さんばんそう)」「五人冠者(ごにんかじゃ)」など、人物(じんぶつ)が多かった(おおかった)そうです。人物(じんぶつ)を図柄(ずがら)とした万祝(まいわい)の見映え(みばえ)は、何(なん)と言っても(いっても)、その絵(え)の顔(かお)の美しさ(うつくしさ)で決まり(きまり)ますので、目鼻(めはな)、口元(くちもと)を描く(えがく)時(とき)、特(とく)に気(き)をつかったと言い(いい)ます。
白浜(しらはま)の海洋博物館(かいようはくぶつかん)に、万祝い(まいわい)を展示(てんじ)していますが、全部(ぜんぶ)、亦右衛門(またうえもん)の図柄(ずがら)のものですから、興味(きょうみ)のある人(ひと)は見学(けんがく)すると良い(よい)ですね。
三月三日(さんがつみっか)は雛祭(ひなまつり)です。女(おんな)の児(こ)が生まれ(うまれ)ますと、その児(こ)の幸福(こうふく)・成長(せいちょう)を祈り(いのり)、きらびやかな雛人形(ひなにんぎょう)を飾り(かざり)ますが、この風習(ふうしゅう)は江戸中期(えどちゅうき)から行われて(おこなわれて)いるようですね。
しかし、江戸時代(えどじだい)に飾った(かざった)古い(ふるい)雛人形(ひなにんぎょう)は、どこの家(いえ)にも残って(のこって)いるものでなく、稀(まれ)にしかありません。有名(ゆうめい)なのは、隣町(となりまち)・富山町久枝(とみやままちくし)の屋号(やごう)・蔵屋敷(くらやしき)さんに残る(のこる)、内裏雛(だいりびな)(享保雛(きょうほうびな))ですが、富浦町(とみうらまち)では、文政四年(ぶんせいよねん)(一八二一)の五人囃子(ごにんばやし)の雛(ひな)が、豊岡(とよおか)の屋号(やごう)・四郎兵衛(しろうべえ)さんに残って(のこって)います。
五人囃子(ごにんばやし)とは内裏雛(だいりびな)の下段(かだん)に置く(おく)雛(ひな)で、地謡(ちうたい)・笛(ふえ)・小鼓(こづつみ)・大鼓(おおかわ)・太鼓役(たいこやく)の五童子(ごどうじ)のことですが、四郎兵衛(しろうべえ)さんの五人囃子(ごにんばやし)は、身(み)の丈(たけ)が三十六(さんじゅうろく)センチもある立派(りっぱ)な雛(ひな)です。七重(ななえ)の着衣(ちゃくい)の上(うえ)に重ねた(かさねた)西陣織(にしじんおり)の小袖(こそで)には、金糸銀糸(きんしぎんし)で菊(きく)の模様(もよう)が施されて(ほどこされて)おり、髪(かみ)は稚児結い(ちごゆい)で気品(きひん)のある顔(かお)をしています。雛(ひな)の背後(はいご)に立って(たって)いる六枚屏風(ろくまいびょうぶ)も立派(りっぱ)で、貝(かい)がらで作った(つくった)鶴亀松竹梅(つるかめしょうちくばい)が付いて(ついて)います。
ところで、肝腎(かんじん)の内裏雛(だいりびな)と三人官女(さんにんかんじょ)が無い(ない)のはどうしてかと、四郎兵衛(しろうべえ)さんに訳(わけ)を尋ね(たずね)ますと、内裏雛(だいりびな)は、むかし、氏神(うじがみ)の大宮八幡(おおみやはちまん)に納め(おさめ)、三人官女(さんにんかんじょ)は親戚(しんせき)に貰われた(もらわれた)からという事(こと)でした。ついでに書き添え(かきそえ)ますが、四郎兵衛(しろうべえ)さんが大宮八幡(おおみやはちまん)に納めた(おさめた)内裏雛(だいりびな)は、すぐ誰か(だれか)が持ち去った(もちさった)そうです。文化財的(ぶんかざいてき)な価値(かち)を知って(しって)いた人(ひと)だったのでしょうね。
昔(むかし)、餅(もち)は一番(いちばん)の御馳走(ごちそう)でした。ですから、目出度い(めでたい)時(とき)、悲しい(かなしい)時(とき)を問わず(とわず)、神仏(しんぶつ)に供えたり(そなえたり)、人(ひと)に配ったり(くばったり)、食べたり(たべたり)する事(こと)が風習(ふうしゅう)となり、今(いま)も残って(のこって)いますね。
