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宮本(みやもと)の棒術(ぼうじゅつ)
 多田良地区(ただらちく)のお祭り(まつり)になりますと、三つ道具(みつどうぐ)と呼ぶ(よぶ)、棒術(ぼうじゅつ)・獅子神楽(ししかぐら)・鞨鼓舞(かっこまい)が演じられ(えんじられ)ますね。今(いま)の富浦町内(とみうらちょうない)では唯一存在(ゆいいつそんざい)する、すばらしい民俗芸能(みんぞくげいのう)ですが、お祭り(まつり)の余興物(よきょうぶつ)として屋台(やたい)や神輿(みこし)がなかった頃(ころ)の昔(むかし)は、どこの地区(ちく)でも盛ん(さかん)に演じられて(えんじられて)いたのです。
 棒術(ぼうじゅつ)の話(はなし)になりますが、宮本地区(みやもとちく)でも、昔(むかし)、演じられて(えんじられて)いました。流派(りゅうは)は鹿島流(かしまりゅう)と言い(いい)、六尺棒(ろくしゃくぼう)・刀(かたな)・槍(やり)・鎖鎌(くさりがま)を使って(つかって)二人組(ふたりぐみ)で演じ(えんじ)、棒対棒(ぼうたいぼう)・棒対刀(ぼうたいかたな)・棒対槍(ぼうたいやり)・棒対鎖鎌(ぼうたいくさりがま)の技(わざ)が十五通り(じゅうごとおり)もありました。
 演技(えんぎ)に使った(つかった)六尺棒(ろくしゃくぼう)は木製(もくせい)でしたが、刀(かたな)と槍(やり)と鎖鎌(くさりがま)は本物(ほんもの)でしたから、打ち込み(うちこみ)や受け(うけ)の動作(どうさ)で双方(そうほう)の呼吸(こきゅう)が合わない(あわない)と大怪我(おおけが)をしましたので、相手(あいて)に打ち掛かる(うちかかる)時(とき)の掛け声(かけごえ)まで決めて(きめて)ありました。上段(じょうだん)から打ち込む(うちこむ)時(とき)は「トウー」、足払い(あしばらい)をする時(とき)は「ヒャー」でした。
 棒術(ぼうじゅつ)の名人(めいじん)は、寺谷(てらやつ)(屋号(やごう))の爺(じい)さんだったそうですが、その爺(じい)さんは眉(まゆ)の吊り上った(つりあがった)凛凛しい(りりしい)顔(かお)の持ち主(もちぬし)で、迫力(はくりょく)のある演技(えんぎ)をしましたので、何時(いつ)も見物人(けんぶつにん)を熱狂(ねっきょう)させたそうです。
 宮本地区(みやもとちく)の棒術(ぼうじゅつ)が消えた(きえた)のは明治二十年(めいじにじゅうねん)(一八八七)てす。宮本天満宮(みやもとてんまんぐう)に、担ぎ屋台(かつぎやたい)が完成(かんせい)(今(いま)の富浦町内(とみうらちょうない)、祭り屋台(まつりやたい)の第一号(だいいちごう))したのを機会(きかい)に止めた(やめた)からです。
 
 
青砥権現(あおとごんげん)
 青砥権現(あおとごんげん)という珍しい(めずらしい)神名(しんめい)の石祠(せきし)が、宮本(みやもと)の字(あざ)・堂入(どういり)の山中(さんちゅう)にあります。この石祠(せきし)は、江戸時代(えどじだい)の文政年間(ぶんせいねんかん)(一八一八〜一八三〇)に、宮本天満宮(みやもとてんまんぐう)の神主(かんぬし)・生稲織部(いくいなおりべ)が祀った(まつった)ものです。
 祭神(さいじん)の青砥権現(あおとごんげん)(地元(じもと)では青っ様(あおっさま)と呼ぶ(よぶ))は、どんな神(かみ)かと言い(いい)ますと、日本古来(にほんこらい)の八百万(やおよろず)の神(かみ)ではなく、鎌倉中期(かまくらちゅうき)に、幕府(ばくふ)の執権北条時頼(しっけんほうじょうときより)へ仕えた(つかえた)青砥藤綱(あおとふじつな)と言う(いう)武士(ぶし)です。
 藤綱(ふじつな)は上総国(かずさのくに)の出身(しゅっしん)で清廉潔白(せいれんけっぱく)。幕府(ばくふ)の訴訟(そしょう)の審理(しんり)などを行う(おこなう)引付衆(ひきつけしゅう)と言う(いう)要職(ようしょく)を務め(つとめ)、人生(じんせい)の教訓(きょうくん)となる有名(ゆうめい)な話(はなし)を幾つ(いくつ)も残して(のこして)います。
 その話(はなし)の一つ(ひとつ)ですが・・・。
 「藤綱(ふじつな)がある時(とき)、鎌倉(かまくら)の滑川(なめりかわ)で銭十文(ぜにじゅうもん)を落し(おとし)ました。拾い上げよう(ひろいあげよう)としましたが、水(みず)が深く(ふかく)川底(かわぞこ)には砂利(じゃり)がいっぱいありましたので、どこに落ちて(おちて)いるか分かり(わかり)ません。しかし藤綱(ふじつな)は、天下(てんか)の財(ざい)である銭(ぜに)が失われる(うしなわれる)のを惜しみ(おしみ)、五十文(ごじゅうもん)の費用(ひよう)を使い(つかい)探させ(さがさせ)ました。」
 わずか十文(じゅうもん)の銭(ぜに)を探す(さがす)ため、何で(なんで)五十文(ごじゅうもん)も使わねば(つかわねば)と、表面的(ひょうめんてき)な損得(そんとく)だけで物事(ものごと)を考える(かんがえる)人(ひと)への教訓(きょうくん)として、今(いま)でも語られて(かたられて)いる話(はなし)ですね。神主(かんぬし)の織部(おりべ)は、その話(はなし)を知って(しって)深く(ふかく)感じ(かんじ)、青砥藤綱(あおとふじつな)を神(かみ)として祀った(まつった)のでしょう。
 
