真勝寺観音和讃(しんしょうじかんのんわさん)
青木(あおき)の真勝寺(しんしょうじ)に、『真勝寺観音和讃(しんしょうじかんのんわさん)』が伝えられて(つたえられて)います。
和讃(わさん)とは、仏(ほとけ)・菩薩(ぼさつ)、教法(きょうほう)の徳(とく)を和語(わご)(日本語(にほんご))で褒め称えた(ほめたたえた)歌(うた)の事(こと)で、平安時代(へいあんじだい)から江戸時代(えどじだい)まで盛ん(さかん)に作られ(つくられ)、どこの寺院(じいん)でも集まった(あつまった)信徒(しんと)が、聞いたり(きいたり)唱えたり(となえたり)していたのです。真勝寺(しんしょうじ)の和讃(わさん)も読んで(よんで)みますと、寺(てら)の由来(ゆらい)や本尊(ほんぞん)の仏徳(ぶっとく)が分かり(わかり)ます。
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元禄地震(げんろくじしん)を記す(しるす)棟札(むなふだ)
江戸時代(えどじだい)の元禄十六年(げんろくじゅうろくねん)(一七〇三)十一月二十三日(じゅういちがつにじゅうさんにち)に起きた(おきた)大地震(だいじしん)は、小田原(おだわら)、江戸(えど)を中心(ちゅうしん)に、家屋(かおく)の倒壊(とうかい)が二万戸(にまんこ)を数えた(かぞえた)と言い(いい)ますが、富浦(とみうら)でも、震源(しんげん)が房総半島(ぼうそうはんとう)の野島崎沖(のじまざきおき)でしたから、大きな被害(ひがい)があったに違いない(ちがいない)ですね。
深名(ふかな)の常光寺(じょうこうじ)に、元禄地震(げんろくじしん)のとき半壊(はんかい)した薬師堂(やくしどう)を再建(さいけん)した棟礼(むなふだ)が残って(のこって)いますので、地震(じしん)のことばかりでなく、当時(とうじ)の様子(ようす)を知る(しる)上(うえ)でいろいろと参考(さんこう)になりますので転記(てんき)してみました。
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この棟礼(むなふだ)の銘文(めいぶん)を読み(よみ)ますと、当時(とうじ)は、今(いま)の大半津(だいはんづ)の集落(しゅうらく)を大般村(だいはんむら)と呼んで(よんで)いたようですね。
寛文十一年(かんぶんじゅういちねん)(一六七一)に頼残(らいざん)という大和尚(だいおしょう)の建てた(たてた)薬師堂(やくしどう)が、元禄十六年(げんろくじゅうろくねん)(一七〇三)十一月(じゅういちがつ)の夜(よる)、大地震(おおじしん)で半壊(はんかい)したので、仲尾川(なかおがわ)と大般(だいはん)の村人(むらびと)たちが、村(むら)の「たま」「ひめ」など六名(ろくめい)の少女(しょうじょ)に、念佛(ねんぶつ)に節(ふし)をつけて歌わせ(うたわせ)ながら門付け(かどづけ)をさせ、資金(しきん)を集め(あつめ)、宝永元年(ほうえいがんねん)(一七〇四)十二月(じゅうにがつ)、今(いま)までの場所(ばしょ)とは違った(ちがった)ところにお堂(どう)を再建(さいけん)した事(こと)が分かり(わかり)ます。
永く(ながく)後世(こうせい)まで語り継がれる(かたりつがれる)ほどの大地震(おおじしん)で、村中(むらじゅう)の家屋(かおく)が倒壊(とうかい)したと思われる(おもわれる)のに、僅か(わずか)一年(いちねん)でお堂(どう)の再建(さいけん)を為し遂げた(なしとげた)のは、当時(とうじ)の人(ひと)たちが、みんな篤い(あつい)信仰心(しんこうしん)を持って(もって)いたからですね。
山形県(やまがたけん)にある、月山(がっさん)・湯殿山(ゆどのさん)・羽黒山(はぐろさん)は、出羽三山(でわさんざん)と呼ばれ(よばれ)、紀州熊野山(きしゅうくまのさん)と同様(どうよう)に修験道(しゅげんどう)の山(やま)として、昔(むかし)から安房(あわ)の人(ひと)たちも信仰(しんこう)してきました。
