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丹生(にゅう)の稲荷講(いなりこう)
 稲荷様(いなりさま)は稲(いね)をつかさどる倉稲魂(うかのみたま)という神(かみ)を祀った(まつった)ものですから、昔(むかし)から農家(のうか)の信仰(しんこう)が篤く(あつく)、二月(にがつ)の初午(はつうま)になりますと多く(おおく)の集落(しゅうらく)で稲荷講(いなりこう)を行い(おこない)ます。
 丹生(にゅう)の下口(しもぐち)と呼ばれる(よばれる)集落(しゅうらく)でも、江戸時代(えどじだい)の昔(むかし)から稲荷講(いなりこう)を行って(おこなって)いるのですが、その日(ひ)は初午(はつうま)ではなく、十一月(じゅういちがつ)の勤労感謝(きんろうかんしゃ)の日(ひ)です。下口(しもぐち)の人(ひと)たちが崇め(あがめ)敬う(うやまう)稲荷様(いなりさま)の社(やしろ)は、集落(しゅうらく)の中(なか)の長兵衛(ちょうべえ)(屋号(やごう))さんが、むかし建てた(たてた)小さな(ちいさな)社(やしろ)ですが、それを皆(みな)で守り(まもり)ながら稲荷講(いなりこう)を続けて(つづけて)いるのです。平成十七年(へいせいじゅうしちねん)(二〇〇五)には、講中総出(こうじゅうそうで)で古く(ふるく)なった鳥居(とりい)を建て替え(たてかえ)ました。講(こう)の宿(やど)は、当番(とうばん)の常右衛門(つねむ)(屋号(やごう))さんで、持回りに(もちまわり)なっている稲荷講(いなりこう)の掛軸(かけじく)を押板(おしいた)の柱(はしら)に懸け(かけ)、三拝九拝(さんぱいきゅうはい)して、一夜(いちや)を楽しく(たのしく)語り合った(かたりあった)のです。
 掛軸(かけじく)には、大きく(おおきく)『戸崎稲生大明神(とざきいなりだいみょうじん)』と書かれ(かかれ)、「源信義(みなもとののぶよし)」の落款(らっかん)があります。軸(じく)を納めて(おさめて)おく竹筒(たけづつ)には「稲荷講社中(いなりこうしゃちゅう)」と書かれて(かかれて)います。稲荷(いなり)は、稲生(いねなり)から転じた(てんじた)という説(せつ)がありますが、この掛軸(かけじく)は、それを証明(しょうめい)する貴重(きちょう)な資料(しりょう)と言え(いえ)ます。ひとつ残念(ざんねん)なのは、この掛軸(かけじく)を頒布(はんぷ)した戸崎稲生(とざきいなり)の社(やしろ)が、どこの地(ち)にあるのか分からない(わからない)ことです。
 なお、掛軸(かけじく)に書かれて(かかれて)いる稲生(いなり)の文字(もじ)について、下口(しもぐち)の人(ひと)たちは、
 「本当(ほんとう)なら、稲荷(いなり)となるべきだが、荷(なり)の字(じ)が生(なり)となっているのは、この土地(とち)が丹生(にゅう)だからだ。稲荷(いなり)の下(した)の字(じ)と、丹生(にゅう)の下(した)の字(じ)を取り替えて(とりかえて)書いて(かいて)あるのだ。」
と、面白く(おもしろく)語り伝えて(かたりつたえて)います。
 