しかし、その餅(もち)を搗く(つく)というのは、昔(むかし)は大きな(おおきな)臼(うす)と重い(おもい)杵(きね)を使って(つかって)の作業(さぎょう)でしたから、決して(けっして)楽(らく)なものではありませんでした。特(とく)に八束(やつか)の農家(のうか)では、毎年二月(まいとしにがつ)になりますと、寒餅(かんもち)と言って(いって)、一年分(いちねんぶん)のお八つ(やつ)用(よう)のアラレやカキモチにする餅(もち)を、たくさん搗き(つき)ましたから大変(たいへん)でした。その餅搗き(もちつき)の日(ひ)は、前日(ぜんじつ)に磨いで(といで)おいた餅米(もちごめ)を、家族中(かぞくじゅう)が年齢(ねんれい)や体力(たいりょく)に応じて(おうじて)、蒸す(むす)人(ひと)、搗く(つく)人(ひと)、手合わせ(てあわせ)する人(ひと)、餅板(もちいた)に餅(もち)を伸す(のす)人(ひと)になり、一所懸命(いっしょけんめい)に行った(おこなった)のです。人手(ひとで)の足りない(たりない)家(いえ)は親戚(しんせき)の人(ひと)などを頼み(たのみ)ました。
大正時代(たいしょうじだい)まで賑やか(にぎやか)に唄われた(うたわれた)という『餅搗き唄(もちつきうた)』の歌詞(かし)が残って(のこって)いますが、残念(ざんねん)ながら節(ふし)は分かり(わかり)ません。どんな節(ふし)だったのでしょうね。
珍しく(めずらしく)なった虫送り(むしおくり)行事(ぎょうじ)が、今年(ことし)(平成十二年(へいせいじゅうにねん))も、青木地区(あおきちく)で五月十七日(ごがつじゅうしちにち)に行われ(おこなわれ)ました。
青木(あおき)の虫送り(むしおくり)は区(く)が主催(しゅさい)するのですが、主役(しゅやく)は昔(むかし)から子供(こども)たちです。午後六時(ごごろくじ)に氏神(うじがみ)の青木神社(あおきじんじゃ)へ集まった(あつまった)小学生(しょうがくせい)までの二十二人(にじゅうににん)が、およそ二(に)メートルの竹(たけ)と稲(いな)わらで作った(つくった)タイマツに火(ひ)を付け(つけ)、口々(くちぐち)に「オークンド、オークンド。」と虫送り(むしおくり)の歌(うた)を唱え(となえ)ながら、植え終えた(うえおえた)水田(すいでん)を回って(まわって)、岡本川(おかもとがわ)の青木橋(あおきばし)まで害虫(がいちゅう)を送り出し(おくりだし)、そこでタイマツを焼き捨てた(やきすてた)のです。
虫送り(むしおくり)とは、水稲(すいとう)に付く(つく)ウンカ、ズイムシ、イナゴなどの害虫(がいちゅう)を、集落中(しゅうらくじゅう)の田んぼ(たんぼ)から追い出す(おいだす)農村(のうそん)の伝統行事(でんとうぎょうじ)で、江戸時代(えどじだい)から全国的(ぜんこくてき)に行われて(おこなわれて)いたのですが、第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)を終えて(おえて)間も無く(まもなく)、急速(きゅうそく)に普及(ふきゅう)した農薬(のうやく)のため、すっかり廃れ(すたれ)、今(いま)はどこでも大人(おとな)が公会堂(こうかいどう)などに集まり(あつまり)、飲食(いんしょく)するだけになってしまいました。
青木(あおき)の虫送り(むしおくり)は、昔(むかし)のままの姿(すがた)で珍しい(めずらしい)とNHKが取材(しゅざい)に来て(きて)、全国(ぜんこく)へテレビで放映(ほうえい)したため、すっかり有名(ゆうめい)になってしまいましたが、調べて(しらべて)みますと、子供(こども)が行って(おこなって)いる虫送り(むしおくり)は、千葉県内(ちばけんない)では我が町(わがまち)の青木(あおき)だけのようです。いつまでも残して(のこして)おいてもらいたいですね。
|