 
高森大神宮(たかもりだいじんぐう)
 大津(おおつ)の字(あざ)・袈裟丸(けさまる)の山頂(さんちょう)に、宮本城(みやもとじょう)の鬼門除け(きもんよけ)の神(かみ)と言われる(いわれる)石宮(いしみや)があります。
 鬼門(きもん)とは、鬼(おに)が出入(でいり)すると言って(いって)、陰陽道(おんみょうどう)で忌み嫌う(いみきらう)丑寅(うしとら)、つまり北東(ほくとう)の方角(ほうがく)ですが、石宮(いしみや)は、宮本城(みやもとじょう)の里見氏(さとみし)がお祀り(まつり)した神(かみ)で、高森大神宮(たかもりだいじんぐう)とお呼び(よび)します。
 宮本城(みやもとじょう)は戦国大名里見氏(せんごくだいみょうさとみし)が築いた(きずいた)のですが、敵(てき)は上総(かずさ)にあって、北方(ほっぽう)より攻め寄せる(せめよせる)と考えて(かんがえて)いましたから、城(しろ)の北側(きたがわ)を特(とく)に堅固(けんご)にしてあります。しかし北東(ほくとう)の方角(ほうがく)には、敵側(てきがわ)が城(しろ)を攻め易い(せめやすい)地形(ちけい)の山(やま)の尾根(おね)が続いて(つづいて)いるのです。里見氏(さとみし)は、どんな願い(ねがい)を込めて(こめて)高森大神宮(たかもりだいじんぐう)をお祀り(まつり)していたのでしょうね・・・。
 宮本城(みやもとじょう)も里見氏(さとみし)も遠い(とおい)昔(むかし)に滅び(ほろび)ましたが、高森大神宮(たかもりだいじんぐう)は地元(じもと)の大津(おおつ)・松山組(まつやまぐみ)の住民(じゅうみん)が代々(だいだい)守って(まもって)きました。今(いま)も祭日(さいじつ)の二月七日(にがつなのか)には早朝(そうちょう)に境内(けいだい)へ集まり(あつまり)、清掃(せいそう)を済ませて(すませて)、お神酒(みき)を供え(そなえ)、そして高森大神宮(たかもりだいじんぐう)と大書(たいしょ)した幟(のぼり)を立てる(たてる)と、宿番(やどばん)の家(いえ)で、お籠り(こもり)をするのです。
 そのような信仰(しんこう)篤い(あつい)松山組(まつやまぐみ)の人(ひと)たちに、高森大神宮(たかもりだいじんぐう)のお加護(かご)が無い(ない)筈(はず)はありませんね。
 古老(ころう)の話(はなし)ですが、大昔(おおむかし)から大津(おおつ)は火災(かさい)の多い(おおい)集落(しゅうらく)だったのに、松山組(まつやまぐみ)だけは火災(かさい)が起きない(おきない)とか、日清(にっしん)、日露(にちろ)や大東亜戦争(だいとうあせんそう)の時(とき)、出征(しゅっせい)した兵士(へいし)に一名(いちめい)の戦死者(せんししゃ)も出なかった(でなかった)というのです。
 
 
丹生(にゅう)の薬師如来(やくしにょらい)
 