御上り(おのぼり)御降り(おくだり)
 陰暦(いんれき)の十月(じゅうがつ)は神無月(かんなづき)と言い(いい)ますが、それは全国(ぜんこく)の八百万(やおよろず)の神様(かみさま)が島根(しまね)の出雲大社(いずもたいしゃ)(祭神大国主命(さいじんおおくにぬしのみこと))へ御集まり(おあつまり)になるため、出雲以外(いずもいがい)は神様不在(かみさまふざい)となるからです。
 何千年(なんぜんねん)も前(まえ)の神代(かみよ)から続いて(つづいて)いる出雲大社(いずもたいしゃ)の神事(しんじ)だそうですが、御集まり(おあつまり)になった神様(かみさま)の一番(いちばん)の御仕事(おしごと)は、まだ結婚(けっこん)していない若い(わかい)男女(だんじょ)の縁結び(えんむすび)です。ですから、神様(かみさま)が出雲(いずも)へ御上り(おのぼり)になる日(ひ)、神社(じんじゃ)へ籠り(こもり)、祈願(きがん)すれば、神様(かみさま)は出雲(いずも)で赤い(あかい)色(いろ)の丈夫(じょうぶ)な麻(あさ)の糸(いと)で、男女(だんじょ)の縁(えん)を繋いで(つないで)くださるのです。
 そのような事(こと)から、昔(むかし)は神様(かみさま)が出雲(いずも)へ御上り(おのぼり)になる九月三十日(くがつさんじゅうにち)と、地元(じもと)の神社(じんじゃ)へ御降り(おくだり)になる十月三十一日(じゅうがつさんじゅういちにち)は、町中(まちじゅう)の神社(じんじゃ)で若者達(わかものたち)(青年会(せいねんかい))が集まり(あつまり)、夜明かし(よあかし)で籠り(こもり)を行った(おこなった)のです。と言っても(いっても)若者達(わかものたち)の事(こと)ですから、真面目(まじめ)に一晩中(ひとばんじゅう)、神様(かみさま)に祈願(きがん)していた訳(わけ)ではありません。持ち寄った(もちよった)肴(さかな)で大酒(おおざけ)を飲み(のみ)ながら、民謡(みんよう)を歌ったり(うたったり)、冗談話(じょうだんばなし)をしたり、また、夜食用(やしょくよう)に他人(たにん)の家(いえ)の柿(かき)や蜜柑(みかん)を失敬(しっけい)に出掛ける(でかける)者達(ものたち)もいました。当然(とうぜん)、神様(かみさま)の御利益(ごりやく)の無い(ない)者(もの)も出て来ます(でてきます)が、若者達(わかものたち)には天下御免(てんかごめん)の楽しい(たのしい)籠り(こもり)だったのです。
 
 
御上り(おのぼり)の無い(ない)神様(かみさま)
 陰暦(いんれき)の十月(じゅうがつ)は、全国(ぜんこく)の神様(かみさま)が出雲国(いずものくに)に鎮座(ちんざ)する出雲大社(いずもたいしゃ)(元官幣大社(もとかんぺいたいしゃ)。出雲国一の宮(いずものくにいちのみや))へ御上り(おのぼり)になって、男女(だんじょ)の縁(えん)を結ぶ(むすぶ)という俗信(ぞくしん)があります。
 しかし、中(なか)には出雲大社(いずもたいしゃ)へお上り(のぼり)にならない神様(かみさま)もおられるそうで、信濃国(しなののくに)に鎮座(ちんざ)する諏訪大社(すわたいしゃ)(元官幣大社(もとかんぺいたいしゃ)。信濃国一の宮(しなののくにいちのみや))の祭神(さいじん)・建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)もその御一方(おひとかた)です。
 古来(こらい)から諏訪明神(すわみょうじん)と呼ばれ(よばれ)、富浦町(とみうらまち)にも大津(おおつ)や豊岡(とみおか)にお祀り(まつり)されていますが、その諏訪(すわ)の神様(かみさま)が出雲大社(いずもたいしゃ)へ御上り(おのぼり)にならない訳(わけ)の、面白い(おもしろい)話(はなし)があるのです。
 大昔(おおむかし)、出雲大社(いずもたいしゃ)に御上り(おのぼり)が始まった(はじまった)時(とき)、諏訪(すわ)の神様(かみさま)だけが来ない(こない)ので、集まった(あつまった)神様達(かみさまたち)が心配(しんぱい)していますと、やっと現れた(あらわれた)諏訪(すわ)の神様(かみさま)が言い(いい)ました。
 「私(わたし)の体(からだ)は大きく(おおきく)長い(ながい)から、来る(くる)のに大変(たいへん)なのです。私(わたし)の本当(ほんとう)の姿(すがた)を見て(みて)ください。」
 神様達(かみさまたち)が諏訪(すわ)の神様(かみさま)をよく見ます(みます)と、正体(しょうたい)は大蛇(だいじゃ)で、胴(どう)が出雲(いずも)から信濃(しなの)まで続き(つづき)、尾(お)の方(ほう)はまだ諏訪湖(すわこ)の中(なか)に入って(はいって)いるのです。尾(お)の先(さき)が出雲(いずも)まで来る(くる)には、まだ何日(なんにち)かかるのか分かり(わかり)ません。気の毒(きのどく)に思った(おもった)神様達(かみさまたち)が、
 「諏訪(すわ)さん、貴方(あなた)はこれから出雲(いずも)に来なくて(こなくて)いいよ。」
と言い(いい)ました。諏訪(すわ)の神様(かみさま)は、御上り(おのぼり)の無い(ない)神様(かみさま)になったのです。
 