八束(やつか)にも、江戸時代(えどじだい)に精進潔斎(しょうじんけっさい)をして水垢離(みずごり)をとり、出羽三山(でわさんざん)へ参詣(さんけい)の旅(たび)に出た(でた)という話(はなし)か残って(のこって)いますが、その頃(ころ)の旅(たび)は、すべて歩行(ほこう)でしたから、参詣(さんけい)を終えて(おえて)家(いえ)に帰る(かえる)のは四十日余り(よんじゅうにちあまり)も後(あと)であり、信仰(しんこう)のためとはいえ、たいへんだったようです。したがって、出羽三山(でわさんざん)の参詣(さんけい)に行こう(いこう)とする人は、精神(せいしん)も肉体(にくたい)も強靭(きょうじん)であり、その上(うえ)、経済的(けいざいてき)にも恵まれて(めぐまれて)いなければなりませんので、誰(だれ)でもという訳(わけ)にはいきません。それだけに、参詣(さんけい)を終えて(おえて)無事(ぶじ)に家(いえ)へ帰って来た(かえってきた)人(ひと)は、それを誇り(ほこり)にして、後世(こうせい)まで伝えよう(つたえよう)と、記念碑(きねんひ)を建てた(たてた)のです。
富浦町(とみうらまち)には、四ヶ所(よんかしょ)、出羽三山(でわさんざん)の碑(ひ)があります。何故(なぜ)か八束地区(やつかちく)にしかありませんが、古い(ふるい)年代(ねんだい)の順(じゅん)に言い(いい)ますと、
1. 深名真瀬口(ふかなませぐち)。自然石(しぜんせき)の正面中央(しょうめんちゅうおう)に湯殿山(ゆどのさん)、右(みぎ)に月山(がっさん)、左(ひだり)に羽黒山(はぐろやま)と刻まれて(きざまれて)います。享和元酉年(きょうわがんとりどし)(一八〇一)七月吉日(しちがつきちじつ)に、羽山甚五衛門(はやまじんごえもん)・明星長右衛門(あけぼしちょううえもん)・羽山佐治兵衛(はやまさじべえ)・渡辺佐右衛門(わたなべさうえもん)が建て(たて)ました。
2. 宮本永福寺(みやもとようふくじ)。丸彫形(まるぼりがた)の大日如来(だいにちにょらい)(頭部破損(とうぶはそん))があり、その台座(だいざ)の正面中央(しょうめんちゅうおう)に月山(がっさん)、右(みぎ)に羽黒山(はぐろさん)、左(ひだり)に湯殿山(ゆどのさん)と刻まれて(きざまれて)います。享和元酉年(きょうわがんとりどし)(一八〇一)八月(はちがつ)に、生稲茂左衛門(いくいなしげざえもん)が建て(たて)ました。大日如来(だいにちにょらい)は、出羽三山(でわさんざん)の本地仏(ほんじぶつ)です。この碑(ひ)は、中央(ちゅうおう)の文字(もじ)が湯殿山(ゆどのさん)でなく、月山(がっさん)になっているため、たいへん珍しい(めずらしい)例(れい)だといわれています。
3. 深名御霊社跡(ふかなごりょうしゃあと)。自然石(しぜんせき)の正面中央(しょうめんちゅうおう)に湯殿山(ゆどのさん)、右(みぎ)に月山(がっさん)、左(ひだり)に羽黒山(はぐろさん)と刻まれて(きざまれて)います。文政二卯(ぶんせいにう)(一八一九)に、安倍与五衛門(あべよごえもん)・羽山甚右衛門(はやまじんうえもん)・石井清兵衛(いしいせいべえ)・渡辺佐衛門(わたなべさえもん)が建て(たて)ました。この碑(ひ)は風化(ふうか)が進んで(すすんで)います。
4. 深名山岸(ふかなやまぎし)。丸彫形(まるぼりがた)の大日如来像(だいにちにょらいぞう)と、自然石(しぜんせき)の碑(ひ)で一対(いっつい)になっています。自然石(しぜんせき)の正面中央(しょうめんちゅうおう)に、湯殿山(ゆどのさん)、右(みぎ)に月山(がっさん)、左(ひだり)に羽黒山(はぐろさん)と刻まれ(きざまれ)、脇(わき)に、天保十二年(てんぽうじゅうにねん)(一八四一)辛丑仲春下幹建鴛(かのえうしちゅうしゅんげかんこんえん)の小文字(しょうもじ)が刻まれて(きざまれて)います。丑年(うしどし)は出羽三山(でわさんざん)の縁年(えんねん)です。なお、ここに祀られて(まつられて)いる大日如来像(だいにちにょらいぞう)は、お顔(かお)もお姿(すがた)も、富浦町(とみうらまち)では一番(いちばん)美しい(うつくしい)大日如来像(だいにちにょらいぞう)です。
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