 霊験(れいけん)あらたかな、丹生(にゅう)の東福寺薬師如来(とうふくじやくしにょらい)(安房国薬師霊場(あわのくにやくしれいじょう)・南口十番札所(みなみぐちじゅうばんふだしょ))の御詠歌(ごえいか)ですが、この薬師如来(やくしにょらい)には、大正十二年(たいしょうじゅうにねん)(一九二五)の関東大震災(かんとうだいしんさい)の時(とき)、集落(しゅうらく)の子供(こども)を救った(すくった)という、ありがたい話(はなし)が伝えられて(つたえらえて)います。
 大震災(だいしんさい)の起きた(おきた)九月一日(くがついちにち)に、十五人(じゅうごにん)ほどの子供(こども)が東福寺(とうふくじ)のお堂(どう)で遊んで(あそんで)いますと、不思議(ふしぎ)な事(こと)ですが、お昼近く(ひるちかく)なった頃(ころ)、突然(とつぜん)、薬師如来(やくしにょらい)が、「早く(はやく)出なさい(でなさい)。」とお叫び(さけび)になり、子供(こども)を皆(みな)、お堂(どう)の下(した)の道(みち)まで転がし(ころがし)、降ろして(おろして)しまわれたのです。
 びっくりした子供(こども)たちが、今(いま)まで遊んで(あそんで)いたお堂(どう)を見上げ(みあげ)ますと、恐ろしい(おそろしい)ほど地面(じめん)が揺れ始め(ゆれはじめ)、そのお堂(どう)が目の前(めのまえ)へ倒れて(たおれて)来た(きた)のです。しかし誰(だれ)も、薬師如来(やくしにょらい)のお蔭(かげ)で怪我(けが)をしませんでした。
 一方(いっぽう)、親(おや)たちは、そうとは知り(しり)ませんから子供(こども)がお堂(どう)に潰されて(つぶされて)いると思い(おもい)、半狂乱(はんきょうらん)になって駆け付けて(かけつけて)来ました(きました)が、皆無事(みなぶじ)だと分かり(わかり)、大喜び(おおよろこび)をしました。
 丹生(にゅう)の人(ひと)たちは、その時(とき)の事(こと)がよほど嬉しかった(うれしかった)に違い(ちがい)ありませんね。ですから世代(せだい)が変わった(かわった)今(いま)でも、皆(みな)が東福寺(とうふくじ)の薬師如来(やくしにょらい)を深く(ふかく)信じ(しんじ)尊んで(とうとんで)いるのです。
 
 
薬師(やくし)の罰(ばち)
 昔(むかし)むかし、ある家(いえ)に住んで(すんで)いた婆さん(ばあさん)が、近所(きんじょ)の人(ひと)たちと十二薬師(じゅうにやくし)(安房国(あわのくに)・南口(みなみぐち))の巡礼(じゅんれい)に出掛け(でかけ)ました。
 その婆さん(ばあさん)は体(からだ)が達者(たっしゃ)でしたから、何時(いつ)も大きな(おおきな)声(こえ)で御詠歌(ごえいか)を唱え(となえ)ながら、巡礼仲間(じゅんれいなかま)の先頭(せんとう)を歩いて(あるいて)いましたが、ある薬師堂(やくしどう)の近く(ちかく)で、お金(かね)の入った(はいった)巾着(きんちゃく)が落ちて(おちて)いるのを見付けた(みつけた)のです。
 せっかく清らか(きよらか)な心(こころ)で薬師(やくし)の巡礼(じゅんれい)をしていたのに、魔(ま)が差した(さした)のか婆さん(ばあさん)は、その巾着(きんちゃく)を、他(ほか)の人(ひと)に見えない(みえない)よう足(あし)で踏み隠す(ふみかくす)と、急いで(いそいで)自分(じぶん)の懐(ふところ)に入れて(いれて)しまいました。懐(ふところ)の中(なか)の巾着(きんちゃく)は、ずっしりと重く(おもく)、沢山(たくさん)のお金(かね)が入って(はいって)いるように思え(おもえ)ました。
 家(いえ)に帰った(かえった)婆さん(ばあさん)は、納戸(なんど)に入り(はいり)ますと早速(さっそく)巾着(きんちゃく)のお金(かね)を出して(だして)見ました(みました)。そのお金(かね)には自分(じぶん)の家(いえ)へ一度(いちど)も入って(はいって)来た(きた)事(こと)のない五十銭銀貨(ごじゅっせんぎんか)が、何枚(なんまい)も含まれて(ふくまれて)いましたので、すっかり嬉しく(うれしく)なり、幾ら(いくら)あるかと何度(なんど)も数え(かぞえ)ました。そして次ぎ(つぎ)の日(ひ)からは、一日中(いちにちじゅう)納戸(なんど)に籠り(こもり)、巾着(きんちゃく)のお金(かね)を数える(かぞえる)ようになってしまいました。
 拾った(ひろった)お金(かね)を警察(けいさつ)に届ければ(とどければ)良かった(よかった)のですが、そうしなかったから、そんな可笑しい(おかしい)事(こと)になってしまったのです。間(ま)もなく婆さん(ばあさん)の家(いえ)に薬師(やくし)の罰(ばち)が当たり(あたり)、病人(びょうにん)が絶えない(たえない)ようになりました。
 


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