 
魔羅神様(まらがみさま)
 八束地区(やつかちく)には、何軒(なんげん)かに石(いし)で作った(つくった)『魔羅神様(まらがみさま)』というのが祀られて(まつられて)います。
 その神様(かみさま)のお姿(すがた)は、男(おとこ)のシンボルに似て(にて)いますので、一目(ひとめ)すれば誰(だれ)でもよく分かり(わかり)ますが、八束地区(やつかちく)にあるのは、現代(げんだい)の、石工(せっこう)が作った(つくった)ものではなく、太古(たいこ)の縄文時代(じょうもんじだい)の『石棒(せきぼう)』がほとんどです。
 石棒(せきぼう)とは縄文時代(じょうもんじだい)の遺物(いぶつ)のひとつで、円い(まるい)棒(ぼう)の一端(いったん)にふくらみをつけた磨製(ませい)の石器(せっき)で、長さ(ながさ)は一(いち)メートルに及ぶ(およぶ)ものがあります。儀礼的(ぎれいてき)か、宗教的(しゅうきょうてき)な用途(ようと)が考えられる(かんがえられる)もので、大方(おおかた)は地中(ちちゅう)に埋まって(うまって)いたのですが、それを掘り当てた(ほりあてた)人(ひと)が、その石棒(せきぼう)の形(かたち)を見ます(みます)と、男(おとこ)のシンボルに似て(にて)おり、しかも石(いし)は房州産(ぼうしゅうさん)ではない緑泥片岩(りょくでいへんがん)や安山岩(あんざんがん)などが多い(おおい)ので珍重(ちんちょう)なものと考え(かんがえ)、子孫繁栄(しそんはんえい)の魔羅神様(まらがみさま)にしたと思われる(おもわれる)のです。
 福澤(ふくざわ)の忍足三郎(おしたりさぶろう)さん(故人(こじん))が、おもしろい話(はなし)をした事(こと)がありました。忍足(おしたり)さんの家(いえ)にも魔羅神様(まらがみさま)が祀って(まつって)あるのですが、子供(こども)のころ父親(ちちおや)に、
 「この神様(かみさま)は何んだ(なんだ)かい。」
と聞き(きき)ますと、父親(ちちおや)は笑い(わらい)ながら、
 「これは、虎(とら)の皮(かわ)の褌(ふんどし)をした雷(かみなり)が雲(くも)の上(うえ)で使う(つかう)太鼓(たいこ)の撥(ばち)だ。昔(むかし)、家(いえ)の畑(はたけ)へ落ちて(おちて)きたので、俺(おれ)の爺さん(じいさん)が拾って(ひろって)祀った(まつった)のだ。」と、巧く(うまく)答えた(こたえた)そうです。
 
安房国八十八ヶ所巡拝(あわのくにはちじゅうはちかしょじゅんぱい)
 むかし、安房国(あわのくに)の弘法大師八十八ヶ所(こうぼうだいしはちじゅうはちかしょ)の札所(ふだしょ)が開帳(かいちょう)になりますと、「南無大師偏照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と大師(だいし)の名号(みょうごう)を唱え(となえ)、御詠歌(ごえいか)を詠じて(えいじて)巡拝(じゅんぱい)する人(ひと)が大勢(おおぜい)おりました。
 伝説(でんせつ)によりますと、この巡拝(じゅんぱい)は天正十年(てんしょうじゅうねん)(一五八二)に頼長上人(らいちょうしょうにん)という高僧(こうそう)が、遠方(えんぽう)の四国八十八ヶ所霊場(しこくはちじゅうはちかしょれいじょう)を巡拝(じゅんぱい)できない老若男女(ろうにゃくなんにょ)の、後世安楽(こうせいあんらく)を願う(ねがう)希望(きぼう)にこたえ、安房国(あわのくに)に移し(うつし)、始めた(はじめた)というのです。
 しかし、安房国(あわのくに)の八十八ヶ所(はちじゅうはちかしょ)の開帳(かいちょう)は、五十年(ごじゅうねん)に一度(いちど)ですから、大方(おおかた)の人(ひと)は一生(いっしょう)に一度(いちど)しか巡拝(じゅんぱい)できないことになります。過ぎた(すぎた)開帳(かいちょう)の年(とし)は、弘法大師千百五十年御遠忌(こうぼうだいしせんひゃくごじゅうねんごおんき)に当たる(あたる)、昭和五十九年(しょうわごじゅうくねん)(一六八四)十月(じゅうがつ)でしたから、次(つぎ)の開帳(かいちょう)は平成四十六年(へいせいよんじゅうろくねん)(二〇三四)になるのです。
 安房国内(あわこくない)の札所(ふだしょ)は全市町村(ぜんしちょうそん)に分布(ぶんぷ)し、一番(いちばん)の紫雲寺(しうんじ)(白浜町滝口(しらはままちたきぐち))から、八十八番(はちじゅうはちばん)の法界寺(ほうかいじ)(白浜町島崎(しらはままちしまざき))まで続いて(つづいて)います。富浦町(とみうらまち)では、深名(ふかな)の常光寺(じょうこうじ)と南無谷(なむや)の海光寺(かいこうじ)が札所(ふだしょ)です。なお、江戸時代(えどじだい)までは深名(ふかな)の文珠堂(もんじゅどう)が、二十六番(にじゅうろくばん)の札所(ふだしょ)だったのですが、何時(いつ)の頃(ころ)か廃寺(はいじ)となり、常光寺(じょうこうじ)がそれに代り(かわり)ました。
 
 
神社参拝(じんじゃさんぱい)のうた
 我が国(わがくに)は、昭和十六年(しょうわじゅうろくねん)(一九四一)十二月八日(じゅうにがつようか)に、大東亜戦争(だいとうあせんそう)を起し(おこし)ましたが、戦況(せんきょう)が怪しく(あやしく)なってきますと、国中(くにじゅう)に、我が(わが)日本(にっぽん)は神国(しんこく)だから、国(くに)の存亡(そんぼう)の際(さい)には神々(かみがみ)が蒙古襲来(もうこしゅうらい)の時(とき)のように神風(かみかぜ)を吹かせ(ふかせ)、国(くに)をお救い(すくい)くださるという風評(ふうひょう)が流れ(ながれ)ました。
 富浦(とみうら)の子供達(こどもたち)も皆(みな)それを信じ(しんじ)、日曜日(にちようび)になりますと、各地区(かくちく)の氏神様(うじがみさま)へ集まって(あつまって)掃除(そうじ)を行い(おこない)、日本(にっぽん)が戦争(せんそう)に勝つ(かつ)ようお祈り(いのり)をしたのですが、その時(とき)、学校(がっこう)の指導(しどう)を受けて(うけて)、「神社参拝(じんじゃさんぱい)のうた」を歌い(うたい)ました。
 
 
○この歌(うた)の歌詞(かし)は、南無谷(なむや)の鎌田八壽江(かまたやすえ)さんの家(いえ)に保存(ほぞん)されていたものですが、今(いま)の小学生(しょうがくせい)には理解(りかい)できないような内容(ないよう)ですね。歌詞(かし)・作曲(さっきょく)は誰(だれ)なのか、富浦(とみうら)の小学生(しょうがくせい)だけが歌った(うたった)ものなのか、何れ(いずれ)も分からない(わからない)そうです。


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